1.親切な男
放課後の路地に、革靴の音が響いていた。
俺——円城温がその角を曲がったのは、単に家までの近道だったからだ。
何もない日くらい、いつもと違う道を通ってみたくなる。
それだけの、本当にどうでもいい理由だった。
曲がった先には四人の男がいた。
三人は背が高くて、髪が明るい。
学ランはだらしなく着崩されているし、ボタンをほとんど留めていない。
いかにも、という感じの三人組。
そして残る一人は小柄で、俯いていて、鞄を胸の前で抱えていた。
うちの制服じゃないな。他校の子らしい。
その小柄な男子が、背の高い男に胸ぐらを掴まれて爪先立ちになっていた。
「た、だから……金なんて持ってないって言ってるだろ」
「その鞄の中、見せてみろよ。無かったら次はポケットだ」
あー……これはよくないやつだ。
俺は足を止めた。危ないから引き返すのが正解だと、頭の九割はそう言っているが、困っている人を見過ごすわけにはいかない。
「あの、ちょっと良いですか?」
四人の視線が一斉にこっちを向いた。
掴まれていた子が、助けを求めるより先に、驚いた顔で目を見開く。
俺は二人の男子の間に身体を割り込ませた。
掴んでいた手が緩み、背の高い男が眉を寄せて俺を見下ろす。
近くで見ると、想像の一・五倍はデカいな。
頭一つ分どころじゃない。
肩幅は倍くらいあるし、腕もたぶん俺の太ももより太い。
勝てる要素はゼロである。
「おい、なんだよお前」
「カツアゲなんて、今時流行りませんよ」
「はぁ?」
男の声が一段低くなった。
同時に、俺の胸ぐらへ手が伸びてくる。
シャツごと引き寄せられて爪先が浮きかけた。
「関係ねぇやつが首突っ込んでんじゃねぇよ。それとも何だ? こいつの友達か?」
「いえ、知らない人ですけど……」
男の手が止まる。
「……はぁ? なら、どうしてこんな、勝ち目がないって分かってる相手に向かってきたんだよ」
「どうしてって、困ってるみたいだったんで……」
沈黙。背の高い男も、後ろの二人も、掴まれていた子まで、全員が俺を見ている。
「知らねぇやつのために、この状況に突っ込んできたのか、お前……」
「は、はい……」
頷くことしかできない。
誇張でも皮肉でもなく、困っている人がいたら助ける。
俺の中ではそれがごく当たり前で、知り合いかどうかは関係ない。
しかし、彼ら三人——いや四人——にとっては当たり前じゃないらしい。
四人ぶんの「こいつ何言ってんだ」という視線が刺さってくる。
背の高い男が、俺を掴んでいた手を離した。
男は数秒こっちを睨んでから、後ろの仲間へ振り返った。
「……なんだこいつ」
「し、知らねぇよ」
仲間の一人が肩をすくめる。
よかった。殴り合い寸前の空気が、なんとか気の抜けた方向に傾き始めている。
俺はその隙に、小柄な子の腕をそっと引いて自分の後ろへ移した。
抵抗はされなかったというか、されるがままだった。
「で、お前」
背の高い男が、改めてこっちに向き直る。
染めた髪の下の目が、上から下まで俺を値踏みしている。
制服を確認して、ふん、と鼻を鳴らした。
「三鷹高か、真面目そうな顔しやがって。財布出せよ」
「財布ですか?」
「庇うんなら、そいつの分もお前が払え。それで手打ちにしてやる」
理屈がめちゃくちゃだが、それで丸く収まるならいいか。
俺はため息を吐きながらも、素直に鞄へ手を入れた。
財布、財布……と探しながら、ふと男の腕が目に入った。
学ランの袖。肘のあたりに縫い目があった。裂けた布を継ぎ合わせた跡だ。
糸の色が生地とちょっと違うし、縫い目の間隔が均一じゃない。
最初は細かいが、途中から粗くなって、また細かくなっている。
手縫いだ。あまり慣れていない手つきの。
「それ、自分で縫ったんですか」
「……あ?」
「その袖の縫い目です。ミシンじゃなくて手縫いですよね。糸の引き方的に」
男の目が泳いでいる。
後ろの仲間二人が「なんの話?」という顔で袖を覗こうとして、男がとっさに腕を引っ込めた。
「うるせぇ。関係ねぇだろ」
「破れたのを直すのって、大変ですよね。学ランの生地って厚いから、針が全然通らなくて」
俺は続ける。悪気はまったくないし、むしろ感心していた。
裂けた学ランを、店にも出さず自分で繕う。
それがどれだけ面倒か、ひと通り針を握ってきた俺には分かる。
しかし、男にとっては違ったらしい。
仲間の前で、隠していたものを暴かれたという顔をしている。
それも、財布出せと凄んだ相手に。
虚勢が袖の縫い目からぺりぺりと剥がれていくようだ。
男の首から上が、じわじわ赤くなっていった。
「てめぇ……!」
男の手が、もう一度俺の胸元へ伸びてくる。
今度は本気の勢いだ。避けられない。
だから——俺は避けなかった。
避ける代わりに、鞄から別のものを取り出して、両手で男の前に突き出した。
「お前……これは……」
俺が出したのは財布じゃなく、ケースだ。
中には糸巻きが数種類、針山、小さな鋏。裁縫セットである。
「ここで直せますよ、五分あれば」
「……直せるって……」
男は、差し出された裁縫セットと俺の顔を、二、三度見比べた。
振り上げかけた手が、行き場をなくして宙に浮いている。
