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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第86話 乾布四を持ち上げる

 次の鐘が鳴った。


 乾布四を持ち上げる時間だ。


 朝の井戸、水車、影車、北結界石には異常がなかった。


 布受け枠の一刻試験も終わっている。


 枠の歪みなし。


 十字に渡した布帯の伸びなし。


 木栓の緩みなし。


 東端を支える縁受けにも、ずれはない。


 乾布四の返し縫いは一か所切れているが、周囲の糸はまだ布の折り目を保っている。


 回収条件は、すべてそろった。


 それでも、誰も「大丈夫」とは言わなかった。


 大丈夫かどうかは、持ち上げ終わるまで分からない。


 いや。


 持ち上げたあとも、白緻石と寝石の音を確かめるまでは分からない。


「始めます」


 ミラが記録板を開いた。


 ガンツさんが布受け枠の四隅を確認する。


 ハンナさんは、回収した布を置くための浅い木枠を用意していた。


 中には黒い乾燥布。


 乾布四を広げず、床下で折られていた形のまま載せるための枠だ。


 ポロは砂時計と格子図を机へ並べる。


「僕は時間と位置」


「お願いします」


 俺とガンツさんは布受け枠を持つ。


 ミラは木札用の受け帯。


 ハンナさんは布と座見粉筋の動きを見る。


 役割は決まっている。


 途中で迷っても、その場で誰か一人の判断だけでは動かさない。


 音が変わったら止める。


 新しい糸切れがあっても止める。


 粉が動いても止める。


 止めたあと、慌てて元へ戻さない。


 その約束を、最後にもう一度確認した。


     ◇


 点検板の周囲には、黒い乾燥布が敷かれている。


 低い棚は動かしていない。


 棚の上の空箱も、使い終えた布も、そのままだ。


 直風なし。


 上の小窓だけを開ける。


 工房入口には、ポロの札。


『乾布四を、持ち上げます』

『床を、ふまない』

『声を、大きくしない』

『さわらない』


 点検板を開ける前に、床下の音を記録する。


 白緻石。


 こん。

 ……りん。


 西寝石。


 ご、と。


 東寝石。


 ご。

 ……ぐ。


 中央の息。


 す。


 乾布四。


 ふ。

 ……さ。


 木札。


 から。


 座見粉筋。


 き。

 ……りん。


 切れた返し縫いの周囲。


 ……さ。


 前回確認した時から、大きな変化はない。


「作業前記録、完了」


 ミラが言った。


 ガンツさんが二つの木栓を半巡りさせる。


 木栓の溝から、古い麻紐が現れた。


 二つの輪へ木棒を通す。


 俺とガンツさんが、棒の左右を同じ速さで持ち上げる。


 指一本分。


 止める。


 乾布四の移動音なし。


 粉の移動音なし。


 新しい糸切れなし。


「続けます」


 手の幅まで上げる。


 点検板の裏面を、用意した受け台へ水平のまま移す。


 板を床へ置かない。


 立てかけない。


 小さな開口部が現れた。


 乳白色の白緻石。


 その下にある西と東の寝石。


 中央の細い空隙。


 東側へ端を垂らした黄土色の乾布四。


 木札には、『乾布 四』。


 布の折り目の下に、白い座見粉筋。


 すべて、前回と同じ場所にある。


 ミラとポロが、互いの紙を見ずに現在位置を描いた。


 乾布四の東端は、返し縫いが切れた分だけ、前回よりわずかに低い。


 だが、それ以上の崩れはない。


「位置図、一致しています」


 ミラが二枚を並べた。


「座見粉筋は?」


 ハンナさんが開口部の外側から見る。


「始点も幅も、変わってないよ」


 俺も音を聞いた。


 き。

 ……りん。


「粉の移動音なし」


 ガンツさんが頷く。


「枠を下ろす」


     ◇


 布受け枠を、点検板の開口へ近づける。


 枠は開口より指二本分ずつ小さい。


 板縁に当たらない。


 四隅の吊り紐を緩め、水平のまま下ろす。


 一度に深く下ろさない。


 白緻石の上へは載せない。


 寝石にも触れさせない。


 中央空隙側の、乾布四が垂れている下へ近づける。


「西側、指一本」


 ミラが格子図を見る。


「東側も、指一本」


 ポロが記録する。


「枠、かたむきなし」


 十字の布帯が、乾布四の垂れた部分より下へ入る。


 東側の縁受けは、緩んだ布端のさらに外側。


 まだ布には触れていない。


 ガンツさんが言う。


「ここからは、上げるんじゃない。帯を布へ近づける」


