第85話 乾布四を持ち上げる枠
布受け枠を床下へ下ろす直前、乾布四から、これまでになかった音がした。
ぷつ。
細く、乾いた音。
木ではない。
石でもない。
古い布の縁を留めていた糸が、一本だけ切れた音だった。
「止めてください」
俺が言うと、ガンツさんの手が止まった。
布受け枠は、まだ点検板の上にある。
乾布四にも、木札にも、座見の粉筋にも触れていない。
「枠か?」
「違います。床下の布です」
ミラが記録板を抱え直した。
「乾布四のどこですか?」
「東側の縁です。木札より少し上。折り目を留めていた糸が切れました」
ポロが息をのむ。
「布、落ちる?」
「まだ落ちていません」
床下へ耳を澄ませる。
乾布四。
ふ。
……さ。
布の音は残っている。
木札。
から。
位置は変わっていない。
座見の粉筋。
き。
……りん。
粉が動いた音もない。
だが、乾布四の東端だけが、昨日よりわずかに緩んでいる。
一度決めた回収条件へ、なかった項目を加えなければならない。
布受け枠は完成していた。
それでも、今の乾布四を安全に持ち上げられるとは、まだ言えなかった。
◇
その朝も、作業前に村の音を確認していた。
井戸札は『使用できます』。
ハンナさんが白い器へ水を汲み、朝の光に透かす。
「濁りなし。匂いも味も、昨日と変わらないよ」
俺は井戸の縁へ手を置いた。
さら。
りん。
水脈石の音は澄んでいる。
水車小屋では、影車へ細い水を通した。
こ、と。
北結界石が応える。
りん。
水車本体にも、無理のない量の水を流す。
こ、とん。
こ、とん。
二回転。
軸と軸受けの音に乱れはない。
挽き石から落ちる粉も、いつもと同じ粗さだった。
「井戸、水車、影車、粉、異常なし」
ミラが帳面へ記録する。
最後に、北結界石を確認した。
根元に残っていた湿りは、周囲の土と見分けがつかないほど薄くなっている。
石そのものの音。
りん。
……りん。
北側の石片裏にある浅溝。
す。
……り。
中央奥に残っていた冷えの芯は、耳を澄ませても、ほとんど聞こえない。
……ん。
「北結界石。石音安定。浅溝の抜け音継続。冷えの芯、ほぼ消失」
ミラが朝の記録を締めた。
ガンツさんは結界石の座りを確認し、短く言った。
「追加処置なし」
「はい」
村の音は、今日も落ち着いている。
それを確認してから、俺たちは工房へ戻った。
◇
工房の作業台には、完成した布受け枠が置かれていた。
底板のない、浅い四角い木枠。
点検板の開口より、指二本分ずつ小さい。
床下へ下ろす時、板縁へ当てないための余裕だ。
木の角は丸めてある。
ささくれはない。
金具も使っていない。
乾布四や木札へ触れた時、硬い角や金属で傷つけないよう、木栓と麻紐だけで組まれている。
枠の内側には、二本の幅広い布帯。
東西。
南北。
十字に交わり、乾布四の重さを広く受ける。
布帯は一度洗われ、乾かされ、一晩重しを載せて伸びを確認していた。
交差部分には厚みが集まりすぎないよう、布を重ねず編み合わせている。
四隅からは、同じ長さの吊り紐。
左右二本ずつを、二本の持ち上げ棒へまとめる。
俺とガンツさんが棒を持てば、枠の四隅を同じ速さで上げられる。
木札を支える受け帯は、枠とは別だった。
古い引き輪へ重さをかけない。
木札全体を柔らかな布帯で包み、向きだけを保つ。
その役は、ミラが担当する。
ハンナさんは、布と粉筋の動きを見る。
ポロは時間と位置を記録する。
役割も分けていた。
ガンツさんは、枠を作業台へ置いたまま、四隅の高さを測った。
「一晩で歪みなし」
布帯へ同じ重さを載せる。
左右の伸び。
変化なし。
十字帯の交差部。
緩みなし。
木栓。
浮きなし。
枠を黒い布の上へ置き、軽く持ち上げる。
木屑の落下なし。
ハンナさんが布帯を確認する。
「毛羽立ちなし。新しい糸屑も出てないね」
ミラが記録した。
『本番用布受け枠。
一晩静置後、歪みなし。
布帯伸びなし。
木栓浮きなし。
木屑、糸屑落下なし』
ポロが枠の横へ札を置く。
『ひとばん、やすませました』
