4.ちょっと恥ずかしいし
翌朝、昇降口で靴を履き替えていると、階段の脇に見覚えのある青髪があった。藤宮だ。
彼女は壁に背を預けたままスマホを触っていたが、俺に気付くとすぐに画面を伏せる。
「おはよう、円城くん」
「おはようございます。こんなところでどうしたんですか?」
待ち合わせをした覚えはない。
忘れているだけなら申し訳ないが、昨日の帰り道で、別れるまでに交わした約束は英語を教えてもらうことくらいだったはずだ。
「……待ってたの」
「誰をですか?」
「円城くん以外にいる?」
むっとした声を出されて、ようやく自分の間抜けな質問に気付いた。
「すみません。まさか俺だとは思わなくて」
「彼女が彼氏を待つって、そんなに予想つかないこと?」
「いえ、ちょっと驚いただけです」
俺が彼氏なのは事実だが、他人から見えていないところでまで合わせる必要はないように思える。
答えると、藤宮は一瞬だけ黙ってから歩き出した。
前日より表情は柔らかいが、俺の横へ並んだ彼女は鞄の持ち手を両手で握っている。
教室まで一緒に行くだけで、そんなに緊張するものなのだろうか。
「藤宮さん、昨日はよく眠れました?」
「……急に何?」
「眠そうなので」
「円城くんのせいだよ」
「俺、何かしました?」
思い当たることがなくて聞き返すと、藤宮は足を速めた。
「知らない。自分で考えて」
「えぇ……」
付き合って二日目にして、もう彼女を怒らせてしまったようだ。
出だしは悪くないと思っていたのに、恋人関係は思ったより難しいな。
教室へ入った途端、難易度がさらに上がったように感じる。
「お、来た来た!」
「朝から一緒じゃん」
「藤宮さん、昨日どうだった?」
待ち構えていたわけでもないだろうに、何人かがすぐこちらへ寄ってくる。
藤宮は俺の一歩後ろへ隠れかけるも、それではまずいと思ったのか途中で踏みとどまった。
「普通に帰っただけだよ」
「えー、それだけ? 円城くんって、彼女には違う優しさとか見せるのかな?」
「付き合った初日だよ? もっとなんかあるでしょ!」
「ないってば」
藤宮が強めに返すと、女子たちは楽しそうに笑いながら離れていった。
これまでなら、藤宮を囲んで恋愛の話を振る生徒なんて、ほとんどいなかったと思う。
近寄りがたいと思われていただけで、話してみれば普通に会話ができると分かったのかもしれない。
「人気者ですね」
「円城くんが言う?」
「俺ですか? 俺は普通ですよ」
「……本気で言ってるんだ」
自分の席へ向かおうとして、教室の後ろへ視線が流れる。
樫村はいつもの場所で椅子に深く座り、スマホを片手にこちらを見ていた。
俺が顔を向けると、すぐに画面へ視線を落とす。
やはり、藤宮の告白の時から妙だ。
彼女の告白に何か事情があるなら、樫村はそれを知っている可能性が高い。
聞いてみるべきかとも思ったが、藤宮本人が何も話していない段階で勝手に探るのは……あまり良くないだろう。
今は、彼女が自分から話せるようになるまで待とう。
・
昼休みになり、弁当を持って席を立とうとしたところで、藤宮が俺の机を指先で軽く叩いた。
「円城くん。今日、一緒に食べない?」
「もちろんいいですよ」
「即答、してくれるんだね」
「嫌なんですか?」
「逆だよ。断られたらどうしようって、ちょっと考えてたから」
そんな心配をする必要があるのだろうか。
付き合っている相手から昼食に誘われて断る理由はなどない。
空いていた机を二つ寄せると、藤宮は小さな弁当箱を開いた。
彩りの整った中身を見ているうちに、黄色い卵焼きへ目がいく。
「卵焼き、美味しそうですね」
巻き方も焦げ目の付け方も、全てが高クオリティ。
自分で作ろうと思っても、ここまで上手くいく日は稀だ。
「食べる?」
「……いいんですか?」
「一個くらいなら」
差し出された弁当箱へ箸を伸ばそうとして、思いつく。
「じゃあ、交換にしませんか? 俺のも何か一つどうぞ」
「いいね。円城くんのお弁当って、自分で作ってるの?」
「はい。朝は母も忙しいので、中学くらいから自分で作ってます」
藤宮は俺の弁当を覗き込み、迷ってから鶏の照り焼きを選んだ。
そして、それを口に運ぶ。
「……美味しい」
「よかったです。藤宮さんの卵焼きも甘くて美味しいです」
「私もお弁当、自分で作ってるんだよね」
「え、そうなんですか?」
てっきり家族が作ったものだと思っていた。
藤宮は箸先で自分の卵焼きをつつきながら、得意げに口元を緩める。
「毎日じゃないけどね。今日は朝早く起きて、昨日、円城くんが家庭科好きって言ってたのを思い出して」
「それで作ったんですか?」
「別に、円城くんのためだけじゃないけど」
藤宮は視線を逸らした。
「……ちょっとは、そのつもりだったかもね」
「ありがとうございます」
「そんな素直にこられると、困っちゃうって……」
そう言われても、他の答えが出てこない。
「じゃあ、あんまり嬉しくないです」
「それはそれで腹立つ」
違ったらしい。藤宮が吹き出し、俺もつられて笑った。
告白していた時とは別人に見えるほど、今は肩から力が抜けている。
こうして普通に話せる時間が増えていけば、そのうち抱えている事情も聞けるかもしれない。
「そうだ。今日は放課後、時間ある? それとも忙しい?」
「数学を教える約束はもう終わったので、今日は大丈夫です」
「じゃあ英語。今日の円城くんは生徒役だね」
「本当に教えてくれるんですか?」
「言ったからには教えるよ。赤点すれすれなんでしょ?」
藤宮は箸を置くと、真剣な顔になった。
「彼氏が英語で赤点取ったら、ちょっと恥ずかしいし」
「そこまで言われると頑張るしかないですね」
「うん。ちゃんと頑張って」
もう今日の予定ができてしまった。
夜の恋人たちというのは、みんなこんな感じなのだろうか。
そんなことを考えていると、教室の後ろで椅子が床を擦る音がした。
樫村が立ち上がり教室を出ていく。藤宮の顔が強張った。
「藤宮さん?」
「……なに?」
「いや、急に黙ったので。どうしたのかなって」
藤宮は何でもないと首を振った。
先ほどまで緩んでいた表情に硬さが戻ってしまっている。
「……午後の授業、何だっけ」
「五限は現代文ですね」
「そっか。早く食べ終わらないとね」
話を変えられてしまう。
そのあと藤宮は一度だけ、樫村が出ていった教室の扉を確認していた。




