第72話 奥で増えた水の重さ
水は、増えていないのかもしれない。
重さを受ける場所が、ずれただけなのかもしれない。
リーネは、受付奥の記録板へ赤い札を置いた。
『湿気異常の三日前。
第三層西旧採石跡。
小さな地鳴り、一回』
もし、この一行が偶然でないのなら。
第三層北回廊の旧水守門は、壊れて湿気を漏らしていたのではない。
別の場所で受けきれなくなった水の重さを、代わりに受けていた可能性がある。
記録室の机には、半月分の報告書が積まれていた。
迷宮潜行記録。
天候記録。
負傷報告。
魔法使用記録。
魔物出現記録。
通路補修記録。
装備不調の相談書。
一枚ずつ見れば、小さな出来事ばかりだった。
大雨。
魔力灯の曇り。
方位石の針遅れ。
槍袋の湿り。
剣帯金具の冷え。
第三層西側の小さな地鳴り。
だが、順番に並べると、意味が変わる。
「もう一度、時系列を確認します」
リーネが言った。
記録室には、《白狼の剣》の三人がいる。
セシアは魔法使用記録。
ダリオは潜行報告と装備記録。
レオルは魔物出現位置と戦闘記録。
迷宮記録係の老職員と、組合の魔道具係も同席していた。
さらに、今日はガルドも呼ばれている。
第三層西旧採石跡で、小さな地鳴りが起きた時、その場にいた冒険者だ。
リーネは記録板を三つに分けていた。
『異変より前』
『異変より後』
『時期不明』
最初に、天候記録を置く。
「地上で強い雨が降ったのは、最初の魔力灯曇り報告の二日後です」
セシアが記録を確認した。
「雨が地下へ届くまでの時間差は考えられますが、最初の異変より後ですね」
「はい。原因候補から完全には外しません。ただし、異変開始の直接のきっかけとは断定できません」
雨の札は、『異変より後』へ置かれた。
次に、大規模魔法の記録。
「第三層中央広場で、炎系の広域魔法が使われています」
セシアが日付を見る。
「これは最初の曇り報告から四日後です。湿気を増やした原因にはなりにくいと思います」
魔道具係も頷く。
「熱による魔力環境の変化はありえます。しかし、発生順が逆です」
大規模魔法の札も、『異変より後』へ置かれる。
魔物の移動。
第三層北回廊近くにいた小型魔物が、南側へ移ったという報告だ。
レオルが地図を見た。
「移動が確認されたのは、北回廊で空気の冷えが報告された後だ」
「湿気や冷えを嫌って移動した可能性がありますね」
リーネは魔物移動の札を、『異変より後』へ置いた。
残ったのは、一枚。
『西旧採石跡。
地鳴り一回。
崩落なし。
負傷者なし』
湿気異常が始まる三日前。
異変より前に起きた、今のところ唯一の大きな変化だった。
リーネはガルドを見る。
「地鳴りがあった日のことを、最初から説明してください」
ガルドは居心地が悪そうに椅子へ座っていた。
普段なら、記録室で長く話すような男ではない。
だが今日は、腕を組まず、机の上の地図を見ている。
「俺たちは、西の旧採石跡で石殻獣を追ってた」
「人数は?」
「四人だ。俺と斧使いが前。弓が一人。荷物持ち兼斥候が一人」
「使用した大規模魔法は?」
「ない。火花程度の小魔法だけだ」
セシアが魔法使用記録を確認する。
「申告と一致しています」
「戦闘中に、壁や柱へ強い打撃を加えましたか?」
リーネが聞く。
ガルドは少し考えた。
「石殻獣を一度、古い石柱へぶつけた。だが、柱は割れてない」
「地鳴りは、その時ですか?」
「違う」
ガルドの返事は早かった。
「戦闘が終わった後だ。獣の素材をまとめて、帰ろうとした時だった」
「音は?」
「一回だけだ」
ガルドは大きな拳を机の下で握った。
「どん、っていうより……ご、と腹の下で鳴った」
ダリオが顔を上げた。
「足元から?」
「ああ。耳より、足の裏で聞いた」
「揺れは?」
「立っていられないほどじゃない。荷物袋の金具が一度鳴ったくらいだ」
リーネが記録する。
『地鳴り。
音は足元から。
一回。
立位維持可能。
荷物袋金具に揺れ』
「石粉や砂は落ちましたか?」
「落ちた」
「天井から?」
ガルドは首を横に振った。
「床からだ」
記録室が静かになった。
「床から?」
セシアが聞き返す。
「ああ。石床の継ぎ目から、白い粉が少し浮いた」
ガルドは指で細い線を描く。