 吊り紐を少しずつ張る。


 十字帯が上がる。


 布の下面へ、柔らかく触れる。


 ふ。


 乾布四の音が一度だけ変わった。


「止めてください」


 俺たちは手を止める。


 新しい糸切れではない。


 布の重さが、床下の空気から布帯へ移り始めた音だ。


 座見粉筋。


 き。

 ……りん。


 変化なし。


 木札。


 から。


 位置変化なし。


「布受け接触」


 ミラが記録する。


「粉筋、木札、変化なし」


 次に、東縁受け。


 緩んだ布端の下へ、浅い帯が入る。


 押し上げない。


 外へ垂れないよう、下から受けるだけだ。


 ハンナさんが布の東端を見る。


「縁受けへ入ったよ。折り目は広がってない」


 ポロが図へ線を加える。


「東端、枠の中」


 残るのは木札だった。


 古い引き輪へは、力をかけない。


 ミラが新しい柔らかな受け帯を、木札の外側へ近づける。


 札の上と下から、二本の帯をゆっくり寄せる。


 古い麻紐を引かない。


 木札全体を包む。


 寝石へ押しつけない。


 ミラの手が止まった。


「受け帯、木札へ接触」


 から。


 小さな音。


 木札が揺れた。


 だが、東寝石へは当たっていない。


「木札、枠内」


 ポロが記録する。


 乾布四の重さ。


 東端。


 木札。


 三つが、それぞれ別の支えへ預けられた。


 一つへ全部を持たせない。


 回収の準備が整った。


     ◇


「持ち上げます」


 ガンツさんが言った。


 俺とガンツさんで、二本の持ち上げ棒へ同じだけ力をかける。


 布受け枠が、ほんの少し上がる。


 乾布四の折り目が、床下から離れ始めた。


 横へは動かない。


 東端は縁受けの内側。


 木札も受け帯の中にある。


 座見粉筋。


 き。

 ……りん。


 まだ動かない。


 布受け枠を、爪一枚分だけ上げる。


 止める。


「新しい糸切れ、なし」


 俺は音を聞く。


 乾布四。


 ふ。

 ……さ。


 布の重さが、完全に枠へ移っている。


 もう少し。


 乾布四の下面が、座見粉筋から離れた。


 その瞬間。


 す。

 ……り。


 中央空隙の息が、初めてまっすぐ通った。


 東寝石。


 ご。

 ……ぐ。


 低く沈んでいた音が、途中でほどける。


 ご、と。


 西寝石と近い、乾いた返り。


「止めてください」


 枠は、布が粉筋から離れた位置で止まった。


 誰も「直った」とは言わない。


 点検板が開いている。


 乾布四も持ち上がっている。


 床下の空気の条件が、大きく変わったばかりだ。


 音が軽くなった理由は、まだ一つに決められない。


 ハンナさんが座見粉筋を見る。


「粉筋、動いてない」


 ミラとポロが、独立して現在位置を描く。


 始点。


 向き。


 幅。


 見える全長。


 乾布四が離れたことで、今まで隠れていた部分まで見えるようになった。


 粉筋は、古い初置き記録にあった通り、東寝石の内側から中央空隙へ伸びている。


 長さは、指二つ弱。


 幅は、細糸一本ほど。


 途中で太くなっていない。


 新しい粉が広がった跡もない。


「初置き控の記録と、おおむね一致します」


 ミラが言った。


「全長、初確認。指二つ弱。幅、細糸一つ。増加痕なし」


 ガンツさんが石の見える範囲を確認する。


「白緻石、東端に欠けなし」


「東寝石、上面に新しい白粉なし」


「強い擦れ跡なし」


 俺は音を聞く。


 白緻石。


 こん。

 ……りん。


 西寝石。


 ご、と。


 東寝石。


 ご、と。


 中央の息。


 す。

 ……り。


 乾布四を持ち上げる前より、左右の寝石の音は近い。


 だが、まだ持ち上げ途中だ。


「作業を続けますか?」


 ミラが聞いた。


 俺は布の音を聞いた。


 返し縫い。


 ……さ。


 新しい切断音なし。


 枠。


 こ。

 ……り。


 歪みなし。


 縁受け。


 動きなし。


 木札受け帯。


 安定。


「続けられます」


 ガンツさんも頷く。


「上へ戻す」


     ◇


 布受け枠を、さらに上げる。


 一度に高くしない。


 爪一枚。


 指一本。


 手の幅。


 それぞれで止める。


 新しい糸切れなし。


 布端の下垂なし。


 木札接触なし。


 粉の移動なし。


 枠が点検板の開口まで上がってきた。


 ここからが、もう一つの危険だった。


