第93話 七日目の二つの記録
四日目、西の巡回票には『冷気を感じず』と書かれた。
ガルドはその一行を見て、口を閉じた。
昨日、手の甲に触れた冷たさを覚えている。けれど、自分が感じたからといって、今日の巡回者にも感じろとは言えない。
「戻った風が、また止まったのか?」
隣の冒険者が尋ねた。
リーネは、二枚の巡回票を重ねずに並べた。
「昨日は二人が感じました。今日は、通った三人とも感じていません。まず、そこまでです」
四日目の紙に、ガルドの指の跡がつきかけていた。
彼は手を引いた。
「消すなよ。その『感じず』も、俺のと一緒に残してくれ」
七日間を待つと決めた時には、待てば答えが一つになると思っていた。
だが、集まってきたのは、簡単にはそろわない言葉だった。
◇
五日目には、別の隊の弓使いが左の袖口に冷たさを感じた。
同行者は気づかなかった。
六日目の巡回票は、また『感じず』。
どの隊も、出どころを確かめには行っていない。
荷物を床へ置かず、西分け石の推定位置にも近づかなかった。
記録された範囲は、どれも三日目の報告場所に近い。
ただし、同じ一点ではない。
通った時刻も、歩く人数も違っていた。
リーネは、感じた人数だけを足して結論を出さなかった。
西側の巡回は、冷気を調べるためのものではない。
予定された通路を歩いた時に、気づいたことを残しているだけだ。
一方、北回廊奥の三日間には、立ち入りの記録がない。
門を見ていない日の欄へ、セシアは『異常なし』と書かなかった。
『予定どおり観察休止。門前の状態は未確認』
ダリオが横から覗き込む。
「西は感じなかった。北は見てない。同じ空欄にはできないんだな」
「ええ。見に行っていないことを、変わらなかったことにはできないわ」
セシアは筆を置き、固くなった指を一本ずつ開いた。
机の上に、折り畳んだ七日目の用紙がある。
水滴紋。
紙片。
冷えの残り方。
帰還後の道具。
次は、また自分たちで確かめる番だった。
◇
七日目の朝。
ダリオは、三つの紙片をいつもの順に確かめた。
左。
中央。
右。
出発前の冷えはない。
破れも、目立った曲がりもなかった。
レオルは帰還予定の時刻を見て、剣帯を締め直した。
「七日目だからといって、長くいるなよ」
「分かってる。紙も三枚のままだ」
ダリオは袋を閉じた。
第三層北回廊は静かだった。
石扉と呼んでいた旧水守門が、薄暗い通路の先に見える。
開かないことばかり気にしていた頃より、ずっと多くのものが表面に見えた。
水滴の印。
輪へ渡る細い線。
外の向きを示すかもしれない、欠けた一歯。
セシアと補助員は、前回の写しを開かず、それぞれ今日の形を描いた。
描き終えてから比べる。
水滴紋の右下は、三日目と同じ細さに見えた。
輪へ向かう線も残っている。
濃く戻った箇所は、二人とも描いていなかった。
「目立った再濃化なし。薄くなった部分は維持」
セシアが書く。
水音は聞こえない。
滴下もない。
足元の乾いた筋にも、湿りの範囲にも、はっきりした変化はなかった。
左の紙片は動かなかった。
中央も同じ。
右へ移り、定めた高さで止める。
ダリオは下端を見た。
動かない。
砂時計の砂が落ちる。
もう一度揺れてくれれば、三日目と比べられる。
そう思って、木棒を握る指に力が入った。
ダリオは指を緩めた。
揺らすのは、自分ではない。
ひら。
終わりに近いところで、下端が一度だけ震えた。
「右、下端一回」
セシアが時刻を記す。
冷えの判定は、三点とも、ダリオと補助員の『なし』がそろった。
三日目より弱いかどうかは、決められなかった。
それで終えた。
レオルが帰路へ向き直る。
セシアは二枚の写しを別々に収めた。
門は、来た時と同じように閉じていた。
◇
その日の西側巡回から戻ったガルドは、受付へ紙を差し出した。
『冷気を感じず』
自分の欄には、そう書いてある。
隣の斥候の欄は違った。
『左の袖口に、ごく弱い冷たさ。通過後には残らず』
斧使いと弓使いも、変化を感じていない。
「今日は、俺の手には来なかった」
ガルドが言った。
「同じ隊でも違ったのですね」
「ああ。こいつが感じたと言った場所でも、立ち止まって探し直してはいない」
斥候が頷いた。
借りていた荷物袋には、今日も目立った湿りがない。
金具も乾いている。
ガルドは袋を受付脇の返却台へ置いた。
「床へ下ろさず歩くのも、慣れたもんだ」
「通常の使用まで、ずっと禁止しているわけではありません」
リーネが言うと、ガルドは少し笑った。
「分かってる。あそこで冷えるか試すためには、置かなかったって話だ」
その言葉を聞き、リーネは巡回票の確認欄へ印をつけた。
あとから帰還した《白狼の剣》の道具にも、冷えや曇りは残っていなかった。
魔力灯の留め金。
剣帯の金具。
槍袋の底。
三つの紙片も、別々に置いた後の二度の確認まで、冷えなしだった。
リーネは二つの束を机へ並べた。
北は、決めた日に同じ方法で見た記録。
西は、通常巡回で気づいたことの記録。
どちらにも、確かめられたことと、確かめていないことがある。
セシアは北の写しを押さえた。
「観察した三日目と今日、門に冷えの再発はありません。道具にも持ち帰っていない」