「煙みたいに上がったわけじゃない。継ぎ目に沿って、ふっと白くなった」
リーネの筆が速くなる。
『石粉。
天井落下ではなく、床継ぎ目から浮く』
「継ぎ目の位置を、地図へ描けますか?」
「だいたいなら」
ガルドは筆を受け取った。
普段、細かい文字を書くことは少ないらしい。
太い指で慎重に線を引く。
西旧採石跡。
南側の壊れた石柱。
素材をまとめていた場所。
そこから少し北。
床の継ぎ目。
描き終えると、彼は筆を置いた。
「この辺だ」
老記録係が現在地図と比べる。
「古い採石線の外側だな」
セシアは別の記録を取り出した。
「地鳴りの翌日に、この付近を通った小隊の報告があります」
リーネが受け取る。
小隊の帰還記録には、負傷も装備不調もない。
ただし、欄外に一文だけ書かれていた。
『西旧採石跡、いつもの足冷えなし』
ダリオが眉を寄せる。
「足冷え?」
老記録係が答えた。
「西旧採石跡の床際には、以前から弱い冷気があった。冒険者が休憩に使う時、汗が冷えると文句を言っていた場所だ」
「記録されるほどだったのか?」
「不具合としてではない。通路環境の備考だ」
ガルドが、何かを思い出した顔をした。
「そうだ」
全員の視線が集まる。
「地鳴りの前は、あの継ぎ目から冷たい風が出てた」
「どの程度ですか?」
リーネが聞く。
「立ってても分からない。床へ荷物を置くと、袋の下が冷える程度だ」
「地鳴りの後は?」
ガルドは黙った。
記憶を探している。
「……なかった」
「本当ですか?」
「たぶんだ」
ガルドはすぐに言い直した。
「確実じゃない。あの日は戦闘の後だった。汗もかいてた。だが、素材袋を床へ置いても、いつもの冷えが来なかった気がする」
リーネは、断定せずに記録した。
『地鳴り後、床際の冷気を感じなかった可能性。
記憶による証言。
確定不可』
「なぜ、当時報告しなかったのですか?」
ガルドは視線を落とした。
「崩れてなかったからだ」
床に粉が出た。
冷たい風が止まったかもしれない。
それでも、壁も柱も倒れなかった。
誰も怪我をしなかった。
だから、重要な変化だと思わなかった。
「地鳴りは報告書に書いた」
ガルドが言う。
「でも、風のことまでは書かなかった。正直、今まで忘れてた」
記録室に、重い沈黙が落ちた。
ガルドは顔を上げる。
「俺が書かなかったせいで、遅れたのか?」
リーネは少しだけ考えた。
「今、その判断はできません」
「でも――」
「当時の報告規定に、床際の冷気を書く項目はありませんでした」
リーネは地鳴りの報告書を指した。
「地鳴りそのものは記録されています。あなたは、何も残さなかったわけではありません」
「風は残してない」
「今、残します」
ガルドが黙る。
「遅れた記録でも、今書けば次の判断に使えます」
リーネは新しい用紙を差し出した。
「思い出せる範囲で書いてください。分からない部分は、分からないと書いてください」
ガルドは紙を受け取った。
少し不器用な字で書き始める。
『地鳴り前。
床継ぎ目付近に弱い冷えあり。
地鳴り後。
冷えを感じなかった可能性。
確実ではない』
最後に署名する。
ダリオがその紙を見た。
「俺も前なら、そんな風まで書かなかったと思う」
ガルドが顔を上げる。
「今は書くのか」
「書かされる」
ダリオはリーネを見てから、言い直した。
「今は、自分でも書く」
セシアが少し微笑んだ。
レオルは地図へ視線を戻した。
「地鳴りの三日後に、北回廊の湿気が始まった」
「はい」
リーネが答える。
「地鳴り直後、西旧採石跡の床際冷気が弱まった可能性があります」
「西で止まり、北で増えた」
レオルが言う。
その一言を、リーネは記録した。
『仮説。
西側の冷気または息道が弱まり、北側旧水守門の湿気が増加』
「まだ仮説です」
セシアが言う。
「ああ」
レオルは頷いた。
「だから、現地へ行かない」
今の《白狼の剣》にとって、その判断は自然なものになっていた。
老記録係が、古い第三層地図を広げる。
西旧採石跡。
北回廊旧水守門。
その間を走る、細い一本線。
以前、『水抜き通路』と思われていた線。
別の古地図との比較から、『床下抜き』や『石下息道』を示す可能性が高まっている。
リーネは、ガルドが描いた地鳴り位置を薄紙へ写した。
