2.慕われる男
翌朝。いつも通りに登校し、教室のドアを開けた瞬間、窓際の席から声が飛んできた。
「円城くん、この前はありがとう! おかげでプリント間に合ったよ」
「ああ、よかったです。ついでだったので、気にしないでくださいね」
プリントを届けたのは一昨日の放課後だったか。
クラスの女子が熱で休んでいて、配布物が机に溜まっていたから、先生や彼女の親に許可を取って、ポストに入れておいたのだ。
彼女の家は、学校と俺の家の中間にあった。
だから苦労もしていないし、礼を言われるほどのことじゃない。
会釈しながら自分の席へ向かうと、鞄を下ろす間もなく、後ろの席から肩を叩かれる。
「円城、昨日のシャーペン助かったわ。テスト前に限って忘れんだよな」
「全然。いつも何本か持ってるので、また困った時は言ってくださいね」
礼を言われるのは悪い気はしないが、そのためにやっているわけではない。
誰かを助けるということ自体は当たり前で、俺はその当たり前ができる人間でいたいだけだ。
落とし物を拾ったり、プリントを届けたり、ペンを貸したり。
誰にでもできることだし、今ではどれも、息を吸うのと同じ感覚でやってしまう。
半分くらいは自分でも覚えていない。
相手に言われて、ああそんなこともあったなと思い出す。
その程度の認識。
教科書を出していると、前の席の男子がこちらを向いた。
「なあ円城、放課後ちょっと数学教えてくんね? 昨日の範囲、全然わかんなくてさ」
「いいですよ。俺も復習したかったので」
「マジ助かるよ! お前……仏すぎるよ! 飯奢るからさ!」
「いや、そんな気を使わなくても」
「何言ってんだよ! このクラスでお前に感謝してないやつなんていないぜ? 俺が奢るか他のやつが奢るかの違いだよ!」
「は、はぁ……」
——と、その時。
教室の一番後ろから、鋭い舌打ちが聞こえてくる。
声の主は分かっている。
樫村岳。同じクラスの、俺とはまるで接点のない男子だ。
樫村はクラスで一目置かれている、というより、みんな関わらないようにしていると言った方が近い。
オレンジに染めた髪と着崩した制服。
机に足をのせて、取り巻きを二、三人はべらせている。
授業中でも平気で私語を続けるし、教師もどこか腫れ物を扱うようだった。
一度、掃除当番をサボった樫村に、学級委員が控えめに注意したことがある。
樫村はそいつを廊下まで呼び出し——何を言ったのかは知らないが——その学級委員は次の日から、樫村と目を合わせなくなった。
舐められることを何よりも嫌う。
樫村という男子について、俺が知っているのはその程度だ。
深く関わったことはないし、関わりたいとも思っていなかった。
その舌打ちが誰に向いたものなのか、俺には分からなかった。
顔を上げた拍子に、樫村と目が合った気がした。
値踏みでも敵意でもない。もっと粘っこい種類の目つき。
・
昼休みになり、弁当を取り出したところで、俺の隣に誰かが立っているのに気付く。
顔を上げると、クラス中の視線がこちらに集まっている。
それもそのはずだ。
俺を見つめている相手というのが——藤宮沙耶だったからだ。
うちのクラスというより、学年でも指折りの有名人。
整った目鼻立ち、快晴の空のように純度の高い青髪、近寄りがたい静けさをまとっている。男子が遠巻きに騒ぐタイプの女子だ。
同じ教室でも、俺は一度も口をきいたことがない。
その藤宮が、一体何の用だ?
「円城くん、ちょっといいかな」
教室がどよめいた。近くの誰かが「えっ」と声を漏らすし、別の誰かが息を呑んだのが分かる。
それもそのはず。
藤宮沙耶と円城温に、接点なんてないのだから。
「なんですか? もしかして、困ったことでも?」
「うん。二人で話したいことがあって」
「二人で?」
わざわざ人を選んで話しかけてくるからには、あまり大勢に聞かれたくない相談なのだろう。そう考えるのが自然だ。
「じゃあ、放課後にしませんか? 人がいないところのほうが、話しやすいでしょうし」
ごく当たり前の提案のつもりだった。
ところが藤宮は、小さく首を横に振る。
「ううん……やっぱり今、ここでいい」
ここでという言葉に、かすかな力がこもっていた。
俺の席のまわりでは、もう何人もの生徒が耳をそばだてている。
面白半分でスマホをこちらへ向けかけている者までいた。
この状況で切り出す話とは思えないが……。
だが、藤宮は退かなかった。
むしろ退けない事情でもあるかのように、その場に留まっている。
「……私、円城くんのことが——」
澄んだ声だったが、酷く硬い。
「——好き、なの。付き合ってほしい」
一拍おいて、あちこちで空気が弾ける。
わっと沸くのを堪えるような、押し殺したどよめきが広がった。
誰かが小声で「藤宮さんが」と繰り返している。
俺はといえば、告白の中身より先に、別のことが引っかかっていた。
藤宮は今、確かに俺へ「好き」だと告げた。
だが、その言葉のどこにも熱がない。
真冬の朝に暗記した台詞を、順番どおり読み上げているみたいだった。
好きな相手に想いを伝えるのに、果たして無表情でいられるだろうか?
そして何より、この場所だ。
衆目の中で告白する理由が、俺には見つけられなかった。
藤宮ほどの生徒なら、手紙を一通送れば二人きりの機会などいくらでも作れる。
それをせず、逃げ場のない教室のど真ん中を選んでいる。
まるで——そうしろと誰かに命じられたかのように。
俺は、まわりへ視線を巡らせた。
クラスメイトたちは、みんながみんな祝福の眼差しを向けている。
中には「当然だ」と呟く者までいる。
俺のどこが彼女と釣り合うのだろう。
断ろうが受け入れようが、この一部始終は明日には学年中に知れ渡るだろう。
それを思うと、返事どころではなくなってしまう。
「藤宮さん」
俺は、なるべく穏やかに切り出した。
「こんな大勢の前で、平気ですか? もし嫌なら、やっぱり場所を変えましょう。こういうのは、周りに聞かれながらするものじゃないと思うので」
藤宮の表情から、すとんと何かが抜け落ちた。
用意していた筋書きが途切れたような顔。
次の台詞を探しているけど、見つけられずにいる。
開きかけた唇が、声にならないまま止まっている。
「……なんで」
やっと出てきたのは、消え入りそうな一言だった。
「なんで、そっちが困ってるのよ。私のことなんて、気にして……」
「だって、藤宮さんが疲れてる気がして」
俺の返事は後でも良いが、今の藤宮の様子は見ていて落ち着かなかった。
「……はぁ」
教室の後方で椅子を鳴らす音がし、舌を打つ低い音が、こちらまで届いた。樫村がため息を吐く。
机に肘を突いて、こちらの様子を眺めている。
さっきまでの、退屈しのぎを見つけたような薄笑いが失せていた。
代わりに浮かんでいるのは、あてが外れた者の苛立ちに近い色だ。
藤宮は、樫村のいる方角をちらとうかがった。
それから唇を結び直し、逃げ道を塞ぐように一歩、俺へ詰め寄る。
「……返事、聞かせてほしい……ここで」
声が揺れている。迫っているのに、自分が追い込まれているかのようだった。
俺は少し考えた。告白は素直に嬉しい。
だが、今の藤宮に軽々しく応じるのは違うだろう。
彼女のことを、俺はまだ何も知らない。
好きだと言われた理由も分からない。
それなのに頷くのは、藤宮に対して不誠実に思える。
しかし——
円城、めちゃくちゃ人望あるじゃねぇか!
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