第17話 足の裏で聞く
眷属共鳴で写した鼻には、困った弱点があった。
届かない。
三軒先までは、においが選べる。でも、その先はぼやける。魔物が森から来ても、三軒先まで近づかれてからじゃ遅い。
冬のはじめの朝。俺は、はだしで空き地に立っていた。
もともと、靴なんか持っていない。足の裏は、もう石みたいに硬い。
目を閉じる。
鼻でにおいを選ぶとき、俺は空気の中の、目に見えないくらい細かい粒を感じている。だったら同じやり方で、土の中の粒を感じたらどうだろう。
土の粒は、いつもかすかに揺れている。誰かが歩けば、その揺れが土を伝って広がっていく。
前の世界に、糸電話というおもちゃがあった。ぴんと張った糸は、空気より声をよく運ぶ。土も、たぶん同じだ。
足の裏から、魔力を細く、細く流す。
鼻でにおいを一粒ずつ選ぶ、あの感覚を、土の揺れに重ねる。
――とん。とん。
来た。
足音だ。路地の向こう。三軒先、四軒先、もっと先まで。
重い足音と、軽い足音。大人と子ども。走っている足音と、のんびり歩く足音。
地面の下で、何かがちょろちょろと動いている。ネズミだ。巣穴の中で、三匹固まっている。
土だけじゃ、揺れが大きすぎて何が何だか分からなかった。
鼻のやり方を重ねたら、聞こえた。
俺は目を開けた。
「名づけて――大地の囁き」
要するに、足の裏で、地面の揺れを聞く技だ。
「……かっこいい」
塀の上から、声がした。リルが、ちょこんと座ってこっちを見ていた。
この世界で初めて、俺の技名をほめてくれた声だった。
「だろ? もう一個あるぞ」
俺は、足もとの泥人形を指さした。手のひらくらいの、いつもの人形だ。
「こいつは、土塊の従者。見張り役だ」
要するに、いつもの泥人形だ。
泥人形が、ちょこちょこと塀のすき間から路地へ走っていく。人形が踏んだ土の揺れも、足の裏でちゃんと聞こえた。
「すごい。……あの、とことこ、のやつ」
「土塊の従者な」
「とことこ」
覚える気はないらしい。
「リル。ちょっと、塀の向こうを歩いてみてくれ。俺は目をつぶってる」
「うん」
リルが塀から飛び降りて、路地へ出ていった。
足音は、軽い。猫みたいに軽い。でも、聞こえる。右へ三歩。止まる。左へ五歩。今度は、つま先立ちで、そうっと。
「今、つま先で歩いてるだろ」
「……すごい」
「今度は、戻ってきて、俺の後ろに立とうとしてる」
「すごい!」
塀の向こうで、リルの尻尾がばたばた揺れる音まで聞こえた。地面を、尻尾で叩いている。
(それは聞こえすぎだ)
* * *
その日の昼、試す機会は、向こうからやってきた。
市場は、大市の日で、人でごった返していた。俺とリルは、野菜くずを拾いに来ていた。リルはぼろ布をかぶって、耳を隠している。
「どろぼう!」
屋台の親父の叫び声が、人ごみを裂いた。
「売上の袋を持ってかれた! 誰か、そいつを!」
見ると、男が一人、人をかき分けて走っていた。手に、ふくらんだ布袋。あっという間に、人の頭の向こうに消える。
人が多すぎて、見えない。誰も追いつけない。
俺は、はだしの足を地面につけた。
つま先で、とん、とん、と二回。
大地に聞く。
足の裏に、揺れがいっぺんに流れこんできた。何百人ぶんの足音。でも、その中に一つだけ、ほかとちがう足音がある。
重くて、速くて、ほかの足音を押しのけるみたいに進む足音。
その揺れを、一粒だけ選ぶ。
――右。肉屋の角を曲がった。路地に入る。三本目の分かれ道を左。その先は、市場の裏道に出る。
「リル」
「ん」
「裏道。ごみ捨て場の手前。そこで待て」
リルは、何も聞かなかった。
うなずいて、人の足の間をすり抜けるように走り出した。速い。灰色の影が、あっという間に見えなくなる。
俺は、泥人形を路地に先回りさせた。
男の足音が、裏道に向かって近づいてくる。あと十歩。五歩。
泥人形が、男の足もとに飛び出した。
男の足が、手のひらほどの泥のかたまりを踏んで、ずるっとすべった。
そこへ、横から、灰色のかたまりが突っこんだ。
リルの体当たりだ。
男は、ごみ捨て場の野菜くずの山に、頭から突っこんだ。
* * *
追いかけてきた屋台の親父が、野菜くずまみれの男を押さえつけた。布袋を取り返して、高くかかげる。
「取り返したぞ!」
まわりの人たちが、わっと声を上げた。
「やるなあ、親父!」
「さすが、市場一の足だ」
親父は、まんざらでもない顔で胸を張った。
ごみの山の中で崩れている泥のかたまりには、誰も気づかない。ぼろ布をかぶった獣人の子が、人ごみに消えていったことにも。
俺は、人ごみのすみで、泥のついた足の裏をなでた。
リルが、するりと戻ってきた。ぼろ布のすき間から、金色の目が俺を見上げる。
「ティオ。なんで、なのらない」
「真の強者は、影に潜むものなんだ」
「……かっこいい」
リルはそう言って、俺の袖をつかんだ。
親父の大きな声が、背中で響いていた。
「おい、さっき何かが走っていかなかったか? ちっこいのが――」
俺は振り返らずに、リルの手を引いて、黙って人ごみの中にまぎれた。




