第41話 登録名はノワ
迷宮に入る前に、やることが二つあった。
一つ目は、外套を黒くすることだ。
俺の外套は、ネロのお古だ。灰色で、すそがほつれていて、ひじに当て布がしてある。ロウエンでは、これで十分だった。
でも、ここは王都だ。
仮面の冒険者が、灰色の外套。締まらない。仮面が黒なら、外套も黒。ここは譲れない。
市場で染め粉を一袋買った。いちばん安いやつだ。
夜。寮の半地下の従者部屋で、桶にお湯を張った。窓は天井近くに一つだけ。せまい部屋に、鼻をつくにおいがたちこめた。
「……におう」
リルが、両手で鼻をおさえた。
「我慢してくれ。漆黒には、犠牲がつきものだ」
「しっこく?」
「黒いってことだ」
外套を沈めて、棒でかき混ぜる。灰色が、ゆっくり墨の色になっていく。
かき混ぜながら、俺はリルに決まりごとを言い聞かせた。
「いいか。迷宮とギルドでは、俺はノワールだ」
「ノワール」
「ノワールは、人前でしゃべらない。受付でも、酒場でも。しゃべるのは、リルの役目だ」
「なんで、しゃべらないの」
「かっこいいからだ」
リルは、じっと俺を見た。
「……あと、声が子どもだからだ」
「そっちが、ほんと」
見抜かれている。
「それと、外では『ティオさま』も『ティオ』もなしだ。俺のことは、主と呼べ」
「あるじ」
「そう。練習だ。受付の人に、何て言う」
「あるじの、とうろく、おねがいします」
「完璧だ」
リルは得意そうに胸を張った。それから、手伝うと言って袖をまくった。止める間もなく、両手を桶に突っこんだ。
引き上げた手は、手首まで真っ黒だった。
「……とれない」
「三日はとれないな、それ」
リルは自分の手をじっと見て、それから、ぱっと顔を上げた。
「ティオと、おそろい」
尻尾が、ばたばたと床をはいた。
……まあ、いいか。従者服の手袋で隠れる。
* * *
二つ目は、ギルドの届けだ。
俺の冒険者登録は、ロウエンのギルドにある。王都で素材を売るには、王都のギルドに届けを出さないといけない。
光の日の放課後。
俺は校舎の裏で仮面をつけた。ひびは昨日、直しておいた。染めたての黒い外套をはおり、フードもかぶる。
リルは、マントのフードで耳を隠した。首には、本物の奴隷の首輪。学園では襟の高い従者服で隠しているけれど、今日は見えるようにしておく。
王都のギルドは、東の市場のそばにあった。石造りの三階建て。ロウエンの木造とは大違いだ。
中は、人と声でいっぱいだった。鎧の音。酒のにおい。依頼の紙がびっしり貼られた掲示板。
(来た。王都のギルドだ)
胸が、どくどく鳴った。
ここで俺は、名を上げる。漆黒の地導師ノワール。いつか王都中が、その名をささやく。
……今のところ、ささやかれているのは別のことだった。
「おい、見ろよ。仮面だぜ」
「ちっせえな。連れてるの、獣人の奴隷か」
酒場の席から、じろじろと視線が飛んでくる。リルの首輪に目をとめて、鼻で笑うやつもいた。
リルの耳が、フードの中でぴくりと動いた。うなり声が出る前に、俺はリルの背中に手を当てた。
大丈夫だ。こういう目には、ロウエンで慣れている。
受付の列に並んだ。
俺たちの前は、大きな剣を背負った若い男だった。男は、カウンターに身を乗り出して言った。
「登録の名前、変えてくれ。『疾風のガルド』にしたいんだ」
「二つ名は登録できません」
受付の女の人は、顔も上げずに答えた。きっちり結った髪に、細い眼鏡。名札には「エルザ」とある。
「そこをなんとか」
「登録名はガルドさんです。次の方」
男は、肩を落として去っていった。
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
(……いや、まだだ。俺の場合は、二つ名じゃない。名前の一部だ)
俺の番が来た。
ギルド証をカウンターに置く。銅の札だ。
「ロウエンから、来ました。あるじの、とうろく、おねがいします」
練習どおりだ。
「はい。拝見します」
エルザさんは札を手に取って、彫られた文字を読み上げた。
「ロウエン登録、Eランク。ノワさん、ですね」
俺は固まった。
リルが、俺の外套のすそを一回引いた。打ち合わせどおりだ。
「あるじの、名前は、ノワール、です」
「登録名はノワです」
「ノワール、です」
「登録名は、ノワです。変更はできません」
エルザさんは、やっと顔を上げた。眼鏡の奥の目は、まったく揺れていなかった。
俺は、カウンターのペンを借りた。紙のすみに、大きく書く。
『ノワール』
エルザさんは、その紙をちらりと見た。
「登録名の変更には、登録地のギルド長の印が要ります。ロウエンまで行ってきますか?」
乗合馬車で十日だ。
俺は、紙をそっと引っこめた。
(ペトラさん……あの日の判子が、王都まで追いかけてくる)
エルザさんは台帳に何か書きこみ、それから、俺の札を裏返した。すみに、小さな刻印がある。見習いのしるしだ。
「それと、見習いの印は外しておきますね。登録から、もうすぐ三年になりますので」
小さな道具で、刻印がきゅっと削られた。
戻ってきた札を、俺は両手で受け取った。
銅の札に、「ノワ」の二文字。ランクはE。見習いの印は、もうない。
仮面の奥で、俺はその二文字をにらんだ。
にらんで、にらんで、それから口のはしが勝手に上がった。
名前は短い。でも、もう見習いの札とは違う。本物の、仮面の冒険者の札だ。
リルが、小声で言った。
「……ノワ、も、かわいい」
かわいさは求めていない。
エルザさんは、もう次の書類に目を落としていた。
「はい、ノワさん。次の方」




