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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第9話 村長代理ミラの本音

 南の畑を出る頃には、村の空は夕闇に沈み始めていた。


 背後では、畑の結界石が柔らかな緑の光を放っている。

 その光に守られるように、麦の葉が夜風に揺れていた。


 ポロはハンナさんと一緒に畑へ残った。

 虫が戻ってこないか見張る、と胸を張っていたが、ハンナさんに「畑の中には入らない」と何度も念を押されている。


 村へ戻る道を、俺とミラ、ガンツさんの三人で歩いた。


 遠くで水車が小さく鳴る。


 こ、とん。


 井戸の方からは、澄んだ水の音がかすかに聞こえる。


 さら。


 畑の結界石は、夜を迎える前に息を整えた。


 りん。


 一つずつ、村の音が戻っている。


 なのに、村の中央に近づくほど、胸の奥が重くなった。


 鐘楼が見えてくる。


 夕闇の中で、石造りの塔は黒い影になっていた。

 屋根の下に吊られた防護鐘は、まだ鳴っていない。

 それでも、近づくたびに低い震えが耳に届く。


 ごぉん。


 音というより、地面の奥から押し上げられる息のようだった。


 ミラが足を止めた。


 広場の手前。

 昨日、俺が最初に井戸を見た場所の近くだ。


「ミラさん?」


 声をかけると、ミラは鐘楼を見上げたまま、すぐには返事をしなかった。


 ガンツさんも足を止める。

 彼はミラの横顔を一度見て、それから俺に目を向けた。


「俺は先に鐘楼の周りを見てくる。石段が崩れていないかだけ確認する」


「一人で大丈夫ですか?」


「鐘には触らん。見るだけだ」


 ガンツさんはそう言うと、道具袋を担ぎ直して鐘楼へ向かった。


 わざと二人にしてくれたのかもしれない。

 そう思ったが、口には出さなかった。


 広場には、夜の支度をする村人の気配があった。

 家々の窓に小さな灯りがともり始めている。

 どこかの家からは、薄い粥の匂いが流れてきた。


 昨日直した井戸の水で作った夕食だろう。


 それだけで、ほんの少しだけ村が温かく見えた。


 ミラはまだ、鐘楼を見上げている。


「怖いですか?」


 俺が尋ねると、彼女は小さく笑った。


「分かりますか?」


「顔色が、です」


「また音じゃないんですね」


「はい」


 ミラは、少しだけ肩の力を抜いた。


 けれど、笑顔はすぐに消えた。


「怖いです」


 彼女は正直に言った。


「防護鐘が鳴らないことも怖いです。村を守れないことも怖いです。でも、それより……」


 ミラは帳面を胸に抱きしめた。


「自分が、何も知らなかったことが怖いんです」


 夜風が広場を通った。


 井戸の水面が、かすかに揺れる音がした。


 ミラは続けた。


「私は、村長代理です。みんなの前では、そう名乗っています。困ったことがあれば、私のところに来る。井戸が止まっても、水車が動かなくても、結界が弱っても、みんな私を見るんです」


「はい」


「でも、本当は何も分かっていませんでした」


 彼女の声は震えていた。


 泣きそうな震えではない。

 ずっと押さえ込んでいたものが、少しずつこぼれていくような声だった。


「井戸の底に水脈石があることも、水車が村を守るために止められていたことも、水路の下に鐘の影があることも、畑の結界石が水の気配で動いていることも。私は、何も知りませんでした」


 ミラの指が、帳面の表紙を強く掴む。


「祖母は水守でした。ガンツさんは知っていました。村の古い仕組みを、誰かは覚えていたはずなんです。でも私は、それを聞こうとしなかった」


「聞こうとしなかったんですか?」


 思わず聞き返した。


 ミラは少しだけ目を伏せた。


「聞いたら、背負わなければならなくなる気がしました」


 その言葉は、意外だった。


 ミラは、いつも背負っているように見えた。

 村の不安も、壊れた道具も、少ない食料も、みんなの期待も。

 小さな肩に全部乗せて、倒れないように立っている人だと思っていた。


 けれど、彼女自身は違うものを抱えていた。


「父が体を悪くして、私が村長代理になりました」


 ミラは静かに話し始めた。


「最初は、少しの間だけだと思っていたんです。書類を預かって、村人の話を聞いて、外から来る商人の相手をして。それくらいならできると思いました」


 彼女は広場の家々を見た。


「でも、井戸の水は少しずつ減って、水車は止まったままで、畑の南端は弱っていって、結界石は雨の夜に薄くなりました。何かが悪くなっているのは分かるのに、どうすればいいか分からない」