旧地図へ重ねる。
地鳴りの場所は、床下機構線と思われる細線のすぐ近くだった。
「完全には重なりません」
セシアが言う。
「はい。現在地図と旧地図の誤差があります」
リーネは答えた。
「ですが、無関係とするには近い位置です」
魔道具係が線の曲がりを見る。
「ここで細線が二つに分かれているように見えます」
「二つ?」
ダリオが身を乗り出す。
旧地図の線は、西旧採石跡付近でわずかに太くなっている。
汚れや紙の傷にも見える。
しかし、よく見ると一本は北回廊方向へ。
もう一本は、さらに西へ伸びている。
西へ伸びた方は、途中で消えていた。
「紙の染みでは?」
セシアが聞く。
「可能性はあります」
リーネは別の写しを取り出す。
同じ旧地図から、以前に作られた写しだ。
そこにも、同じ場所にわずかな分岐があった。
「古い写しにもあります」
老記録係が目を細める。
「なら、元の地図に描かれていた可能性が高い」
西側の分岐。
北回廊旧水守門へ向かう線。
地鳴りの位置は、その分岐のすぐそばだった。
ダリオが言う。
「水の重さを二つに分けてた場所?」
「可能性はあります」
魔道具係が答える。
「もし、床下の息や圧を二方向へ分ける機構があったなら、片方が狭まることで、もう片方に負担が寄ることは考えられます」
「西が詰まったから、北が汗をかいた」
ガルドが言う。
リーネはすぐに書く。
『仮説。
西側分岐の機能低下により、北回廊旧水守門への負担増加』
ただし、赤い線で囲む。
『未確定』
「水が増えたんじゃない?」
ダリオが聞く。
「増えた可能性も、まだ残ります」
魔道具係が答える。
「ですが、水量そのものが増えなくても、重さを受ける配分が変われば、一方の門にかかる負担は増えます」
リーネは机の上に、小さな水袋を置いた。
左右に二本の紐を結ぶ。
二人で一つずつ持つ。
ダリオが右の紐。
ガルドが左の紐。
「持ってください」
二人が水袋を持ち上げる。
「今は、二人で重さを分けています」
リーネが左の紐を指さした。
「ガルドさん、少しだけ手を下げてください」
ガルドが手を下げる。
その瞬間、ダリオ側へ重さが寄った。
「重っ」
「水の量は変わっていません」
リーネが言う。
「ですが、ダリオさんが受ける重さは増えました」
ポロがここにいれば、すぐ絵にしただろう。
セシアが代わりに、小さな図を描く。
一つの水袋。
左右二本の紐。
片方が下がり、もう片方に重さが寄る。
「西の息道が狭まり、北の旧水守門へ重さが寄った」
「その可能性です」
リーネは水袋を下ろした。
ガンツさんはいない。
エイルもいない。
それでも、リント村修理工房から届いた考え方が、組合の記録室に残っている。
一つに決めない。
実際に動かさず、別のもので考える。
分からないところは、分からないと書く。
老記録係が旧地図の分岐点へ指を近づけ、触れずに止めた。
「ここに、文字がある」
線の脇。
汚れに見えていた部分に、かすかな文字が残っている。
老記録係は拡大用の枠を置いた。
紙へ触れない高さで見る。
「西……分け……」
リーネが顔を寄せる。
墨が薄い。
途中が欠けている。
それでも、四文字ほど読めた。
『西分け石』
記録室の空気が止まった。
ダリオが小さく言う。
「石?」
セシアが旧地図を見る。
「地鳴りの場所に近い」
レオルが言う。
「重さを分ける石か」
「名前だけでは、役割は分かりません」
リーネはすぐに答えた。
「ですが、調べるべき記録が増えました」
ガルドは、自分が描いた地鳴り位置と『西分け石』の文字を見比べた。
「俺がいた場所の下に、それがあるのか」
「あるとは断定できません。旧地図と現在地図の誤差があります」
「でも、近い」
「はい」
ガルドは拳を握った。
「現地へ――」
言いかけて、止まる。
全員が彼を見た。
ガルドはゆっくり手を開いた。
「……行かないんだな」
「はい」
リーネが答えた。
「まず、記録を探します」
「分かった」
ガルドは自分の椅子へ戻った。
レオルは何も言わなかった。
ただ、少しだけ頷いた。
次に探すものは決まった。
『西分け石』
古い地図。
補修記録。
採石跡の施工帳。
水守門との関係。
地鳴りの前後で変わった音。
