第38話 傾いた黒壁
朝、寮の玄関で、リルが俺の襟を直した。
「ティオさま。がんばって、ください」
それから、身をかがめて、耳もとで小声になった。
「……どーんって、やるの?」
「やらない。ちびちびだ」
「ちびちび」
リルは、まじめな顔でうなずいた。よく分かっていない顔だった。
* * *
演習場のまわりに、Sクラスの全員が集まっていた。
柵の外には、従者たちの列。その端で、灰色の耳が揺れている。
先生は、柵のそばの木箱に腰かけていた。手には、酒瓶と、大きな砂時計。
「はーい、ルールー。一対一。砂時計がひと回りするまで。ちゃんと当てたら一本。倒れたら終わり。危なくなったら、私が止める。判定は、出力と技を見て私が決めるー。以上ー」
説明が短すぎる。
先に、ほかの組が戦った。
セシリアは、ドミニクの足を氷で床にはりつけて、一本取った。ドミニクは、がははと笑いながら、氷ごと床をはがそうとしていた。ノエルとミレイユの組は、どっちも攻撃する魔法がなくて、引き分けになった。
ベルントとオリヴィアの組では、ベルントの水がまた暴れた。演習場の半分が水たまりになり、オリヴィアは「すごい、どうなってるの!」と大喜びで水たまりに飛びこんだ。お付きの人が、柵の外で青くなっていた。
クラウスとイリスの組は、静かだった。イリスのまわりが、ふっと暗くなる。クラウスの風が、その暗がりを払おうとする。どっちも決め手がないまま、砂時計が落ちた。
「……論理的に言って、見えない相手は殴れない」
「……そう」
二人とも、ちょっとだけ満足そうだった。
そして、最後の組。
「レオン・ブラントと、0.3ー」
俺は、演習場に入った。
学友たちの声が聞こえた。
「0.3、死ぬなよー」
「がはは! ティオ、がんばれ!」
「ティオ、これ、終わったら食べて」
ベルントが、柵ごしに焼き菓子を振っている。ミレイユは、鉢植えを高くかかげていた。応援、らしい。
反対側に、赤い髪の少年が立った。練習用の剣を、まっすぐ構えている。
「手加減しねえぞ、0.3」
「知ってる」
「落第しても、恨むなよ」
「恨まない」
レオンは、ちょっと意外そうな顔をした。それから、ふんと鼻を鳴らした。
「……変な奴」
俺は、相手の足もとを見た。
右足が、半歩うしろに引かれている。始めの一歩を、大きくふみこむ構えだ。
俺は、何も持っていない。両手は空っぽだ。
燃料は、三回。
「はーい、始めー」
先生が、砂時計をひっくり返した。
* * *
レオンは、ふみこまなかった。
その場で、剣を振りかぶった。
初めから、火で来る気だ。
柵の外で、灰色の尻尾がぴんと立った。
においが、ふくらんだ。
俺は、つま先で地面を叩いた。とん、とん。
「――終焉の黒壁!」
目の前の砂が、ずん、と起き上がった。
今日の壁は、人の背丈ほどある。
そして、まっすぐ立っていない。
俺の目の前の砂が、うしろへ倒れかかるように、斜めに盛り上がった。屋根の片側みたいな形だ。厚さは、手のひらくらいしかない。
レオンの剣が振り下ろされた。
半拍おくれて、火が来た。
赤い炎が、斜めの壁にぶつかる。
ぶつかって――すべった。
炎は、壁の表面をなめるように駆け上がっていった。そのまま、壁のてっぺんから空へ抜けていく。熱い風が、俺の髪をばさばさ揺らした。
壁のうしろの俺には、火の粉ひとつ届かなかった。
演習場が、しんとなった。
「……今の、なに」
「火が、上に、逃げた?」
ざわめきの中で、クラウスの声がはっきり聞こえた。
「角度だ。受け止めていない。……流している」
セシリアが、柵をつかんでいた。
「斜め……。薄いのに、割れていない……」
ふと見ると、先生の手が止まっていた。
酒瓶を口もとまで持ち上げたまま、飲んでいない。眠そうな目が、俺の壁をじっと見ていた。
それは、ほんの一瞬だった。先生はすぐに、酒をぐびりと飲んだ。
* * *
俺の魔力では、分厚い壁は作れない。だから、薄くした。そのかわり、壁の表面を、砂つぶ一つぶんの段差もないくらい、なめらかに固めた。火が、引っかからずにすべっていくように。
練度だけで作った壁だ。
半年前、黒樹海のふちで、大鬼の前に立ったことがある。あのとき俺は、人の背丈の壁を立てようとして、魔力が尽きかけた。分厚く、まっすぐ、全部を受け止める壁を作ろうとしたからだ。
「なんだ、それ!」
演習場に、叫び声が響いた。
「なんで、俺の火が、上に行く!」
「行きたかったんだろ」
「ふざけんな!」
剣に、さっきより大きな火がまとわりついた。レオンの顔が真っ赤だ。
今度は、剣を低く構えた。壁の根もと。いちばん固めにくいところを狙っている。
熱血だけど、ばかじゃない。
尻尾が、また立った。
剣が、下から斜めに振り上げられる。
半拍。
その半拍のあいだに、俺は壁の角度を、指一本ぶんだけ変えた。根もとに当たる火を、横へ逃がす角度だ。壁を立て直すより、ずっと魔力が少なくてすむ。
火が来た。
さっきより、ずっと大きい。ずっと熱い。
炎は、また壁にそって流れた。横へ、柵のない砂地のほうへ。
でも、全部は流れきらなかった。
ぴしっ、と音がした。
壁の真ん中に、白いひびが走った。
ひびのまわりの土が、熱で赤くなっている。そこから、細かい砂がぱらぱらとこぼれ落ちた。
俺は、ひびを見ながら、頭の中で数えた。
燃料は、あと二回。