 声が少し低くなる。


「そのうち、分からないことを考えるのが怖くなりました。今日も何とか過ごせた。明日も何とか過ごせればいい。そうやって、一日ずつ先延ばしにしていました」


 俺は何も言えなかった。


 分かる気がした。


 壊れている音に気づいても、直す方法が分からない時。

 誰も聞いてくれない時。

 言えば面倒がられると分かっている時。


 俺も、黙ったことが何度もある。


 魔力灯の音が少しおかしい。

 保存箱の冷え方が弱い。

 結界具の留め金が浮いている。


 そう言っても、細かい、うるさい、後でいいと言われる。


 そのうち、言う前に飲み込むようになる。


 壊れると分かっているのに、黙って見ているしかなくなる。


「分からないまま見るのは、怖いですよね」


 俺が言うと、ミラは驚いたようにこちらを見た。


「エイルさんも?」


「はい。俺は、音が聞こえるのに、止められなかったことがあります」


 勇者候補パーティのことが頭をよぎる。


 セシアの魔力灯。

 浮いていた留め金。

 強い衝撃を受けたら魔力が逆流するかもしれないと伝えた。

 けれど、もう触るなと言われた。


 今、あの灯りがどうなっているのかは分からない。


「聞こえるだけでは、直せません」


 俺は言った。


「道具が要ります。時間も要ります。触らせてもらう許可も要ります。誰かが信じてくれないと、何もできない時があります」


 ミラは静かに聞いていた。


「だから、ミラさんだけが知らなかったせいじゃないと思います。村の仕組みは、一人で抱えられるものじゃなかったんです」


「でも、私は村長代理です」


「村長代理でも、一人では井戸を持ち上げられません」


 そう言うと、ミラは少しだけ目を丸くした。


「それは、そうですね」


「水車も一人では回せません。結界石も一人では支えられません。ガンツさんがいて、ハンナさんがいて、ポロがいて、ミラさんが記録してくれて、俺が音を聞く。そうしないと直せませんでした」


 俺は鐘楼を見上げた。


 黒い影の中で、防護鐘は沈黙している。


「たぶん、防護鐘も同じです。一人で直すものじゃない」


 ミラは帳面を見下ろした。


 その中には、ここ数日で分かったことが書かれている。

 井戸。

 水脈石。

 水車。

 水守の約束。

 鐘の影。

 畑の結界石。

 葉留め。


 まだ少ない。

 でも、何もないわけではない。


「私、エイルさんが来てくれた時、少しだけ思ったんです」


 ミラが言った。


「この人が全部直してくれたらいいのにって」


 彼女は恥じるように、小さく息を吐いた。


「井戸も、水車も、結界も、防護鐘も。誰か外から来た人が全部直してくれたら、私はもう村の人たちに申し訳ない顔をしなくて済むかもしれないって」


「普通だと思います」


「普通、ですか?」


「壊れていて、自分では直せなくて、誰かが直せるかもしれないなら、そう思うのは普通です」


 俺は少し考えてから続けた。


「でも、ミラさんは任せきりにはしませんでした。記録を始めました。ハンナさんから畑のことを聞こうとしています。ガンツさんから水守のことを聞こうとしています」


 ミラは、帳面を握る手を少し緩めた。


「それは、俺が全部直すより大事なことだと思います」


「どうしてですか?」


「俺がいなくなっても、村が続くからです」


 言った瞬間、ミラの表情が少しだけ揺れた。


 自分でも、胸が痛んだ。


 いなくなる。

 その言葉を聞くたびに、ポロも不安そうな顔をする。

 ミラも、今、ほんの少し息を止めた。


 俺は慌てて言葉を足した。


「今すぐ出ていくという意味ではありません。ただ、俺一人が全部知っている状態は危ないと思います。俺が聞いた音を、ミラさんが記録して、ガンツさんが形にして、ハンナさんが畑で確かめる。そうやって村に残した方がいいです」


「村に残す……」


「はい」


 ミラはしばらく黙っていた。


 そして、小さく頷いた。


「私、村長代理なのに、村を守るって何なのか、よく分かっていませんでした」


 彼女は広場を見渡した。


 井戸のそばで水を汲む老人。

 窓から漏れる小さな灯り。

 家の前で子どもを呼ぶ母親の声。

 軒下に吊るされた濡れた布。


 どれも、特別なものではない。


 けれど、それが村だった。


「みんなの前で強い顔をすることだと思っていました。困っていません、大丈夫です、何とかしますって言い続けることだと思っていました」


 ミラはゆっくり息を吸う。


「でも、本当は違うのかもしれません。分からないことを、分からないと言うこと。助けてほしい時に、助けてほしいと言うこと。覚えている人から、ちゃんと聞くこと。残すこと」