「マジで言ってんのか」
「マジです。糸の色は黒でいけますよね。それとも紺のほうがいいですか?」
俺は返事を待たず、ケースから糸巻きを選んで針を抜いた。
路地の隅にしゃがみ込み、男の袖を光の差すほうへ引き寄せる。
男は抵抗しなかった。
というより、抵抗するきっかけを見失ったのだ。
腕を引かれるまま、助けを求めるみたいに仲間を見た。
「お、おい兄貴、どうすんだよこれ」
「知らねぇよ……! こいつ、勝手に始めやがって」
兄貴と呼ばれた男——背の高い男は、しゃがみ込んだ俺を前に、突っ立ったまま動けずにいる。
殴るに殴れず、かといって逃げれば格好がつかない。
カツアゲ相手に道端で裁縫を始められて、正しい対処を知っている人間は、この世にいないだろう。
俺は針に糸を通した。夕方の光は斜めに差して針穴が見えにくかったが、それでも一度で通せた。家でさんざんやってきたからだ。
ほつれた制服、妹のスカートの裾上げ、母のエプロンの肩紐。
縫い物はいつのまにか俺の担当になっていた。
「これ、破れたのけっこう前ですよね」
「な、なんでそんな事まで分かるんだよ」
「糸が褪せてるじゃないですか。直したあとも何回か引っかけたでしょう。継ぎ目の横、生地が薄くなってるんで」
破れの周りを指でなぞる。
肘の継ぎ目のすぐ横が、擦り切れて毛羽立っていた。
何度も同じ場所を庇いながら着てきた跡だ。
男は答えなかった。
その代わり、俺の手元をじっと見ている。
値踏みするのとも睨むのとも違う。
「なんでお前、俺の制服を直そうとしてんだよ」
声から、先ほどまでの凄みが抜け落ちていた。
「なんでって、直せそうだったから……」
「そうじゃねぇ。俺は、お前からカツアゲしようとしてたんだぞ?」
「あー……でも、破れた袖とカツアゲは、俺の頭の中では別々の場所にあるっていうか……」
目の前にほつれがあって、直せる道具が手元にある。
だったら直すしかない。
「……意味がわかんねぇ」
男が力なく吐き捨てる。
怒っているというより呆れ果てている、毒気の抜けきった横顔だ。
俺は、ついに縫い進めることにした。男の粗い針目を一度ほどき、間隔を整えながら継ぎ直していく。
裂けた布の端を内側へ折り込んで、表に響かないように始末する。
こうしておけば、次に引っかけても簡単には広がらない。
「……こういうの、母さんがやってくれてたな」
ぽつりと男が言った。
俺は針を動かす手を緩めず、続きを待つ。
「昔の話だけどな。今は仕事で夜まで帰ってこねぇ。だから、破れたなんて言えねぇんだよ。くたくたになって帰ってくるババアに、こんなことで手間かけさせられるかよ」
「それで、自分で縫うことにしたんですね」
「見よう見まねってやつだ。上手くいくわけがねぇ」
俺が解ききれずに残した粗い針目が、まだ半分ほど残っている。
不格好で歪んでいるが、誰かに見せるために縫ったわけじゃない。
「上手いと思いますよ」
そう言うと、男は顔をしかめた。
「はぁ? どこがだよ、ガタガタじゃねぇか」
「ガタガタでも、直そうとして形になってるじゃないですか。破れたまま着るより、俺はずっといいと思います」
後ろの二人も、いつのまにか口を閉じている。
狭い路地で、俺が作業する音だけが流れていく。
「……変わってんな、お前」
「ありがとうございます!」
「褒めてねぇよ」
突き放すような言葉とは裏腹に、男の口元は、ほんのわずかに上がっていた。
最後のひと針を留めて糸を鋏で切ると、継ぎ目は、どこが裂けていたのか分からないくらいに平らになっていた。
「はい、できました。しばらくは引っかけても平気だと思います」
男は袖をまじまじと見つめた。継ぎ目を指でなぞり、試すように軽く引っ張って、それから「へえ」と間の抜けた声を漏らした。
「……いくらだ?」
「え?」
「金だよ。直してもらった礼だよ。いくら払えばいい?」
「いらないですよ、そんなの」
俺が笑うと、男はガシガシと頭をかく。
「……猪狩だ。俺の名前は、猪狩豪……お前は」
「円城温です」
猪狩は俺の顔をしばらく眺めてから、片手を軽く上げた。
「覚えとくわ、円城」
背を向けて歩き出す猪狩を、二人の子分が慌てて追いかけていく。
その背中を見送っていると、さっきまで縮こまっていた小柄な子が、いつのまにか俺の隣に立っていた。
「あ、あの……ありがとうございました!」
深く頭を下げて、その子も駆け去っていく。
路地に一人残されて、俺は裁縫セットをケースに戻した。
なんだかんだで丸く収まった。
悪い人じゃなかったのかもな、猪狩。
カツアゲはいただけないけど。
ケースを鞄にしまい、俺は家路についた。
お久しぶりです。歩く魚です。
とにかく親切な主人公が嘘告されたらどうなるのか…的な話です!
書いていて思いましたが、猪狩がヒロインになりそうな気がしています。ちゃんとしたヒロインもいますが。
以下追加↓
今作は二ヶ月以上前に八話まで書いたのですが、多忙のため全体的な執筆スケジュールを見直すことにし、供養版となりました。
めっちゃ伸びたりしたら連載しますので、ワクワクすっぞという方は評価ポイント等いただけると幸いです!