リーネは新しい調査項目を書いた。
『西分け石・記録調査』
一、旧地図上の位置。
二、床下機構線との関係。
三、北回廊旧水守門との関係。
四、過去の補修記録。
五、地鳴りまたは崩落時の記録。
六、西旧採石跡の床際冷気に関する過去記録。
七、現地確認は行わない。
八、掘削、清掃、打撃、魔力調査を行わない。
ダリオが七番と八番を見る。
「やっぱり最後に入る」
「最初に入れてもいい項目です」
リーネが答えた。
セシアは、湿気異常が始まる前後の表を整理した。
『異変の三日前』
西旧採石跡。
地鳴り。
床継ぎ目から石粉。
床際の冷気が弱まった可能性。
『異変開始』
北回廊。
魔力灯曇り。
金具冷え。
空気湿り。
『その後』
水滴紋濃化。
右寄り微揺れ。
冷えの芯。
水滴紋と冷えの弱化。
並べると、一つの流れに見える。
西で何かが変わった。
北が重くなった。
北の旧水守門が汗をかいた。
そして今、息が少しずつ戻り、冷えが弱まっている。
だが、まだ仮説だ。
リーネは報告書を作り始めた。
『湿気異常開始前後の記録を時系列で整理しました。
地上の大雨、大規模魔法、魔物移動はいずれも、最初の湿気異常報告より後に確認されています。
現時点で、異変開始前に確認されている大きな変化は、三日前の西旧採石跡における小規模地鳴りです。』
続けて、ガルドの証言を書く。
『地鳴り時、天井からではなく、床継ぎ目から白い石粉が浮いたとの証言があります。
また、地鳴り前には床継ぎ目付近に弱い冷気があったが、地鳴り後は感じなかった可能性があります。
後者は記憶による証言であり、未確定です。』
次に、地図照合。
『旧地図上の床下機構線と思われる細線は、西旧採石跡付近で分岐している可能性があります。
地鳴り位置は、その分岐点に近い位置です。
分岐付近には「西分け石」と読める文字があります。
名称および役割は未確認です。』
最後に、今の仮説を書く。
『水量そのものが増えたのではなく、西側の床下機構または重さを分ける部分に変化が生じ、北回廊旧水守門へ負担が寄った可能性があります。
ただし、地鳴りとの因果関係、西分け石の役割、床下機構線の構造はいずれも未確定です。』
リーネは太く追記した。
『西旧採石跡への現地調査は、記録調査が完了するまで行いません。』
ガルドがその一文を見た。
「俺も行かない」
セシアが少し驚いた顔をした。
「気にならないの?」
「気になる」
「なら、どうして?」
ガルドは地鳴りの追加証言書を見た。
「今度は、先に書く」
短い言葉だった。
だが、以前の彼なら言わなかっただろう。
リーネは、その言葉を記録しなかった。
代わりに、ガルドの追加証言書を報告書へ添えた。
記録室の外では、夕方の鐘が鳴った。
掲示板には、新しい仮称が出されている。
『第三層北回廊旧水守門』
開けるための扉ではない。
人を通さない門。
水の重さを分け、息を外へ渡す可能性がある門。
そして、その奥を重くした原因は、門そのものではなく、西側で起きた小さな地鳴りにあるのかもしれない。
古い石扉へ向いていた全員の視線が、ようやく紙の上で西へ動いた。
その先には、薄れた文字で一つの名前が残っていた。
『西分け石』
水の重さを、二つに分けていたかもしれない石だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、第三層の湿気異常が始まる直前の記録を、アルバ冒険者組合で時系列に並べる回でした。
候補として確認したのは、
・地上の大雨
・大規模魔法
・魔物の移動
・西旧採石跡の小さな地鳴り
です。
大雨、大規模魔法、魔物移動は、最初の湿気異常より後でした。
一方、西旧採石跡の地鳴りは、異変の三日前です。
さらに、
・床継ぎ目から白い石粉が浮いた
・地鳴り前にあった床際の冷気が、地鳴り後は弱まった可能性
・旧地図の床下機構線が西側で分岐している
・分岐付近に「西分け石」と読める文字がある
という情報が集まりました。
水そのものが増えたのではなく、重さを分けていた西側の仕組みが変わり、北回廊旧水守門へ負担が寄った可能性があります。
ただし、すべて未確定です。
次は、西分け石について古い記録を調べます。




