第29話 十日の乗合馬車
一月。出発の前の夜。
俺は、廃屋のすみで、貯金の袋の中身を床に並べた。
銀貨が十二枚。
二年半、闇の日ごとに森のふちへ通って、ためた金だ。どぶの泥から銅貨を三枚選り出していたころを思えば、夢みたいな額だった。
これで、王都までの馬車代を二人ぶん払う。試験を受けるための宿代と、受付の金も払う。リルの従者部屋の、最初のひと月ぶんも。残りは、たぶんほとんどない。
それでも、俺は銀貨を二枚、別にした。
廃屋の奥では、孤児たちが一つの毛布に固まって寝ている。今年の冬も寒い。屋根は直した。井戸の桶も、まだ働いている。でも、薪と芋は、いつだって足りない。
俺は、その二枚を持って、外に出た。
* * *
ネロは、廃屋の前の段に座っていた。
ネロは十七歳になった。もう市場の荷運びのまとめ役だ。それでも夜は、毎日この廃屋に帰ってくる。
「ネロ。これ」
銀貨を二枚、差し出した。
ネロは、俺の手のひらを見た。それから、俺の顔を見た。
「なんだそれ」
「みんなの、冬のぶん。薪とか、芋とか」
「いらねえ」
即答だった。
「でも」
「お前の金だろ。持ってけ」
「俺がいなくなったら、ここの屋根を直すやつもいなくなる。だから」
「屋根くらい、俺が直す」
「ネロ、下手じゃないか。前に直したとき、余計に穴が増えた」
「うるせえ」
ネロは、俺の手を、ぐいと押し返した。銀貨が、手のひらの中でちゃりんと鳴った。
「チビ。お前、世界を救うんだろ」
俺は、固まった。
それは、四歳のとき、泥玉を並べながら俺が言った言葉だ。ネロは、たっぷり三つ数えるくらい黙ってから、「そっか。がんばれよ」と言った。
覚えていたのか。
「世界を救うやつが、ここで銀貨二枚ばらまいてどうすんだ。王都で使え。自分のために」
ネロは、立ち上がった。俺の頭を、乱暴にぐしゃっとなでた。
「芋は、人数分ある。心配すんな」
それから、廃屋の中へ入っていった。
俺は、銀貨を握ったまま、しばらくそこに立っていた。
* * *
朝。
廃屋の入口で、ピアが待っていた。ピアは十一歳になった。毛布のかわりに、ショールを肩にかけている。小さい子たちの姉役だ。
「ティオ。これ」
差し出されたのは、小さな布の袋だった。黒い布で、口にひもがついている。
「仮面の入れもの。むき出しで持っていったら、割れるでしょ」
「……ピアが縫ったのか」
「わたし以外に、だれがいるの」
ピアは、ショールに顔を半分うずめた。
「王都で、変なことしないでね。……したら、ないしょにできないから」
「しない。たぶん」
「たぶん、なんだ」
ピアは、ちょっとだけ笑って、小指を立てた。
「ないしょね」
「ないしょだ」
小指をからめた。飴一個の約束から、もう七年たっていた。
* * *
北門へ行く途中で、ギルドに寄った。
ペトラさんは、受付台の向こうで、包みを二つ用意して待っていた。
「はい、弁当。十日ぶんは無理だから、最初の二日ぶんね」
「ありがとう、ございます」
「王都でも、ちゃんと食べなさいよ。……台帳は、ここに置いておくからね。ノワさんの登録地は、ずっとロウエンよ」
ペトラさんは、髪を耳にかけた。
「行ってらっしゃい、ノワさん」
* * *
北門には、乗合馬車が止まっていた。幌のついた大きな馬車だ。王都まで、十日かかる。
門のわきに、ブラント隊長が立っていた。
見送りに来てくれたのか、ただの見回りなのか。隊長は、どっちなのか言わなかった。
俺の前まで来て、隊長は足を止めた。
「行ってこい、ティオ」
……今、なんて言った。
坊主、じゃなかった。
初めて、名前で呼ばれた。
俺は、何か言おうとした。でも、のどがつまって、うまく声にならなかった。だから、ただ深く頭を下げた。
隊長は、ひげをなでた。それから、いつもの低い声で言った。
「腹をこわすなよ」
馬車が動き出した。
幌から身を乗り出すと、門の内側に、腕を組んだネロが見えた。その横で、ピアが大きく手をふっている。いつの間に来たのだろう。
となりで、リルがフードを押さえながら、同じように後ろを見ていた。
門が、だんだん小さくなっていった。
* * *
十日の旅だった。
毎晩、街道の宿場の雑魚寝部屋に泊まった。昼は、馬車に揺られて、ひたすら西へ。雪の野原。凍った川。知らない村の、知らない屋根。
リルは、窓のすき間から鼻を出して、ずっとにおいをかいでいた。
「ティオ。この村、パンを焼くにおい。……この川、魚のにおい」
リルが何かを見つけるたびに、俺も一緒にのぞきこんだ。
四日目の夜、雑魚寝部屋の天井を見ながら、俺は気がついた。
『四、ケモミミの仲間と旅をする』
叶っている。
今、まさに。
ノートに書いたときに思い描いていたのとは、だいぶ違う。剣も鎧もない。乗合馬車の固い椅子と、雑魚寝部屋の薄い毛布だ。
でも、となりで寝ているリルの耳が、ときどき寝ぼけてぴくぴく動くのを見ていたら、これはこれで、すごく正しい気がした。
* * *
十日目の昼、王都アルデンに着いた。
大きかった。
城壁は、ロウエンの倍くらい高い。門をくぐると、石だたみの大通りが、まっすぐ遠くまで続いている。人が多い。馬車が多い。店の看板が、どこまでも並んでいる。
俺とリルは、馬車を降りて、大通りに立った。
そして、すぐに気がついた。
見られている。
通りすぎる人たちが、ちらりとこっちを見る。俺じゃない。リルのほうだ。フードの下からのぞく灰色の耳と、首の首輪を。
「獣人の従者か。田舎者だな」
「首輪くらい、隠させればいいのに」
小さな声が、あちこちから聞こえた。
リルの耳が、フードの中で、ぺたんと伏せられた。
王都に着いて、試験の宿代と受付の金、リルの部屋のひと月ぶんを払うと、財布に残ったのは、銀貨二枚だった。
あとは、何もない。
知り合いもいない。帰る廃屋もない。
でも、となりにはリルがいる。
俺は、手をのばして、リルのフードを、そっと深くかぶせ直した。
王都でも、リルは耳と尻尾を隠して歩くことになる。
(いつか、隠さなくていい場所を作る)
それから、半歩だけ前に出て、大通りを歩き出した。




