第92話 西へ戻る冷気
懐かしい冷たさが、ガルドの左手を撫でた。
第三層西旧採石跡の外周。
組合が巡回を許可している通路を歩いていた時だった。
肩に掛けた荷物袋の外側へ、指を添えていた。
その指先から手の甲へ、ひやりとしたものが流れた。
ガルドは足を止めた。
地鳴りの前にも、ここに近い場所で冷たさを感じたことがある。
床へ置いた荷物の底が冷え、汗を拭いた仲間が肩をすくめた、あの冷気だ。
思わず、通路の先へ片足が出かけた。
曲がり角には、組合の封鎖札が下がっている。
その先へ進めば、昔、素材袋を置いた場所に近づく。
ガルドは足を戻した。
「止まれ。だが、前へ詰めるな」
後ろを歩いていた三人が、間を空けたまま止まる。
地鳴りはない。
石が落ちる音もない。
たった一息の冷たさだけが、手の甲に残っていた。
◇
座替えを見合わせる七日間。
今日は、その三日目だった。
北回廊では、《白狼の剣》が予定どおり旧水守門を観察する。
ガルドたちは、別の巡回だ。
西旧採石跡の外周を通り、通行できる範囲に変化がないか確かめて戻る。
西分け石の推定位置へ近づく仕事ではない。
肩の袋も、地鳴りの日に使ったものとは違った。
白い粉の残った古い素材袋は、今もリント村修理工房へ預けている。
今日の袋は、組合から借りた予備品だった。
荷物は軽い。
それでもガルドは、袋を床へ下ろさなかった。
「どうした?」
斧使いが聞く。
ガルドは、すぐには自分の感覚を話さなかった。
「今、何か感じたか。俺の話はあとにする」
斥候が左の袖口を見る。
「少し寒かった。袖の中へ入ったような……でも、風向きまでは分からない」
斧使いは首を振った。
弓使いも、変わったことは感じていないと言う。
四人全員が感じたわけではない。
ガルドは袋を支えたまま、片手で小さな記録板を取り出した。
斥候が板を持ち、ガルドが短い炭筆を走らせる。
『左手の甲に弱い冷たさ。
袋の外側。
床へは置いていない』
書いてから、斥候にも別の紙を渡す。
「お前が感じたことは、そっちへ書け。俺の言葉に合わせなくていい」
弓使いが、封鎖札の向こうを見た。
「前に冷えてた場所、あの先だろ。もう少し近くで比べれば――」
「行かない」
ガルドは言った。
早い返事だった。
仲間が少し目を丸くする。
「確かめなくていいのか」
「確かめたくなるから、止まってる」
ガルドは自分の手の甲を見た。
もう、冷たさは薄い。
今なら分かるかもしれない。
どの継ぎ目から出たのか。
西分け石の方から来たのか。
そう思うほど、足が前へ出たがる。
けれど、見つけた風を追えば、巡回の範囲を越える。
ガルドは炭筆を握り直した。
『出どころ、不明』
太い字になった。
「次へ進む。決められた通路だけだ」
四人は封鎖札の手前で、通常の帰路へ曲がった。
通り過ぎた先では、ガルドの手の冷たさは消えていた。
借りた袋の側面にも、水滴は見えない。
戻って比べようとはしなかった。
板の最後へ、一行だけ足す。
『通過後、手に冷えは残らず』
以前、風が止まった時には書かなかった。
崩落も怪我もなかったから、報告するほどではないと思っていた。
今日は、その小さな変化を手に持って帰る。
◇
同じ頃、北回廊の旧水守門前では、右の紙片が一度だけ揺れた。
ひら。
ダリオは木棒を動かさず、下端を見つめる。
揺れは弱い。
紙全体が持ち上がることもない。
セシアの横で、補助員が砂時計を確かめていた。
「時間です」
ダリオは静かに木棒を下げた。
「右、下端が一度。冷えは感じない」
補助員の冷えの判定も同じだった。
左と中央には、揺れも冷えも確認されていない。
セシアは、先に描き終えた水滴紋の写しを見た。
右下の縁は、前回の細さを保っている。
輪へ向かう線にも、目立った変化はない。
今日になって急に薄くなったわけではない。
濃く戻ったようにも見えない。
補助員の写しにも、同じ部分が同じように残っていた。
「水滴紋、前回と同程度。細線も大きな変化なし」