『ゆがみなし』
『のびなし』
『こな、おとさない』
◇
本物へ使う前に、試験をもう一度行った。
乾布四に近い厚みの試験布。
端には赤い糸。
本物と混同しないためだ。
木札の代わりには、同じくらいの重さの木片。
作業台には白い小麦粉を細く置き、座見粉筋に見立てる。
最初は、正常な折り方の布。
布受け枠を下から近づける。
十字帯が布全体の下へ入る。
ただし、小麦粉の線には触れない。
受け帯で木札役の木片を支える。
「持ち上げます」
俺とガンツさんで、二本の棒を同じ速さで上げる。
枠が水平に上がる。
試験布は横へ滑らない。
折り方も大きく崩れない。
木片も、枠の内側へ収まっている。
粉筋は作業台の上に残った。
ミラとポロが、作業前後の位置図を比較する。
「始点、向き、幅。大きな変化なし」
「成功?」
ポロが聞く。
「正常な布では、です」
俺は答えた。
次は、乾布四の現在の状態を考えた試験。
試験布の東側。
折り目を留めている赤い糸を、一か所だけ切る。
布の東端が、わずかに緩む。
持ち上げる前の形は、先ほどとほとんど変わらない。
だが、下から枠を当て、少し持ち上げると違いが出た。
緩んだ東端が、十字帯と枠縁の間へ寄る。
そのまま上げれば、布端が枠の外へ垂れる可能性がある。
「止める」
ガンツさんが棒を下ろした。
布は作業台へ戻る。
粉筋の一部が、布端の風でわずかに揺れた。
「今の枠では足りません」
ミラが記録する。
『試験布、東端留め糸一か所切断。
布受け枠で持ち上げ時、東端が枠縁へ寄る。
枠外下垂の可能性。
粉筋へ微風。
現状枠のままでは不採用』
ポロが完成したと思っていた枠を見た。
「一晩休ませたのに」
「枠が悪いのではありません」
俺は言った。
「乾布四の状態が、昨日と変わりました」
「糸が切れたから?」
「はい。道具は作った時の条件には合っていました。でも、持ち上げる物の条件が変わりました」
ガンツさんが頷く。
「道具が完成しても、現物が変われば見直す」
ポロは札へ書いた。
『できた道具も、もういちど見る』
『もつものが、かわったから』
◇
東端を支えるものが必要だった。
ただし、布の上から押さえてはいけない。
座見粉筋へ触れてもいけない。
布端を横から挟めば、折り方が変わる。
ガンツさんは枠を裏返さず、東側の内縁を見た。
「ここへ、縁受けをつける」
「壁のようなものですか?」
ミラが聞く。
「硬い壁は駄目だ。布帯で浅い袋を作る」
枠の東側。
十字帯の端と木枠の内側を、もう一本の幅広い布帯でつなぐ。
底の深い袋ではない。
緩んだ布端が枠外へ滑らないよう、内側へ戻すための浅い受けだ。
新しい布帯も、すでに洗って乾かした予備を使う。
端を切らない。
糸屑を出さない。
結び目は枠の外側。
布が触れる内側には、硬い節を作らない。
「試験します」
同じ試験布。
東の留め糸が一つ切れた状態。
座見粉の代わりの白い筋。
布受け枠を下ろす。
十字帯。
東側の縁受け。
木札役の受け帯。
すべて位置を合わせる。
持ち上げる。
布全体が上がる。
緩んだ東端は枠縁へ寄る。
だが、外へ垂れない。
縁受けの浅い帯へ、柔らかく預けられる。
粉筋は作業台へ残った。
風も、先ほどより小さい。
ハンナさんが布の折り目を見る。
「東端は広がってない。押しつぶしてもいないね」
ミラとポロが、作業前後の図を比べる。
「布全体の向き、変化小」
「木札役、接触なし」
「粉筋、始点、幅、長さに大きな変化なし」
ガンツさんは、枠を持ったまま一度だけ停止した。
「この状態で、砂時計半分」
途中で帯が伸びないか。
布端がゆっくり滑らないか。
木札役の木片が動かないか。
時間を置いて確認する。
砂が落ちる。
試験布は動かない。
縁受けの帯にも伸びはない。
「試験二、安定」
ミラが記録する。
『東端留め糸一か所切断状態。
東縁受け追加。
持ち上げ時、布端の枠外下垂なし。
布折り大変化なし。
粉筋移動なし。
砂時計半分保持後、滑り、帯伸びなし』
ポロの顔が明るくなる。