 開口部の縁へ布を擦らせない。


 枠を傾けない。


 ガンツさんが西側。


 俺が東側。


 同じ速さ。


 ミラは木札の向きを保つ。


 ハンナさんは乾布四の東端を見る。


 ポロが砂時計と高さを記録する。


「あと、指二本」


 ポロが言う。


「西、同じ」


「東、同じ」


 枠が開口部を越えた。


 乾布四は、床下から完全に持ち上がった。


 横へ引いていない。


 折り方も、大きく崩れていない。


 木札も布受けの内側にある。


 回収用の浅い木枠へ、そのまま移す。


 広げない。


 裏返さない。


 布受け枠ごと、黒い乾燥布の上へ下ろす。


 こ。


 乾布四の重さが、回収枠へ移る。


「回収完了」


 ミラの声は小さかった。


 ポロが大きく息を吐いた。


「取れた」


「はい」


 俺も答えた。


 何十年も床下に残されていた乾布四。


 座見粉筋を覆い、東側の息を少しずつ弱めていた布。


 それを、粉筋も石も動かさずに持ち上げることができた。


     ◇


 だが、まだ終わりではない。


 回収条件では、布を取り出した直後に床下の音を一度だけ確認することになっている。


 乾布四へは触れない。


 広げない。


 まず、床下。


 白緻石。


 こん。

 ……りん。


 澄んだ音。


 西寝石。


 ご、と。


 東寝石。


 ご、と。


 左右の返りは、ほとんど同じになっている。


 中央空隙。


 す。

 ……り。


 細い息が、東側まで通る。


 座見粉筋。


 き。

 ……りん。


 位置変化なし。


 増加音なし。


「東寝石の片鳴り、軽減」


 ミラが記録する。


「中央通気、改善」


 俺はすぐに付け加えた。


「ただし、点検板開放中です。乾布四回収だけの影響とは断定できません」


 ミラが頷く。


『点検板開放、乾布四回収直後。

 東寝石音、西寝石音に近づく。

 中央通気音、増加。

 布回収との関係が疑われる。

 開口状態による影響あり。断定不可』


 ガンツさんが言う。


「追加作業なし」


「はい」


 寝石へ触れない。


 白緻石を動かさない。


 座見粉筋を払わない。


 床下を掃除しない。


 今日は、乾布四を回収した。


 それだけで終える。


     ◇


 点検板を閉じる前に、床下の図をもう一度作る。


 乾布四のない状態。


 白緻石。


 二つの寝石。


 中央空隙。


 座見粉筋。


 ミラとポロの独立図。


 ガンツさんの石外観記録。


 ハンナさんの粉と通気記録。


 俺の音記録。


 すべてを同じ格子へまとめる。


 東寝石の側面には、布が触れていたと思われる色の違いがある。


 だが、苔はない。


 強い湿りもない。


 腐食も見えない。


 寝石上面の高さも、西と大きく変わらない。


「東寝石、明確な沈みなし」


 ガンツさんが言う。


「片鳴りは、乾布四による通気阻害の影響だった可能性が高まった」


「可能性です」


 ミラが書く。


 点検板を元へ戻す。


 水平のまま。


 元の向きで。


 指一本分まで下げる。


 止める。


 粉の移動音なし。


 寝石の擦れ音なし。


 完全に閉じる。


 き。


 二つの木栓を半巡り。


 麻紐を溝へ戻す。


 黒布の上に、新しい粉は落ちていない。


「点検板閉鎖完了」


 閉鎖後の音を聞く。


 白緻石。


 こん。

 ……りん。


 西寝石。


 ご、と。


 東寝石。


 ご、と。


 中央の息。


 す。

 ……り。


 乾布四があった時より、閉鎖後も音が軽い。


 東寝石の低い沈みは戻らない。


「閉鎖後も、左右寝石の音差は小さいままです」


 ミラが記録する。


「中央通気も継続」


 乾布四が通気を弱め、東寝石の音を低くしていた可能性は、さらに高まった。


 ただし、一度の確認だけでは結論にしない。


 明朝。


 同じ床上荷重。


 同じ棚配置。


 同じ点検板閉鎖状態。


 その条件で、もう一度聞く必要がある。


     ◇


 床下の確認が終わり、俺たちは回収した乾布四へ向き直った。


 布は、布受け枠の中にある。


 床下で折られていた形を保っている。


 黄土色の乾いた布。


 東端の返し縫いが一か所切れている。


 木札。


『乾布 四』


 裏面には、年印、杉葉印、配置印『東』。


 古い引き輪。


 すべて、回収前の位置を保っている。


 布の下面には、白い粉がごく薄く付着していた。


 ただし、床下に残った座見粉筋が目立って減った様子はない。


