第20話 群れの頭
遠吠えが、森の奥で長く尾を引いた。
リルの背中の毛が、全部逆立っていた。耳が、ぺたりと後ろに倒れている。喉の奥から、低いうなり声がもれていた。
「ティオ。いつつ」
「五頭か」
俺は、森のふちの土に、はだしの足をついた。
つま先で、とん、とん。
大地に聞く。
大地の囁き。
足の裏に、森の揺れが流れこんできた。
木の根がきしむ揺れ。鳥が枝を蹴る揺れ。その奥に、四本足の足音がいくつも。草を踏む、軽くて速い音だ。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。
輪になって、ぐるぐる回っている。何かを囲んでいる。
輪の真ん中に、小さな揺れが一つ。
足音じゃない。座りこんで、ふるえている揺れだ。とく、とく、とく、と速い。
ピアだ。
森に入って、すぐのところ。大きな木の根元だ。
「リル。ピアは木の根元だ。お前が先に行って、ピアの前に立て」
「ティオは」
「群れの頭をやる」
「あたま?」
「群れでいちばん偉いやつだ。そいつがいなくなると、ほかはどうしていいかわからなくなる」
「……わかった」
俺は走り出した。リルが、俺を追いこして前に出た。
* * *
木の根元に、ピアがいた。
毛布を頭からかぶって、根と根のすき間に、体を押しこんでいる。泣き声は聞こえない。歯を食いしばって、声を殺している。
そのまわりを、灰色の狼たちが回っていた。
森狼だ。一頭だけなら、大人の冒険者が追い払える。でも、群れになると話が変わる。守備隊の大人でも、一人では近づかない。
九つと八つの子ども二人で、どうにかなる相手じゃない。
まともに戦えば。
リルが、狼の輪の中へ飛びこんだ。
ピアの前に立つ。両手を広げる。小さな体の毛が、全部逆立っていた。
「ピアに、さわるな」
低いうなり声。狼たちが、一瞬、足を止めた。
でも、ほんの一瞬だ。狼たちは、またゆっくり回りはじめる。輪が、少しずつ小さくなる。
俺は、輪の外で足を止めた。
足の裏に、意識を集める。
五頭の足音を、一つずつ選ぶ。
どれも同じに見える。灰色で、やせていて、牙が白い。でも、足音はちがう。
一頭だけ、動きが早い。
その一頭が向きを変えると、ほかの四頭が、ほんのわずか遅れて向きを変える。その一頭が止まると、ほかも止まる。
あれが、頭だ。
群れの頭は、輪のいちばん奥にいた。ピアとリルの真正面に回りこもうとしている。
(全部は倒せない。燃料が足りない)
だったら、頭だけでいい。
前の世界の、テレビの動物番組でそう言っていた。たしか。たぶん。
一頭の狼が、輪の外の俺に気づいた。
向きを変えて、こっちに来る。俺とピアの間に、立ちふさがる形になった。牙をむく。
俺の口から、短い言葉が出た。
「どけ」
技名も、決め台詞も、浮かばなかった。
足の裏に、ありったけの気持ちをこめて、地面を踏んだ。狼の足もとの土が、ぶるっとふるえた。それだけだ。魔力は、ほとんど使っていない。
でも、狼は、半歩下がった。
その半歩で、十分だった。
群れの頭が、ピアとリルの正面で足を止めた。後ろ足に力をためる。跳びかかる気だ。
俺は、つま先で地面を二回叩いた。
魔力を、足の裏から流す。細く、細く。頭の狼の足もとの、さらに下の土へ。
砂つぶを一つずつ、横へずらす。土の中に、すき間を作っていく。表面だけを残して、中を空っぽにする。
六歳のとき、岩猪にやったのと同じだ。
あのときより、ずっと速い。三年ぶん、速い。
「――奈落の顎」
頭の狼が、地面を蹴った。
蹴ったはずの地面が、なかった。
ずぼっ、と鈍い音がした。跳ぼうとした勢いのまま、そいつは穴に沈んだ。
穴の底は、細くしぼってある。前足が、土の壁にはさまって抜けない。頭の狼は胸まで地面に埋まったまま、首だけ出して吠えた。