セシアが記録する。
水音なし。
滴下なし。
乾いた筋の位置にも、見える範囲の石床にも、急な変化はない。
レオルは観察線の手前から足元を見て、帰路へ視線を移した。
「終わりだ」
ダリオは三つの紙片を別々にしまった。
「今日は、変わらなかったな」
「冷えは戻っていない」
セシアが答える。
ダリオは自分の槍袋を見た。
底も紐も乾いている。
前には、帰還したあとも冷えを残した道具だ。
今は、指へ嫌な冷たさが移ってこない。
「そうか。変わらない方がいいこともあるんだった」
レオルが先に歩き出す。
「七日目にも、同じことを言えるか確かめる」
誰も、門へ最後の一歩を近づけようとはしなかった。
◇
ガルドたちが組合へ戻った時、リーネは受付で巡回票を受け取った。
帰還人数は四人。
負傷者なし。
立入制限を越えた者もいない。
その確認を終えてから、ガルドは小さな記録板を差し出した。
「西で、冷たさを感じた」
リーネの筆が止まる。
「場所を教えてください」
机へ広げられた地図に、ガルドは指を置きかけた。
西旧採石跡。
通常巡回の通路。
封鎖札のある曲がり角より、手前。
正確な一点を示そうとして、手が止まる。
「この柱と、その次の曲がり角の間だ。足を止めた場所は覚えてる。だが、感じ始めた場所までは言えない」
リーネは一点の丸ではなく、通路に沿った短い範囲を書いた。
「この範囲内で感じた。発生源は不明、とします」
「ああ」
斥候も自分の紙を渡した。
左の袖口に弱い冷たさ。
風向きは分からない。
ガルドから冷気の話を聞く前に感じていた。
残る二人は、変化を感じていない。
リーネは四人分を分けて記録した。
感じなかった二人の欄も、消さない。
「地鳴り前の冷気と同じだと思いますか」
「似てる」
ガルドは答えた。
少し迷ってから、首を振る。
「いや。懐かしいと思った。それ以上は分からん。今日は袋を床へ置いてないし、前に休んだ場所にも行ってない」
リーネはその言葉を、急いで短くしなかった。
『過去の冷気に似ると感じた。
場所と確認方法は当時と異なる。
同じ冷気かは判断できず』
ガルドが紙を覗き込む。
「それじゃ、戻ったとは書けないな」
「報告の見出しは、『西側通常通路で弱い冷気を体感』にします」
「戻ったかもしれない、は?」
「所見として残します。確認したこととは、欄を分けて」
ガルドは肩の袋を下ろしかけ、リーネを見た。
「この袋も、預けるか」
「まず、通常の道具確認を。冷えや湿りが残っていなければ、今のところ預かる理由はありません」
袋には目立つ湿りがない。
金具にも曇りはない。
ガルドの手にも、斥候の袖口にも、冷えは残っていなかった。
元の素材袋のように、調べるための付着物が見つかったわけでもない。
確認を終えた袋を受け取り、ガルドは短く息を吐いた。
「借り物まで預けることになったら、明日は鍋を背負うところだった」
斧使いが笑う。
「その鍋も借り物だろうが」
リーネの口元も、少し緩んだ。
「袋は返せます。ただし、今日の記録は置いていってください」
「ああ。それを持ち帰ったんだ」
◇
ほどなく、《白狼の剣》も帰還した。
セシアの提出した観察票は、現地で書き終えられていた。
西側の報告を聞く前のものだ。
リーネは二組の記録を、受付奥の机へ並べた。
北回廊旧水守門。
水滴紋は前回と同程度。
右紙片の下端が一度揺れた。
三紙片と持参道具に、冷えや湿りは確認されなかった。
西旧採石跡の通常通路。
四人のうち二人が、ごく弱い冷たさを感じた。
通過後に冷えは残っていない。
発生源と風向きは分からない。
ダリオが二枚の報告を見た。
「北から冷えが消えて、西へ戻った?」
セシアは、二枚の報告を読み比べた。
「そう見えるけれど、同じものが移ったかは分からないわ」
リーネも頷く。
「西の通路には、別の風が入ったのかもしれません。今日だけの温度差かもしれません」
ガルドが腕を組みかけて、やめた。
