第70話 石床の古い継ぎ目
石床の古い継ぎ目は、石扉の中央へ向かっていなかった。
欠けた一歯。
右の紙片が揺れた場所。
扉前の足元図。
三つを同じ格子に重ねると、継ぎ目は古い石扉の右脇をかすめ、そのまま壁の下へ消えている。
さらに旧地図に残された細い線は、その継ぎ目の少し外側を、ほぼ同じ向きで走っていた。
重なってはいない。
けれど、無関係と言うには近すぎた。
「紙をずらさないでください」
アルバ冒険者組合の記録室で、リーネが言った。
「分かってる」
ダリオは両手を紙から離した。
机の上には、四種類の記録が並んでいる。
現在使われている第三層地図。
古い第三層地図。
古い石扉前の足元図。
欠けた一歯、水滴紋、三点固定位置を書き込んだ拡大図。
その上に、光を通す薄い写し紙が重ねられていた。
リント村修理工房から届いた返答には、太い文字でこう書かれている。
『紙の上で、ならべる』
『ゆかでは、たどらない』
『見つけても、いそがない』
今日は第三層北回廊奥へ行かない。
石床の継ぎ目がどこへ向かっているか、現地で確かめようともしない。
すでにある記録だけを使う。
それが、リント村修理工房から届いた条件だった。
セシアは現在の第三層地図を机へ固定した。
紙そのものへ重しを置かない。
四隅を囲む木枠へ、小さな石を載せる。
「現在地図、固定しました」
迷宮記録係の老職員が、北を示す印を確認する。
「次は旧地図だ。だが、気をつけろ。古い紙は縮んでいる」
黄ばんだ地図には、ところどころ波打った跡があった。
長い年月の湿気と乾燥で、紙の形がわずかに変わっている。
現在地図と同じ大きさへ写しただけでは、正しい位置へ重ならない。
「基準点を三つ使います」
リーネが言った。
「第三層中央広場の柱。採石跡へ分かれる角。北回廊最初の曲がり角」
セシアは三つの位置へ、小さな丸をつけた。
旧地図にも、同じ場所と思われる印がある。
一つ目を合わせる。
二つ目も、ほぼ重なる。
だが、三つ目がわずかにずれた。
ダリオが旧地図の端へ手を伸ばす。
「少し引けば合うんじゃないか?」
指が紙へ触れる直前で止まった。
彼は自分の手を見て、それから引っ込める。
「いや、駄目だな」
リーネが顔を上げる。
「なぜですか?」
「俺たちが欲しい形に、地図を引っ張ることになる」
記録室が少し静かになった。
ダリオは頭をかく。
「合ってるように見せるために紙を伸ばしたら、記録じゃなくなるだろ」
セシアが小さく笑った。
「その通りね」
リーネは帳面へ書いた。
「旧地図、三基準点のうち一か所にずれあり。紙の縮みまたは写し誤差の可能性。強制補正なし」
「俺の発言も書いたのか?」
「判断理由として必要です」
「最近、俺の言葉、残りすぎじゃないか?」
「有用な場合のみです」
レオルが短く言う。
「諦めろ」
「お前も結構残されてるだろ」
レオルは答えなかった。
だが、剣帯へ触れようとした手を止め、記録机から一歩離れた。
旧地図は、三つの基準点すべてを無理に合わせず、二点を基準に固定された。
三点目のずれは、ずれたまま残す。
その上に、足元図を写した薄紙を重ねる。
古い石扉。
水滴紋。
歯車状の輪。
欠けた一歯。
乾いた筋。
石床の古い継ぎ目。
右紙片が揺れた固定位置。
すべてが、一枚の机の上へ集まった。
ダリオは薄紙の左右を、息を止めるようにして持った。
「こんな薄い紙で大丈夫なのか?」
「重ねて見るためです」
セシアが答える。
「破ったら?」
「破損記録を作ります」
リーネの返事に、ダリオの手つきがさらに慎重になった。
欠けた一歯の中心から、外へ向かう線を引く。
実物へ線を引くのではない。
写し紙の上だけだ。
線は、乾いた筋の右側を通った。
次に、石床の古い継ぎ目と交わる。
その先に、右紙片の固定位置があった。
「欠けた一歯。石床の継ぎ目。右紙片」
セシアが一つずつ確認する。
「三つは完全な直線ではありません」
「でも、近い」