「今度こそ、できた?」
「試験では、です」
俺は答えた。
ポロは少しだけ口を尖らせたが、すぐに頷いた。
「本物を見るまで、試験」
「はい」
◇
縁受けを追加した枠も、すぐには使わない。
結び目が馴染むまで、重しを載せて置く。
ただし、乾布四の糸がもう一本切れるまで、何日も待つことはできない。
まず、床下の布が今どの程度支えを失っているかを確かめる必要がある。
点検板を開く準備を整えた。
棚は動かさない。
床荷重も変えない。
直風なし。
周囲に黒布。
見学者なし。
開放前の音。
白緻石。
こん。
……りん。
西寝石。
ご、と。
東寝石。
ご。
……ぐ。
中央の息。
す。
乾布四。
ふ。
……さ。
木札。
から。
座見粉筋。
き。
……りん。
そして、切れた縫い糸の周り。
……さ。
弱い。
だが、布が崩れる音ではない。
ガンツさんが点検板の木栓を半巡りさせる。
麻紐へ棒を通す。
俺とガンツさんで、左右を同じ速さで上げる。
指一本分。
止める。
布、木札、粉の移動音なし。
手の幅。
点検板を受け台へ渡す。
小さな開口部が現れた。
乾布四の東端。
昨日より、ほんの少し下がっている。
指の爪一枚にも満たない差。
だが、ミラとポロが作った前日の格子図と比べれば分かる。
「東端、前日よりわずかに下降」
ミラが記録する。
「布全体は?」
「大きな位置変化なし」
「木札は?」
「同じ位置です」
「粉筋は?」
「見える範囲で変化なし」
切れた糸は、布の東端の返し縫いだった。
一本の糸が、数か所を行き来している。
そのうち一か所だけが切れている。
周囲の糸は残っている。
布の重さすべてを支えていた糸ではない。
折り目をまとめるための糸だったようだ。
「すぐに布全体が落ちる状態ではありません」
俺は言った。
「ですが、折り目は少しずつ開き始めています」
ハンナさんが布の織りを見る。
「乾き切ってるね。糸も古い。次がいつ切れるかは分からない」
ミラが慎重に書く。
『乾布四東端。
返し縫いの一か所切断。
周辺縫い糸は残存。
布全体の支持糸ではなく、折り保持糸の可能性。
東端わずかに下降。
崩落切迫とは判断せず。
追加切断時期、未確定』
ポロが小さな声で聞いた。
「明日まで待てる?」
俺は音を聞いた。
布。
ふ。
……さ。
東端。
……さ。
もう一度、糸。
き。
……。
乾いている。
傷んでいる。
だが、連続して切れる音はない。
「一晩は待たせません」
俺は答えた。
ポロが顔を上げる。
「今日、取る?」
「今すぐではありません」
ガンツさんが枠を見る。
「縁受けを加えた枠を、あと一刻、重しで試す」
「帯の伸びと結び目を確認します」
ミラが言う。
「条件がそろえば、次の鐘の後に一度だけ回収を行います」
俺は答えた。
明日まで待たない。
だが、音を聞いたからといって、条件を飛ばして今すぐ引かない。
急ぐことと、慌てることは違う。
◇
点検板を閉じる前に、切れた糸と東端の位置を、独立図へ追加した。
ミラ。
ポロ。
二枚。
切断位置。
残っている縫い目。
東端の下がり。
木札との距離。
粉筋との距離。
すべて記録する。
縁受けが必要な範囲も、床下の布へ測り棒を当てず、格子図から決める。
乾布四を直接測らない。
昨日までの図と、今日の図を使う。
「回収条件へ追加します」
ミラが新しい紙を出した。
『乾布四 回収条件・追加』
一、東端返し縫い一か所切断として扱う。
二、東縁受けを備えた布受け枠を使用する。
三、東端を横から押さえず、下から受ける。
四、切れた糸へ受け帯を掛けない。
五、布端が縁受けへ入るまで、枠を傾けない。
六、持ち上げ中に新たな切断音が出た場合、枠を下ろさず、その位置で停止する。
七、乾布四を元の位置へ戻そうとしない。
八、布受け枠、木札受け帯、役割分担の確認後、一度だけ回収する。
九、本日中に条件を満たせない場合、点検板を閉じ、布の音を短い間隔で確認する。
ポロが六番を見た。
「新しい糸が切れたら、戻さない?」
