第15話 鼻が利きすぎる
目が覚めたら、世界がにおいだらけになっていた。
「――っ、ぐ」
最初に来たのは、かびだ。廃屋の壁という壁から、かびのにおいが押し寄せてくる。湿った木。古い藁。雨漏りのあとの、すえたにおい。
次に、足。
ネロの足だ。間違いない。何日洗っていないんだ。いや、数えたくない。
それから、三軒先の家のスープ。玉ねぎと、骨と、塩が多すぎる。
ピアの毛布の、乾いた日なたのにおい。ピアのポケットの、溶けかけた飴。
全部が、いっぺんに鼻の中へなだれこんでくる。
「ぐおおお……」
俺は鼻をつまんで、床の上を転げ回った。
「何やってんだお前」
ネロが芋を手に、心底あきれた顔で俺を見下ろしていた。
「ネロ……お前の足が……」
「あ?」
「なんでもない」
言ったら殺される。
かわりに、俺は鼻をつまんだまま言った。
「ネロ。今日の荷運び、塩の袋だろ」
「……なんでわかる」
「あと、昨日の夜、市場の裏で串焼きのたれをなめただろ。屋台の残りの」
ネロの顔が、ぴしりと固まった。
「なんで知ってんだ、お前」
「においが」
「におい?」
ピアが、ぱっと自分のポケットを押さえた。
「ピア。ポケットの飴、溶けてるぞ」
「なんでしってるの!」
ピアは毛布をかぶって、廃屋のすみに逃げていった。ネロは、自分の袖のにおいをかいで、首をひねっている。
床のすみで、獣人の子が首をかしげていた。熱が下がって、三日目。まだふらふらしているけど、自分で座れるようになった。
金色の目が、転げ回る俺を不思議そうに見ている。
鼻をつまんだまま、俺は考えた。
(これ、まさか)
* * *
空き地に出て、一人で確かめた。
目を閉じる。鼻から、そっと息を吸う。
土のにおい。雑草のにおい。塀のむこうの路地を、誰かが歩いていく。その人が朝に食べたものまで、なんとなく分かる。
胸の上の、細い輪が、ぽうっと温かい。
俺は、あの夜のことを思い出した。手の甲の紋。胸に浮かんだ輪。風。
ラノベで、似た話を読んだことがある。主人公と仲間がつながって、仲間の力を借りられるようになるやつだ。
あの子は、獣人だ。鼻がいい。
そして今、俺の鼻も、ありえないくらいいい。
あの子の力が、俺に写っている。
試しに、においを一つだけ選んでみた。
路地の向こうのスープ。その中の、玉ねぎだけ。
選べた。ほかのにおいが、すっと遠のく。玉ねぎだけが、くっきり残る。
これは、たぶん俺の腕だ。泥の中から砂つぶを一つ選ぶのと同じ要領だ。においも、一粒ずつ選べる。
ただし、遠くまでは届かない。三軒先が、せいぜいだ。燃料がお茶わん一杯なのは、ここでも変わらないらしい。
それでも。
「名づけて――」
俺は、空き地の真ん中で、胸の輪に手を当てた。
「――眷属共鳴」
要するに、仲間の得意なことを、写して使える力だ。
名前は大事だ。
足もとで、泥人形がぱちぱちと拍手した。拍手させたのは、俺だ。
ふと見ると、塀のすき間から、獣人の子がのぞいていた。熱が下がってから、俺の行くところに黙ってついてくる。
ちょうどいい。においの比べっこをしてみることにした。塀のそばに並んで、二人で鼻を上げる。
「市場のパン屋。わかるか」
その子は、こくんとうなずいた。市場は、ここから通りを四本も越えた先だ。俺の鼻には、何も届かない。
「すげえな。俺には、ぜんぜんだ」
次に、三軒先のスープを指さした。
「あれは、なんのスープだ」
その子は、首をかしげた。スープはスープだ、という顔だ。
「玉ねぎと、骨と、塩が多すぎる。あと、ちょっとだけ焦げてる」
その子は、鼻をひくひくさせた。それから、目を丸くして、俺の顔を見た。
遠くまで届くのは、あっちの鼻。細かく選べるのは、俺の鼻。
二つ合わせたら、どうなるんだろう。
廃屋に戻ろうとすると、その子が、俺の前にとことこと回りこんできた。
俺の顔を見上げて、鼻をひくひくさせた。それから、俺の胸のあたりに顔を近づけて、くんくんとかいだ。
「……ここ」
初めて聞く声だった。かすれていて、小さい。
「におう。わっか」
俺は、どきりとした。
「見えるのか?」
その子は、首を横に振った。
「みえない。におう」
胸の輪は、俺にしか見えない。ネロにも、ピアにも見えなかった。でも、この子にはにおいで分かるらしい。
俺はしゃがんで、その子と目の高さを合わせた。
「名前は?」
その子は、少し考えてから言った。
「……なな」
「なな?」
「ばんごう。おりの、なな」
檻の、七番。
ガンツが言っていた、あの呼び方だ。この子は、自分の名前だと思っている。
腹の底が、ずしりと重くなった。
「それは、名前とはちがう」
その子は、また首をかしげた。それから、何か大事なことを思い出した顔で、俺を見上げた。
「ごしゅじん」
「ぐっ」
変な声が出た。
ご主人。
ラノベなら、ここで喜ぶ場面なのかもしれない。でも、実際に言われると、背中がむずむずする。銅貨一枚で、人の「ご主人」になったのだ。毎日そう呼ばれるのは、無理だ。
「それ、やめよう」
「……やめる?」
「ティオでいい。俺の名前。ティオ」
その子は、口の中で、何度か音を転がした。
ティ、オ。ティオ。
金色の目が、まっすぐ俺を見た。
「……ティオ」
「おう」