 彼女は俺を見る。


「それも、村を守ることなんですね」


「たぶん」


 俺は少し照れくさくなって、目をそらした。


「俺も、まだよく分かっていません。でも、そうだといいと思います」


 ミラは小さく笑った。


「エイルさんらしい答えですね」


「すみません」


「いいえ。安心します」


 その時、鐘楼の方から石を叩く音がした。


 こん。

 こん。


 ガンツさんが外壁を調べているのだろう。

 しかし、その後に混じって、別の低い音が響いた。


 ごぉん。


 ミラの顔が引き締まる。

 俺も鐘楼へ目を向けた。


 さっきより、音が近い。


 防護鐘が鳴りたがっている。

 でも、無理に鳴らせば壊れるかもしれない。


 そういう音だった。


 ガンツさんが鐘楼の下からこちらを呼んだ。


「エイル! ミラ!」


 俺たちは急いで鐘楼へ向かった。


 鐘楼の石段の前で、ガンツさんが腕を組んでいる。

 その顔は険しかった。


「鐘には触っていない。だが、下の石が鳴っている」


「下の石?」


「鐘楼の土台だ。水路から上がってくる音を受ける石がある。昔はここで鐘の音を整えていたはずだ」


 ガンツさんが石段の一番下を指さした。


 そこには、丸い模様が刻まれていた。

 長い間、土埃と苔で隠れていたのだろう。

 ガンツさんが表面を払ったことで、ようやく見えるようになっている。


 丸い模様の中心に、小さな溝がある。

 水滴のような形。

 鐘の舌にも似ている。


 俺はその石の前にしゃがんだ。


 耳を近づける。


 水路の音がある。

 井戸の音も、かすかに混じっている。

 畑の結界石の澄んだ音も、遠くから細く届いている。


 その全部が、ここで一度ぶつかっていた。


 そして、上へ行けずに詰まっている。


 ごぉん。


 低い音が石の中で震えた。


「……ここが詰まっています」


「土台がか?」


「はい。鐘そのものではなく、鐘へ音を送る場所です。水路の鐘の影から来た音が、ここで止まっている」


 ミラが息を呑んだ。


「だから、防護鐘が苦しそうに鳴るんですか?」


「たぶん。音が上へ抜けないまま、鐘だけが震えようとしているんだと思います」


 ガンツさんが石段を見上げる。


「直せるか」


 俺はすぐには答えなかった。


 土台石の音は複雑だった。

 井戸の水脈石より深い。

 水車の歯車より重い。

 結界石より広い。


 村中から集まってきた音が、ここで絡まっている。


「一人では無理です」


 俺は正直に言った。


 ミラがこちらを見る。


 ガンツさんも黙っている。


 でも、不思議と怖くはなかった。


「記録が必要です。水路から来る音、井戸から来る音、結界石から来る音を分けて確認しないといけません。石を削るならガンツさんの手が必要です。鐘楼の古い記録も探したいです」


 俺はミラを見た。


「ミラさんの帳面も、必要です」


 ミラは一瞬、驚いたような顔をした。


 それから、ゆっくり頷いた。


「はい。記録します」


 その声には、さっきまでの迷いが少なかった。


「分からないことも、分からないまま書きます。聞いたことも、見たことも、全部」


 ガンツさんが低く笑った。


「ようやく村長代理らしくなってきたな」


「今までらしくなかったですか?」


「強がっているだけだった」


 ミラは少しだけ頬を膨らませた。


「ひどいです」


「本当のことだ」


「でも、否定できません」


 ミラはそう言って、小さく笑った。


 その笑顔は、疲れていた。

 けれど、前より少し楽そうだった。


 鐘楼の上で、風が吹いた。


 鳴らない防護鐘が、かすかに揺れる。


 ごぉん。


 また、低い音。


 でも今度は、ただ苦しそうなだけではなかった。


 待っている。


 そう聞こえた。


 俺は土台石に手を当てた。


 冷たい石の奥で、村の音が絡まっている。

 直すには時間がかかる。

 危険もある。


 けれど、もう一人で聞かなくていい。


 ミラが記録する。

 ガンツさんが石を開く。

 村の人たちが、自分たちの知っていることを持ち寄る。


 そうすれば、たぶん。


「明日、鐘楼の記録を探しましょう」


 俺が言うと、ミラは頷いた。


「集会所と、祖母の古い荷物を調べます。父にも聞いてみます」


「俺は鐘楼の石を見ておく」


 ガンツさんが言った。


「不用意には触らん。だが、どの石が生きていて、どの石が死んでいるかは見ておく」


「お願いします」


 俺たちは三人で、鐘楼を見上げた。


 夕闇は、もう夜に変わりかけている。

 家々の灯りが増え、井戸の周りには水を汲む人影がある。

 遠くの畑では、緑の光がかすかに揺れていた。


 リント村は、壊れたまま眠っていた。


 でも今は、少しずつ目を覚ましている。


 その中心で、防護鐘が静かに待っている。


 ごぉん。


 もう一度、低い音が響いた。


 俺はその音を聞きながら、工具袋を握り直した。


 明日は、鐘楼の声を聞く。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、村長代理ミラの本音の回でした。


村を守る立場でありながら、村の仕組みを知らなかったこと。

分からないことを、分からないと言えなかったこと。

それでも、これから覚え直そうとすること。


エイル、ミラ、ガンツの三人が、それぞれの役割を持って防護鐘へ向かい始めます。


次回は、鐘楼の調査へ。

鳴らない防護鐘そのものではなく、まずは鐘へ音を送る土台石の異常に向き合います。


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