ダリオが言った。
リーネはすぐに記録する。
「近接。ただし一直線ではない」
次に、旧地図の細い線を重ねる。
以前、水抜き通路かもしれないと考えられていた線だ。
線は古い石扉の先へ伸びているように見えた。
だが、現在地図と重ねてみると、扉の中央を通ってはいなかった。
石扉の右脇。
現在の壁の下。
石床の古い継ぎ目より、さらに少し外側。
そこを通っている。
「扉の向こうへ続く通路ではない?」
ダリオが聞いた。
老職員が目を細めた。
「少なくとも、人が通る通路の描き方ではない」
「分かるんですか?」
「古い地図でも、人が通れる道は幅を持たせて描く。左右二本の線か、広さを示す印がある」
老職員は旧地図の別の場所を指さした。
中央広場から採石跡へ向かう古い通路。
確かに、二本の線で描かれている。
一方、石扉右脇へ伸びる細線は一本だけ。
幅がない。
人が入るための入口も描かれていない。
「ただの省略じゃないのか?」
レオルが聞いた。
「可能性はある」
老職員は答えた。
「古い地図は完全ではない。描いた者の決まりも、全部は残っていない。一本線だから人路ではない、とまでは言えん」
リーネが記録する。
「旧地図細線。人用通路の表記と異なる。ただし簡略表記の可能性あり」
セシアは、細線と石床の継ぎ目を見比べた。
「向きは似ています」
「はい」
「でも、完全には重なっていない」
「旧地図の縮みを考えれば、誤差の範囲かもしれません」
リーネは答えたあと、すぐに付け加える。
「誤差の範囲ではない可能性もあります」
ダリオが苦笑した。
「何を言っても、可能性が二つ出るな」
「一つに決められない状態だからです」
「分かってる」
写し紙の上では、二本の線が並んでいた。
石床の古い継ぎ目。
旧地図の細線。
同じ向きへ進みながら、少し離れている。
やがて右壁の下で、どちらも緩く曲がる。
セシアの指が、その曲がりで止まった。
「曲がる位置も近い」
老職員が旧地図へ顔を寄せる。
「本当だな」
現在の足元図では、石床の継ぎ目は右壁の下へ消えている。
旧地図の細線も、その近くで向きを変え、北回廊の外側へ伸びていた。
完全には同じではない。
けれど、偶然の二本線としては似すぎている。
「石床の継ぎ目は、細線そのものではなく、細線の上か脇を示す印なのかもしれません」
セシアが言った。
「床下にある何かの位置を、床の継ぎ目で示している?」
「可能性としてはあります」
リーネが答える。
魔道具係が、これまで黙って図を見ていた。
「床を開けずに、下の仕組みの位置を分かるようにした施工線かもしれませんね」
ダリオが顔を上げる。
「施工線?」
「作った者が、後で場所を見失わないために残す線です。ただし、これは推測です」
リーネが書く。
「古い継ぎ目。床下機構の位置を示す施工線の可能性。未確定」
レオルが図を見た。
「それなら、継ぎ目を開けても道はない」
「開ければ床下機構を壊すかもしれません」
魔道具係が答えた。
「だから、なおさら触れない方がよいでしょう」
そこへ、記録室の外から声がした。
「だったら、現地で壁の下だけ見れば早いんじゃないか?」
ガルドだった。
扉の前で立ち入りを止められ続けている力自慢の冒険者だ。
記録室の入口から、重ね図を覗こうとしている。
レオルが一歩前へ出た。
「今日は現地へ行かない」
「見るだけだ」
「紙で分からないから現地へ行くんじゃない」
レオルの声は静かだった。
「紙で分かる範囲を終えるまで、現地へ行かない」
ガルドは眉を上げた。
「継ぎ目の先が壁の下なら、その壁を見れば――」
「見たら触りたくなる」
ダリオが言った。
「俺も気になる。でも、今は紙の上だけだ」
「紙片係に説教されるとはな」
「紙片係だから言ってるんだよ」
セシアは記録板へ書いた。
『現地確認案あり。紙上比較完了前のため制止。現地確認なし』
ガルドはそれを見て、ため息をついた。
「言っただけで残るのか」