「布下面付着粉、少量」


 ミラが記録する。


「床下粉筋、見える範囲で減少なし」


 ハンナさんが布の折り目を見る。


「広げないと全部は見えない。でも、今は広げない方がいいね」


「はい」


 布を広げれば、付着粉が落ちる。


 折り方の記録も失われる。


 木札の位置も変わる。


 今日は、回収した状態のまま残す。


 その時、ポロが布の東端を見つめた。


「青い糸」


 ミラが顔を上げた。


「どこですか?」


 乾布四の下面。


 切れた返し縫いより、少し内側。


 黄土色の織り糸とは違う、一本の青い糸が縫い込まれている。


 表側からは見えない。


 折り目の内側に隠れていた糸だ。


 直線ではない。


 短い線が二本。


 その先に、半分の輪。


 木札の年印とも違う。


 杉葉印とも違う。


 作業布札控にも、青糸の記録はなかった。


「糸には触れないでください」


 ミラが言う。


「はい」


 ポロは離れた位置から形を描いた。


 二本の短い青線。


 半輪。


 その横へ、大きな疑問符。


『青い糸の印?』


 俺は音を聞いた。


 青い糸そのものは、ほとんど鳴らない。


 だが、その周囲の布だけ、乾布四の他の場所と少し違う音を持っていた。


 ……さ。

 り。


 水気ではない。


 補修糸が布の織りをまとめている音とも違う。


 何かの場所を示すため、後から縫い込まれた印のように聞こえる。


「補修ではない可能性があります」


 ミラが記録する。


「作業印ですか?」


「分かりません。ただ、切れた場所を直した糸には聞こえません」


 ガンツさんも、青い糸の形を見る。


「半輪と二本線」


「見覚えがありますか?」


「ない」


 ハンナさんも首を横に振った。


「村の布仕事では、こういう印は使わないよ」


 乾布四の表と木札は、床板交換時の記録と一致している。


 だが、布の下面には、記録にない青い糸の印がある。


 乾布四は、床板交換より前にも、別の仕事で使われていたのかもしれない。


 それとも、床下へ落ちたあと、誰かが点検板を開き、印を縫い込んだのか。


 後者なら、布を見失ったままにした記録と合わない。


 まだ分からない。


 ミラが今日の作業記録へ最後の項目を加えた。


『乾布四下面。

 青色糸による印状の縫いを確認。

 短線二本、半輪形。

 作業布札控に該当記載なし。

 補修、配置印、過去用途印のいずれか未確認。

 布を広げず、現状維持』


 ポロが回収枠の横へ札を置く。


『乾布四、回収できました』

『床下の息、通りました』

『白い筋、のこりました』

『青い糸、見つかりました』

『まだ、ひろげない』


 工房の看板が夕風で鳴った。


 からん。


 井戸の札が鳴る。


 から。


 影車が鳴る。


 こ、と。


 北結界石の浅溝から、細い息が抜ける。


 す。

 ……り。


 工房の床下。


 白緻石。


 こん。

 ……りん。


 二つの寝石。


 ご、と。

 ご、と。


 中央の息。


 す。

 ……り。


 乾布四は、座見の白い筋を動かさずに持ち上げられた。


 東寝石の低い音は軽くなった。


 床下の息も、まっすぐ通り始めた。


 だが、回収した布の下面には、古い記録にない青い糸の印が残されていた。


 乾布四は、床下へ落ちる前にも、別の何かを見届けていたのかもしれなかった。


# 第86話あとがき案


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、これまで準備してきた布受け枠を使い、乾布四を実際に回収する回でした。


回収では、


・十字の布帯で布全体の重さを受ける

・東端の緩みを縁受けで支える

・古い引き輪へ荷重をかけない

・木札全体を新しい受け帯で支える

・横へ引かず、垂直に持ち上げる


という条件を守っています。


乾布四が座見粉筋から離れた直後、


・東寝石の低い音が軽くなる

・西と東の寝石の音が近づく

・中央空隙の息がまっすぐ通る

・座見粉筋の位置、幅、長さは変わらない


という変化が確認されました。


ただし、点検板を開けた影響もあるため、乾布四だけが原因だったとはまだ断定しません。


点検板を閉じた後も音の改善は続いていますが、翌朝に同じ条件で再確認します。


そして、回収した乾布四の下面から、記録にない青い糸の印が見つかりました。


布はまだ広げず、折り方と付着粉の位置を保ったまま預かります。


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