第14話 生きろ
契約の夜、熱はいちばん高くなった。
獣人の子の息は、ひゅう、ひゅう、と細い音を立てていた。泥の冷やし布をのせても、すぐにぬるくなる。取りかえても、追いつかない。
ネロが、どこからか、ろうそくの燃えさしを持ってきた。指の長さほどもない。
「市場の灯り番から、もらってきた」
「もらって?」
「……もらってきた」
それ以上は聞かなかった。
小さな火が、廃屋の奥をぼんやり照らした。戸は閉めてある。窓の板も、全部下ろしてある。夜の冷えた風が、病気の子に当たらないように。
ほかの子たちは、すみのほうで固まって眠っていた。起きているのは、俺と、ネロと、ピアだけだった。
「ティオ」
ピアが、俺の袖を引いた。
「この子、しんじゃう?」
すぐには、答えられなかった。
「……死なせない」
それしか言えなかった。ピアは、うん、とうなずいて、毛布の中で丸くなった。眠ってはいない。目だけが、ろうそくの火を映していた。
ネロは、戸口の前にあぐらをかいていた。
「ティオ。お前、今日、銅貨払ったんだよな」
「払った」
「残りは」
「二枚」
「……ばかだな、お前」
「知ってる」
ネロは、鼻で笑った。それから、天井を見上げた。
「俺もさ。ちっちゃいころ、熱出して死にかけたことあるんだと。覚えてねえけど。前にここにいた年上の奴が、ひと晩じゅう背中さすってたって」
初めて聞く話だった。
「そいつ、どうなった」
「さあな。大人になって、どっか行った。顔も覚えてねえ」
ネロは、それきり黙った。
俺も、何も言わなかった。背中をさする手が、この廃屋では、順番に回っていくのかもしれない。
* * *
夜中を過ぎた。
獣人の子の手が、ぴくりと動いた。何かを探すみたいに、床の上をさまよう。
俺は、その手を握った。
熱い。小さい。指の骨が、細い枝みたいだ。
手の甲の紋が、俺の指の下にあった。今朝、老人が見つめていた、木の根の模様。
俺は、目を閉じた。
回復魔法なんて知らない。契約のことも分からない。主になったからって、何ができるのかも知らない。
だから、ただ願った。
俺が持っているもの全部で、願った。
お茶わん一杯の魔力も。五年間、泥をこね続けた指も。前の世界で、何もしないまま終わった三十何年ぶんの後悔も。
全部、持っていっていいから。
「――生きろ」
声に出していた。
かっこいい技名なんか、一つも浮かばなかった。
「生きろ。死ぬな。せっかく、ここまで来たんだ。生きろ」
胸が、熱くなった。
心臓の上だ。焼けるような熱さとはちがう。冬の朝に、温かい湯をひと口飲んだときみたいな熱だった。
目を開けて、服の胸元をのぞきこむ。
細い輪が、浮かんでいた。
細い筆で、一本だけ線を引いたような、光の輪。心臓の真上に、ぴたりと重なっている。
ネロのほうを見る。ネロは、こっちを見ていた。でも、俺の胸を見ても、何も言わない。
見えていないんだ、となぜか分かった。
握った手の中で、紋がほのかに光った。土の色の、ぼんやりした光。
そのとき。
ろうそくの火が、横に倒れた。
消えたわけじゃない。炎が、獣人の子のほうへ、すうっと引っぱられるように傾いた。
「……風?」
ネロが、低い声で言った。
戸は閉まっている。窓の板も、全部下りている。廃屋の中に、風が入る場所はない。
なのに、獣人の子のまわりだけ、空気が動いていた。
もつれた灰色の髪が、ふわりと浮いた。毛布のすそが、かすかに揺れる。ピアが、毛布から顔を出して、目をまんまるにした。
「ティオ……」
「しっ」
俺は、手を離さなかった。
風は、しばらく獣人の子を包むように吹いていた。
それから、ゆっくり、やんだ。
ろうそくの火が、まっすぐに戻った。
ひゅう、ひゅう、という細い音が、いつの間にか消えていた。かわりに、すう、すう、と静かな寝息が聞こえる。
額にさわった。
汗で、ぐっしょり濡れていた。
そして、熱くなかった。
「……下がった」
声が、かすれた。
「ほんと?」
ピアが、這うように寄ってきた。小さな手で、その子の額にさわる。
「つめたい。……つめたくないけど、あつくない」
「下がったんだ」
ネロが、ゆっくり立ち上がった。俺と、獣人の子と、燃えさしのろうそくを順番に見る。
「ティオ。今の、なんだ」
「わかんない」
「風、ふいたよな」
「ふいた」
「戸、閉まってたよな」
「閉まってた」
ネロは、がりがりと頭をかいた。それから、ピアの前にしゃがんで、目を合わせた。
「ピア。今の、誰にも言うな」
「ないしょ?」
「ないしょだ」
ピアは、こくんとうなずいた。ネロは、俺のほうは見ないまま、戸口に戻って座りこんだ。
俺の胸の輪のことは、聞かれなかった。
* * *
気がつくと、朝だった。
俺は、壁にもたれて眠っていたらしい。首が痛い。ろうそくは、とっくに燃えつきている。
窓の板のすき間から、白い光が差しこんでいた。
ピアは、俺のひざを枕にして眠っていた。ネロは、戸口の前で腕を組んだまま、座って寝ている。
手が、重かった。
見ると、俺の右手を、小さな手が握っていた。
獣人の子が、目を開けていた。
金色の目が、まっすぐ俺を見ている。熱でうるんでいた目が、今は澄んでいた。
俺は、そっと手を引こうとした。
小さな手に、力がこもった。
離さない。
その子は何も言わなかった。俺も、何も言えなかった。
朝の光の中で、握られた手だけが、温かかった。