「判断経過です」
リーネが答える。
ガルドはしばらく重ね図を見ていた。
やがて、北回廊奥へ行くとは言わず、記録室を離れた。
老職員は、旧地図の細線を指で追わず、視線だけでたどった。
「この線の書き方を、別の古地図で探そう」
記録棚から、同じ頃に作られたと思われる地図を何枚か持ってくる。
第二層の古い排水室。
第三層の旧採石区。
地下倉庫跡。
どれも黄ばんでいる。
地図の端には、細い一本線が描かれている場所があった。
一本目。
第二層の壁際を走る細線。
その横に、かすれた文字。
『床下抜き』
二本目。
旧採石区の外周を回る細線。
『石下息道』
三本目。
地下倉庫跡の床を横切る線。
『人路ニ非ズ』
記録室の空気が止まった。
ダリオが身を乗り出す。
「今、何て?」
老職員は地図を机へ置いた。
「人路にあらず。人が通る道ではない、という意味だ」
リーネが現在の旧第三層地図を見る。
古い石扉右脇へ伸びる細線。
線の形は、三枚の古地図に描かれた床下線とよく似ている。
もちろん、同じ記号だとはまだ断定できない。
地図の作者が違う可能性もある。
年代も完全には一致しない。
だが、今までの「細い通路」という呼び方は、見直す必要があった。
セシアが静かに言う。
「人が通るための道ではない可能性が、高くなりましたね」
「はい」
リーネは報告書の言葉を修正した。
『旧地図上の水抜き通路と思われる細線』
その上へ一本線を引く。
『旧地図上の床下機構線と思われる細線』
さらに注記する。
『同時代に近い複数地図で、同様の一本線に「床下抜き」「石下息道」「人路ニ非ズ」の記載あり。ただし記号体系の同一性は未確認』
ポロの絵は、まだリント村にある。
だが、ダリオは空いた紙へ自分なりの絵を描いた。
大きな扉。
その前に立つ人。
扉を開けようとする手に、ばつ印。
扉の右脇の床下を通る細い線。
「こんな感じか?」
セシアが絵を見る。
「ポロほど分かりやすくはないけど、伝わるわ」
「一言余計だ」
ダリオは絵の下へ書いた。
『人は通らない』
レオルがその紙を見た。
「門は、何を通す」
誰もすぐには答えなかった。
水。
湿気。
冷え。
息。
圧。
水守控えには、いくつもの言葉が残っている。
だが、この場にある記録だけで一つに決めることはできない。
リーネが答えた。
「少なくとも、人を通すための門ではない可能性があります」
ダリオが言う。
「扉の形なのに?」
「保存箱にも扉があります。人は通りません」
セシアが答える。
「水門だって、人が通るとは限らないわ」
魔道具係も頷いた。
「門という言葉が、人の通路を意味するとは限りません。流れや力を区切るものも、門と呼ばれます」
古い石扉。
水滴紋。
輪。
歯車状の紋。
欠けた一歯。
水滴から輪へ渡る細線。
床下機構線の可能性がある旧地図の細線。
そして、石床の古い継ぎ目。
すべてが、人のための扉ではなく、閉じた水や冷えを扱う仕組みを示しているように見え始めていた。
だが、見え始めたことと、確定したことは違う。
リーネは机の上の紙を、順番に整理する。
「今日分かったことをまとめます」
一、欠けた一歯の方向と右紙片の間に、石床の継ぎ目がある。
二、継ぎ目は扉中央へ向かわず、右壁下へ伸びる。
三、旧地図の細線も、右壁下へ近い方向を通る。
四、継ぎ目と旧地図細線は完全一致しないが、曲がる位置と方向が近い。
五、同時代に近い別地図の一本線には、『床下抜き』『石下息道』『人路ニ非ズ』の表記がある。
六、古い石扉右脇の細線も、床下機構線である可能性がある。
七、古い石扉は、人を通すための扉ではない可能性が高まった。
八、現地確認、接触、清掃、掘削は行わない。
ダリオが八番を見て言う。
「最後は絶対入るんだな」
「最も大事な項目です」
リーネは真面目に答えた。
次に、リント村修理工房への報告書を作る。
『既存記録を同一格子で重ねました。
欠けた一歯の方向線と、右紙片微揺れ位置の間には、石床の古い継ぎ目があります。