「西では、三日目、五日目、今日に体感報告があります。ただし、全員ではありません」
リーネが続ける。
「四日目と六日目の『感じず』も残します。冷気がずっと流れていたとは書けません」
ガルドが自分の紙を見る。
「戻ったように思ったが、元どおりかは分からん」
「はい」
レオルは、机の端にある古い地図へ目を向けた。
西分け石。
二つの座。
北へ向かう細い線。
「第二座を見た者はいない」
その一言で、部屋が静かになった。
リーネは判断書の書き出しを変えた。
『第二座、正常』
そうは書かない。
『観察範囲に、座替えを急ぐ悪化は確認されず』
その下へ、西の冷気が戻り始めた可能性を記した。
「使わなくて済んだのか。替え石は」
ダリオが聞いた。
「少なくとも、この七日間は使わずに終えられました」
リーネは答えた。
「これからも不要と決めるのではなく、次に判断する日を提案します」
七日目の報告に添える案は、三つだった。
座替えを実施しない。
現在の立入制限を維持する。
旧水守門の次の予定点検を、最初の日から数えて十四日目とする。
それまでの西側は、通常巡回を続ける。
冷気を探すために隊を増やさない。
新しい湿りや地鳴りなどがあれば、予定日を待たずに退避し、組合へ報告する。
「また待つのか」
ガルドが言った。
責める声ではなかった。
「ただ放っておくのとは違います」
リーネは十四日目の欄へ枠を引いた。
「誰がいつ確かめるかと、それまでに何が起きたら止まるかを決めます」
ガルドは、日付のない空白ではなくなった欄を見た。
「なら、次も書けるな」
◇
封書がリント村へ届いたのは、七日目の観察を終えた翌々日の朝だった。
エイルたちは、村の井戸と水車、北結界石の確認を済ませていた。
工房の床下でも、二つの寝石は近い音を返している。
ミラが封を開く。
最初に出てきたのは、北回廊旧水守門の写しだった。
次は、西側巡回の束。
ガルドの太い字で書かれた『感じず』が、エイルの目に留まった。
エイルは、ほかの日の記録でその一行を隠さないよう、紙を横へ置いた。
「自分が感じた日だけを、残したわけではないんですね」
「七日目は、一人だけが感じています」
ミラが答えた。
エイルは、北と西の記録を読み直した。
北では、冷えが再発していない。
西では、弱い冷気を感じる日がある。
ただし、どこから出ているかは分からず、続けて出ていたかも分からない。
「重さの配分が戻り始めている、という考えとは矛盾しません」
エイルが言う。
「でも、第二座の座りが元へ戻った証拠ではありません。擦れた粉が出た理由も、残っています」
ガンツは頷いた。
「だから、石を替えるとも、もう安全だとも言わん」
「はい。今は、交換より、働きが続くかを見る方を選びます」
ミラが新しい用紙を開いた。
「組合の十四日目点検案は?」
「賛成です。最初の観察日から数えた十四日目で、お願いします」
点検日を曖昧にしない。
悪化時の退避と報告は、予定日に優先する。
替え石と二枚の座合わせ片は、リント村で保管を続ける。
それらを確かめ、エイルは返答へ署名した。
ポロが、二つの報告の間に小さな丸を描く。
「北も西も、直ったって丸?」
ミラが尋ねると、ポロは首を振った。
「七日分、そろったって丸」
エイルは、ようやく笑った。
「それなら、丸をつけられます」
ハンナが湯の入った器を置く。
エイルは受け取ってから、指が冷えていたことに気づいた。
石を一つも交換しなかった七日間だった。
けれど、門に手をかけず、現場へ余計な人数を送り込まず、悪くなっていないかを確かめる人たちがいた。
その仕事が、二つの束になって届いている。
◇
報告書の最後に、薄い紙が一枚挟まっていた。
ミラは読み終えて、返答用の紙とは別に置いた。
「こちらは、調査費の確認です」
「調査費?」
「リーネさんからです。今回の経過判断と、今後の保管・点検を分けて、請求書を出してほしいと」
エイルは紙へ目を落とした。
『交換部材を使用していないことを理由に、診断費を省略しないでください』
その下には、短い追記があった。
『開けるべきでない門を、開けずに済みました。
その判断に使った工房の仕事を、記録に残したいと考えています』
エイルは、しばらく何も言わなかった。
工房の床下で、使われなかった替え石が鳴る。
こん。
……りん。
今日は、その音が空振りのようには聞こえなかった。
ミラは新しい帳面を手元へ寄せた。
今度は古い記録を読むためではない。
「何をした仕事として、書きましょうか」
エイルは、北と西の報告を見た。
直さなかった。
だから、何もしていない。
そういう一行だけは、もう書きたくなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
七日目にそろったのは、復旧完了の証明ではなく、次の判断に使える二つの記録でした。
冷えを持ち帰らなくなった北の門。
感じる日も、感じない日もある西の冷気。
ガルドも、自分が感じなかった日の記録を隠さず提出しています。
石を交換しなかった七日間にも、確かに仕事はありました。
それを組合が代金のある仕事として認めたことが、エイルにとって次の一歩になります。




