第16話 フェンリルはいや
前の世界のノートの、十五番。そこには、こう書いてあった。
――獣人の仲間に、かっこいい名前をつける。
前の世界の俺が、深夜のテンションで書いた一行だ。
その一行が今、目の前で現実になろうとしていた。
十月の、よく晴れた朝。俺は廃屋の壁の前に立っていた。手には、かまどから拾った炭。
壁いっぱいに、大きく書く。
フェンリル。
「よし」
腕を組んで、うなずく。完璧だ。
「ティオ、それ、なんてよむの?」
ピアが、毛布を肩にかけたまま聞いた。
「フェンリル。伝説の、でっかい狼だ。月を飲みこむくらいでっかい。かっこいいだろ」
「でっかいの?」
「でっかい」
ピアは、壁の字と、床にちょこんと座っている獣人の子を見比べた。
「……ちっちゃいよ?」
「今はな。いずれでっかくなる。名前は、未来を背負うものなんだ」
俺は、獣人の子の前にしゃがんだ。せきばらいを一つ。
「お前の名は、今日から――フェンリルだ」
沈黙。
獣人の子は、壁を見た。俺を見た。もう一度、壁を見た。
「ふぇんりる、いや」
「えっ」
即答だった。
「な、なんで。かっこいいだろ」
「ながい」
「長くない。五文字だ」
「かたい」
「硬いのがいいんだよ。強そうだろ」
「いや」
耳が、ぺたんと後ろに倒れた。尻尾の毛が、ちょっと逆立っている。
この三週間で、この子の耳と尻尾の意味は、だいたい分かるようになっていた。
これは、本気で嫌なときのやつだ。
* * *
俺は、あきらめなかった。
「じゃあ、こういうのはどうだ。銀の牙と書いて――」
「いや」
「まだ言ってない」
「いや」
「月喰らいの――」
「いや」
全部、最後まで言わせてもらえなかった。
「ティオ、ぜんぶ、ながいよ」
ピアが、横から口をはさんだ。
「ながくない。かっこいい名前は、ちょっと長いものなんだ」
「ピアは、ピアだよ。みじかいよ」
「……それは、そうだけど」
八歳の俺が、七歳に言い負かされかけている。
獣人の子は立ち上がった。とことこと壁の前まで歩いていく。
そして、指で、炭の字をこすりはじめた。
フ。
ェ。
ン。
無言で。一文字ずつ。ていねいに。
「あっ、待て、それ書くの大変だったんだぞ」
こする手は止まらない。全然聞いていない。
ピアが、毛布に顔をうずめて、肩をふるわせていた。笑っている。
戸口から、ネロの声がした。
「本人がいやなら、やめとけ」
「ネロまで……」
「名前ってのは、呼ばれる奴のもんだろ」
ネロはそれだけ言って、芋の皮むきに戻った。
その一言が、妙に胸に刺さった。
俺の名前も、俺が決めたわけじゃない。この廃屋で、誰かがそう呼んでいた。誕生日だって、ネロが決めた。「お前がここに来た日」だと言って。
壁を見る。
フ、ェ、ン、の三文字は、もう灰色のしみになっていた。
残っているのは、最後の二文字だけだ。
リ、ル。
それを見て、俺は言った。
「……じゃあ、リルは?」
獣人の子の指が、止まった。
「フェンリルの、リル。半分だけ。短いし、かたくない」
その子は、壁に残った二文字を、じっと見た。
それから、小さな声で、くり返した。
「……リル」
もう一度。
「リル。リル、でいい」
尻尾が、ばたばたと床を叩いた。
(半分、勝った。……いや、半分は負けた)
「それと、誕生日も決める」
「たんじょうび?」
「生まれた日。お前を拾った日でいい。九月の、十四日」
リルは、よく分かっていない顔でうなずいた。尻尾は、まだ動いていた。
「ティオのも、ある?」
「ある。五月の十日。ネロが決めた」
「ネロ、きめた」
「ネロに決めてもらったから、俺がお前のを決める。順番だ」
リルは、しばらく考えていた。それから、自分の胸に手を当てた。
「くがつ。じゅうよっか。……リルの」
「そうだ。お前のだ」
* * *
その夜。
ほかの子たちが寝静まったあと、俺とリルは、廃屋のすみで並んで座っていた。リルは、夜になるとなかなか寝つけないらしい。檻の中の夜を、思い出すのかもしれない。
「なあ、リル」
「ん」
「俺、ここに来る前の記憶があるんだ」
リルは、首をかしげた。
俺は、話した。
誰にも話したことのない話だ。ネロにも、ピアにも。
別の世界があったこと。そこで大人だったこと。凍った階段で、間抜けに死んだこと。
リルは、黙って聞いていた。分かっているのか、いないのか、顔からは読めない。
「それでな。前の世界の俺は、ノートを持ってた」
「のーと?」
「紙を束ねたやつだ。そこに、やりたいことを書いてた。全部で、五十三個」
ノートの話をするのは、照れくさかった。でも、なぜか言葉が止まらなかった。
「仮面の冒険者になる、とか。秘密の隠れ里を作る、とか。一つも叶わないまま、終わったんだけどさ」
「……リルも、はいってる?」
「入ってる。四番と、十五番」
リルが、俺の顔を見上げた。
その瞬間だった。
リルの手の甲で、土の色の紋が、ふわりと光った。
同時に、俺の胸の輪も、温かく光った。服の下で、二つの光が、同じ速さで脈を打っている。
契約のときとも、あの風の夜ともちがう。
ノートの話をした、その瞬間にだけ。
リルが、自分の手の甲を見下ろした。俺も、胸を押さえた。
光は、ほんの数呼吸で消えた。
「……いまの、なに」
リルが、小さく言った。
俺にも、分からなかった。