継ぎ目は扉中央へ向かわず、右壁下へ伸びています。
旧第三層地図の細線も、継ぎ目の外側を近い方向へ進み、同じく右壁下方向へ向かいます。
両線は完全には一致しません。
旧地図の縮みおよび写し誤差もあるため、同一の機構を示すとは断定しません。』
続けて、別地図の記録を書く。
『同時代に近い古地図を確認したところ、同様の一本線に次の表記がありました。
「床下抜き」
「石下息道」
「人路ニ非ズ」
記号体系の同一性は未確認ですが、旧第三層地図の細線も、人用通路ではなく床下機構を示す可能性があります。』
レオルが言う。
「現地へ行っていないことも書け」
「はい」
リーネは追記する。
『本日は紙上比較のみを行いました。
第三層北回廊奥への立ち入りは行っていません。
石床の継ぎ目、右壁、古い石扉への接触、清掃、掘削、追加観察はありません。』
セシアが古い地図の『人路ニ非ズ』を見た。
「次に考えるべきなのは、何を通すための門か、ですね」
「はい」
リーネは答えた。
「ですが、それはリント村の水守控えと照合してからです」
ダリオが、自分の描いた絵を報告書へ入れようとした。
「これも送るか?」
リーネは少し考える。
「説明用の参考として添えます」
「採用?」
「参考です」
「ほぼ採用だな」
セシアが笑った。
夕方、組合の掲示板にも新しい注意書きが出された。
『石床の古い継ぎ目について』
一、継ぎ目は人用通路とは確認されていません。
二、床下機構の位置を示す線である可能性があります。
三、継ぎ目を開けないでください。
四、継ぎ目の先を追わないでください。
五、右壁下へ接近しないでください。
六、旧地図の細線を歩ける道と判断しないでください。
七、現地で追加確認を行わないでください。
その下には、ダリオの絵も貼られた。
扉。
人にばつ印。
床下の線。
『人は通らない』
絵を見たガルドが、少し笑った。
「ポロの絵の方がうまいな」
「分かってる」
ダリオは腕を組んだ。
「でも意味は分かるだろ」
「ああ」
ガルドは、今度は笑いながらも掲示を最後まで読んだ。
古い石扉は、人を通すためのものではないかもしれない。
ならば、力で開けても宝部屋や隠し通路が出てくるとは限らない。
むしろ、人が触れることで床下の仕組みを壊す危険がある。
その考えが、少しずつ組合の中へ広がっていった。
夜、リーネは報告書を封へ入れた。
現在地図。
旧地図。
足元図。
欠けた一歯の方向線。
右紙片固定位置。
石床の継ぎ目。
床下機構線の可能性がある細線。
『床下抜き』
『石下息道』
『人路ニ非ズ』
三つの古い言葉。
封を閉じる前に、リーネは最後の一文を書いた。
『古い石扉は、人を通すための扉ではない可能性があります。
現時点では、閉じた水、冷え、または圧を扱う床下機構の一部として記録します。』
組合の外で、夜の鐘が鳴った。
第三層北回廊奥には、今日も誰も向かわない。
古い石扉は、閉じたままだ。
その右脇の石床には、人の足ではたどれない古い継ぎ目が眠っている。
継ぎ目の下にあるものは、通路ではない。
少なくとも、人のための道ではなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、現地へ向かわず、これまでに集めた記録を紙の上で重ねる回でした。
重ねたものは、
・欠けた一歯の方向
・右紙片が揺れた場所
・乾いた筋
・石床の古い継ぎ目
・旧第三層地図の細線
です。
石床の継ぎ目と旧地図の細線は、完全には重なりません。
しかし、どちらも古い石扉の中央ではなく、右壁下へ向かっています。
さらに、同じ時代に近い古地図から、
・床下抜き
・石下息道
・人路ニ非ズ
という表記が見つかりました。
古い石扉は、人を通すための扉ではない可能性が高まっています。
紙で見つけた道は、まだ歩ける道ではない。
現地へ急がず、記録だけで一歩進む回です。