「北で冷えるのは困ったんだろ。西で冷えたのは、いいことなのか?」
その問いに、セシアは魔力灯の袋を机へ置いた。
「北では、ここに曇りが出て、帰ってからも留め金が冷たかった」
留め金は乾いている。
今日の点検では、曇りも冷えもない。
「あなたが今日感じた冷たさは、通路を離れたら消えた。場所も、残り方も違うの」
「冷たいだけで、一緒にするなってことか」
「ええ。ただ、良い変化と決めるのも早い」
リーネは、西の記録の下へ一文を加えた。
『地鳴り後に弱まったとされる西側の息が、戻り始めた可能性』
その次に、発生源不明、継続未確認と記す。
北から西へ、線は引かなかった。
レオルがガルドの記録板を見る。
「追わなかったのか」
「少し、追いたくなった」
「それで?」
「ここまで持ってきた」
ガルドは板を指で軽く押し出した。
「前は、風が止まっても書かなかった。今度は感じた。ただ、どこから来たかまで知った顔はできん」
レオルは頷いた。
「それでいい」
ガルドは何か言い返しかけたが、口を閉じた。
リーネが巡回票へ完了印を押す。
冷気を見つけたことへの褒美ではない。
決められた経路を守り、四人で帰還し、報告を終えた印だ。
「本日の巡回を受理しました。全員、戻りましたね」
「ああ」
ガルドは、ようやく肩から力を抜いた。
◇
西側へもう一組を出す案は、採用されなかった。
ガルド自身が、首を振った。
「今から行っても、同じ冷たさが残ってるとは限らない」
「確認できるうちに、と思いませんか」
リーネが尋ねる。
「思う」
即答してから、ガルドは自分の報告へ目を落とした。
「だが、戻った風を追うための巡回じゃない。今日はここで終わる」
リーネは七日間の予定表を開いた。
三日目の欄に、二組の帰還時刻を書き入れる。
四日目、五日目、六日目。
北回廊奥の観察は休止。
七日目。
同じ条件で旧水守門を一度だけ確認する。
西側は通常巡回を続けるが、冷気を探すために経路も回数も変えない。
西分け石の推定位置と床の継ぎ目への立入制限も、そのままだ。
同じ日に二つの変化が並んだ。
だが、それを確かめたいという気持ちで、決めた七日間を縮めることはしなかった。
リーネはリント村へ送る報告の末尾へ書く。
『三日目の予定観察を終了。
北回廊旧水守門に冷えの再発なし。
同日、西側の通常通路で弱い冷気の体感報告あり。
両者の関係は未確認。
再接近および臨時の確認巡回は実施せず』
ダリオが、紙の端に小さな図を添えた。
門の側には、乾いた魔力灯。
西の通路には、袖口を押さえる人。
二つの間は、空けてある。
「矢印、描かないのか」
ガルドが聞く。
「まだつながってないからな」
ダリオは筆を置いた。
ガルドはしばらく図を見て、自分の記録の写しを隣へ重ねた。
どちらにも、床へ下ろされた荷物袋は描かれていなかった。
夕方の組合に、冷たい風は吹いていない。
四人の装備も、《白狼の剣》の道具も、乾いたままだった。
西で感じた一息は、もう誰の手にも残っていない。
それでも、今日は失われなかった。
場所を決めつけず。
出どころを探りに行かず。
感じなかった仲間の記録と一緒に、紙の上へ残された。
北の門に冷えが戻らないまま、西の冷気は続くのか。
七日目まで、あと四日だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、座替えを見合わせて三日目のアルバ側を描きました。
北の旧水守門では、冷えが戻っていません。
一方、西の通常通路では、ガルドたちが弱い冷たさを感じました。
ただし、出どころは分からず、全員が感じたわけでもありません。
以前は、風が止まったことを記録しなかったガルド。
今回は、感じたことも分からないことも、そのまま持ち帰りました。
小さな発見と同じくらい、確かめたくなる足を止められたことが、彼の変化になっています。
次の予定観察は七日目。
二つの場所の記録が、どのように並ぶのかを見守っていただければ幸いです。