ほかの四頭が、止まった。
頭は吠えるばかりで、もう指図をしない。四頭は、どう動けばいいのか分からない顔をしている。輪が、崩れた。
そこへ、リルが跳んだ。
いちばん近い一頭の鼻先に、体ごとぶつかる。狼が悲鳴を上げて転がる。リルは着地と同時に、次の一頭に向かってうなった。
狼の声とは、ちがった。
もっと低くて、もっと古い、何かの声だった。
四頭は、尻尾を巻いた。
ばらばらの方向へ、森の奥へ消えていった。
* * *
俺は、その場にひざをついた。
目の前が、ぐらぐらする。魔力は、底をつきかけていた。
でも、倒れるわけにはいかない。
俺はふらふらと立ち上がって、穴にはまった頭を見下ろした。それから、ピアとリルのほうを向いた。
腕を組む。
「……計算通りだ」
(計算はしていない)
言い終わった瞬間、ひざから力が抜けた。俺は、木の根に足を引っかけて、顔から泥に突っこんだ。
べちゃ。
懐かしい音だった。
「ティオ!」
ピアが、毛布を放り出して飛びついてきた。泥だらけの俺の首に、しがみつく。今になって、わあわあ泣きだした。
リルが、ピアの頭を、ぎこちなくなでていた。
* * *
松明の光が、草原の向こうから近づいてきた。
先頭を走ってきたのは、ネロだった。息を切らして、俺たちの前で止まる。泥だらけの俺と、泣いているピアと、リルを順番に見た。
「……森には入るなって、言ったろ」
「言われた」
「ばか」
「知ってる」
ネロは、ピアを俺の首から引きはがして、自分の腕に抱きあげた。ピアの背中を、ばんばんと叩く。ネロの手は、ふるえていた。
その後ろから、守備隊の兵が五、六人。いちばん後ろに、熊みたいに大きな影。
ブラント隊長だ。
兵たちは、泥だらけの子どもたちを見て、それから穴にはまった森狼を見て、ぽかんと口を開けた。
「なんだ、こりゃ」
「狼が、穴に……。子どもが?」
「まさか。猟師の古い罠だろう。運がよかったな」
兵の一人が、穴の狼に槍でとどめを刺した。ほかの兵たちは、もう俺たちを見ていない。
隊長だけが、穴のふちにしゃがんでいた。
大きな手で、穴の壁をなでる。松明の光に、壁がつるりと光った。
隊長は、穴の壁を見た。
それから、泥だらけで座りこんでいる俺を見た。
もう一度、壁を見た。
俺は、目をそらした。
ピアが、ネロの腕からすべり降りた。隊長の前に、とことこと出ていく。
「あのね。リルが、がおーって、したの」
両手を上げて、狼の真似をする。
「がおーって。そしたら、おおかみ、にげたの」
隊長は、ピアを見下ろした。リルの首の、鉄の首輪を見た。
しばらく、黙っていた。
「……そうか」
隊長はそれだけ言って、ひげをなでた。立ち上がる。
「帰るぞ。森の夜は早い」
ピアが、俺のところに戻ってきた。耳もとに口を寄せて、小さな声で言った。
「ないしょね」
「……ないしょだ」
* * *
帰り道。
ネロが、ピアを背負って先を歩いていた。ピアは、ネロの背中でもう眠っている。ネロは一度も振り向かなかったけど、歩く速さは、俺たちに合わせていた。
俺は、まだふらふらしていた。リルが、横で俺の腕をつかんでいる。
「ティオ」
「ん」
「さっきの。けいさんどおり、の、あと」
「言うな」
「べちゃって」
リルの口のはしが、ひくりと動いた。
ふふ、と小さな息がもれた。
それから、こらえきれなくなったみたいに、リルは声を出して笑った。
あはは、と。
夕暮れの草原に、高くて明るい声が響いた。
拾ってから、九か月。リルが声を出して笑うのを、俺は初めて聞いた。
俺は、何も言わなかった。
ただ、その顔を、ちゃんと覚えておくことにした。
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