「戻す途中で、布が横へ滑るかもしれません」
俺は答えた。
「布受け枠が重さを受けた後なら、その位置で止めた方が安全です」
「上にも、下にも動かさない」
「はい。音を聞き、次の判断をします」
ガンツさんが頷く。
「一度動かした物を、慌てて元へ戻すな」
点検板を閉じる。
布も、木札も、粉筋も動かさない。
閉鎖後の音。
白緻石。
こん。
……りん。
西寝石。
ご、と。
東寝石。
ご。
……ぐ。
乾布四。
ふ。
……さ。
切れた糸の周囲。
……さ。
大きな変化はない。
「点検板閉鎖。乾布四、位置安定」
ミラが記録する。
◇
縁受けを追加した布受け枠へ、試験布と重しを載せる。
一刻。
途中で、十五分ごとに確認する。
枠の歪み。
なし。
東縁受けの伸び。
なし。
結び目の移動。
なし。
十字帯の沈み。
変化なし。
木屑、糸屑。
落下なし。
試験布の東端。
滑りなし。
粉筋。
移動なし。
ミラが最後の砂時計を確認した。
「一刻経過」
ガンツさんが四隅の高さを測る。
「変化なし」
ハンナさんが布帯を確認する。
「毛羽立ちもないよ」
俺は枠の音を聞いた。
こ。
……り。
作った直後の硬さが抜け、木と布帯の音が馴染んでいる。
「枠の音、安定しています」
ミラが記録する。
『東縁受け追加後、一刻荷重試験。
枠歪みなし。
布帯伸びなし。
結び目移動なし。
木屑、糸屑なし。
試験布滑りなし。
粉筋移動なし。
枠音安定』
条件が、そろった。
ポロが回収条件の紙を上から順に確認する。
「位置図、ある」
「はい」
「布は強く挟まれてない」
「はい」
「直風なし」
「はい」
「十字の布受け」
「あります」
「東の縁受け」
「あります」
「木札の受け帯」
「あります」
「役割も決まってる」
「はい」
最後。
『ひとつでも足りなければ、やらない』
ポロは項目の横へ、丸をつけなかった。
代わりに、ミラを見る。
「全部、本当にある?」
ミラは一項目ずつ記録と現物を照合した。
そして、最後に頷く。
「あります」
ガンツさんが布受け枠を持ち上げた。
「次の鐘の後、一度だけだ」
「はい」
俺は答えた。
ハンナさんは黒布と木枠を準備する。
ミラは木札用の受け帯を確認する。
ポロは砂時計と位置図を机へ並べる。
誰も走らない。
誰も声を上げない。
急いでいる。
だが、慌ててはいない。
工房の看板が風で鳴った。
からん。
井戸の札が鳴る。
から。
影車が鳴る。
こ、と。
北結界石の浅溝から、細い息が抜ける。
す。
……り。
工房の床下。
使われなかった白緻石。
こん。
……りん。
二つの寝石。
ご、と。
ご。
……ぐ。
乾布四。
ふ。
……さ。
切れた糸の周囲から、今のところ新しい音はしない。
布受け枠は完成した。
乾布四の変化に合わせ、東端を受ける帯も加えた。
試験も終わった。
条件もそろった。
次に点検板を開ける時は、見るためではない。
何十年も床下に残されていた乾布四を、座見の白い筋から離し、元の折り方のまま持ち上げるためだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、乾布四を回収するための本番用布受け枠を仕上げる回でした。
完成した枠には、
・角や金具のない浅い木枠
・布全体の重さを受ける十字の布帯
・四隅を同じ速さで上げる吊り紐
・木札全体を支える柔らかな受け帯
が備えられています。
一晩休ませた後も、
・枠の歪みなし
・布帯の伸びなし
・木栓の浮きなし
・木屑、糸屑の落下なし
でした。
しかし、本番直前に乾布四の東端から、古い返し縫いが一本切れる音がします。
そのため、完成済みの枠をそのまま使わず、東端を下から支える「縁受け」を追加しました。
糸が一か所切れた状態を試験布で再現し、一刻の荷重試験を行った結果、布端、木札、粉筋を保てることを確認しています。
乾布四はすぐ落ちる状態ではありません。
ただし、折り目が少しずつ緩み始めています。
すべての条件を再確認し、次の鐘の後に一度だけ回収することになりました。




