第12話 三日の看病
薬は、買えない。
市場の薬屋の熱さましは、小さな包み一つで銀貨一枚。俺の全財産は、どぶから拾った銅貨三枚だ。
百倍たりない。
だから、できることをやるしかなかった。
前の世界の知識が、一つだけある。熱が出たら、水を飲ませる。それから、首のまわりやわきの下を冷やす。
熱いやかんも、濡れ布で包めば早く冷める。体も同じだ。
水なら、ある。浄化の砂時計の水だ。
冷やすものは、土で作った。
廃屋の床を、腕一本ぶん掘り下げる。深いところの土は、夏の終わりでもひんやりしている。それを砂時計の水でこねて、薄くのばして、ぼろ布に包む。
泥の冷やし布だ。
額にのせる。首の横にあてる。
しばらくすると、布はぬるくなる。取りかえる。またぬるくなる。また取りかえる。
泥を冷たいまま保つのに、魔力はほとんど要らない。中の粒が動かないように、じっと押さえておくだけだ。毎日泥玉を作り続けた指が、こんなところで役に立った。
* * *
一日目。
獣人の子は、ほとんど目を開けなかった。
水は、俺の手のひらにためて、口もとに運んだ。最初は唇のはしからこぼれた。三回目で、こくん、と喉が動いた。
「飲んだ」
思わず声が出た。
「ほんと?」
ピアが、俺の肩ごしにのぞきこんだ。
「ほんとだ。もう一口いけるか」
こくん。
それだけのことで、腹の底がじんと温かくなった。
夜になると、ピアが毛布を引きずってきた。ピアの宝物の、いちばん厚い毛布だ。
「これ、つかって」
「お前が寒いだろ」
「ピアは、ティオの背中でねる」
「……足を押しつけるなよ」
「おしつける」
交渉の余地はなかった。
* * *
その夜遅く、獣人の子が、一度だけ目を開けた。
俺が額の布を取りかえようとして、手を伸ばしたときだ。
その子は、びくっと体を縮めた。両腕で頭をかばう。耳が、ぺたりと後ろに倒れた。
叩かれる、と思ったんだ。
手を伸ばされたら、叩かれる。この子は、そういう場所にいた。
俺は、手を止めた。それから、ゆっくり引っこめた。
「叩かない」
金色の目が、腕のすき間から、俺を見ていた。
「ここでは、誰も叩かない。冷たい布をのせるだけだ。いいか」
返事はなかった。
でも、しばらくして、その子の腕が、そろそろと下りた。
俺は、もう一度、ゆっくり手を伸ばした。今度は、その子は動かなかった。泥の冷やし布を、額にのせる。
その子は、目を閉じた。ふう、と長い息をはいた。
ネロが俺のとなりに座ったのは、そのすぐあとだった。
「なんで、そこまでする」
小さい声だった。責める声とはちがう。本当に、分からないという声だった。
「……ごみ捨て場で、目が合った」
「それだけか」
「それだけだ」
ネロは、しばらく黙っていた。
「……そっか」
それだけ言って、ネロは壁にもたれて目を閉じた。
* * *
二日目。
熱は、下がらなかった。
獣人の子は、ときどきうなされた。聞いたことのない言葉を、小さくつぶやく。この国の言葉とは、音の形が違う。でも一つだけ、分かる言葉があった。
「……さむい」
体は、焼けた石みたいに熱いのに。
俺は泥の冷やし布で額を冷やしながら、ぼろ布の上から背中をさすった。それしか、できなかった。
昼、砂時計の桶に水をくみに行くと、子どもたちが列を作っていた。いつもの朝の列だ。
俺が水がめを抱えて列の後ろに並ぶと、前の子が振り返った。きのう「うつる?」と聞いた子だった。
「ティオ、先にいいよ」
「……いいのか」
「あの子のぶんでしょ。早く持ってきなよ」
その前の子も、黙って一歩よけた。その前の子も。
列が、真ん中から割れていった。
俺は、何も言えずに頭を下げて、桶の前まで歩いた。
ネロが、芋を煮た汁を持ってきた。自分のぶんの芋をつぶして、湯でのばしたものだ。
「飲ませてみろ」
「ネロ、それ、お前の――」
「うるせえ。俺は昼に食った」
食っていない。俺は知っている。ネロは昼、市場の荷運びをしていた。食う暇なんかなかったはずだ。
でも、それは言わなかった。
汁は、ひと口だけ入った。
「お前も寝ろ、ティオ。倒れるぞ」
「交代で寝る」
「誰とだよ」
「……泥人形と」
ネロは、思いきりあきれた顔をした。それでも、それ以上は言わなかった。
* * *
三日目の、夜明け前。
廃屋の中は、まだ青くて暗かった。
ピアは、俺の背中にくっついたまま眠りこけている。冷たい足が、やっぱり押しつけられている。
獣人の子の頭は、いつの間にか俺のひざの上にあった。
俺は泥の冷やし布を取りかえ続けていた。何枚目かは、もう数えていない。指先がしびれている。魔力はほとんど使っていないのに、腕が重い。
熱は、まだ下がらない。
小さな手が、俺の服のすそをつかんでいた。眠ったまま、ぎゅっと。離すまいとするみたいに。
俺は、昔のことを思い出していた。
四つの冬。熱を出して動けなくなった子が、春を待たずにいなくなったこと。誰もそのことを口にしないこと。
(同じにはしない)
そう決めても、熱は言うことを聞かない。
ラノベの主人公なら、ここで回復魔法の一つも覚えるところだ。俺にあるのは、土と泥と、お茶わん一杯の魔力だけだ。
冷やし布を、また取りかえる。
そのときだった。
廃屋の外から、音が聞こえた。
ぎし、ぎし、ぎし。
聞き覚えのある、車輪の音。
奴隷商の馬車が、路地の入口で止まった。




