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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第68話 欠けた一歯

 欠けた一歯を、直してはいけない。


 アルバ冒険者組合の掲示板には、その言葉が大きく貼られていた。


『欠けを埋めない』

『新しい歯を作らない』

『石粉を詰めない』

『金具をはめない』

『魔力で線をつながない』


 横には、ポロが描いた絵がある。


 歯車のような紋。

 一か所だけ空いた歯。

 そこへ石を詰めようとする手に、大きなばつ印。


 絵の下には、少し丸い文字で書かれていた。


『かけは、こわれじゃないかもしれない』


 予定観察日の朝。


 掲示を読んでいた冒険者が、首を傾げた。


「歯が欠けてるのに、直すなっていうのか?」


「欠けているから壊れているとは、まだ判断できません」


 受付机から、リーネが答える。


「リント村の古い記録では、欠けた一歯が外の向きを示す印である可能性が示されています」


「外の向き?」


「可能性です。確認はされていません」


 リーネは言葉を強めた。


「そのため、今日は欠けた一歯の表面形状を観察します。ただし、触れません。欠けの奥も覗きません」


 組合の奥では、観察用の道具が準備されていた。


 格子の刻まれた観察枠。


 前回と同じ反射鏡。


 セシアと補助員が、それぞれ独立して描くための記録板。


 左、中央、右の三つの紙片。


 砂時計。


 乾いた布と、別々の通気袋。


 どれも、以前と同じものだ。


 ダリオは三つの紙片を一枚ずつ確認した。


「左、破れなし。中央、破れなし。右、破れなし。冷え、湿り、曲がりなし」


 自分から記録板へ書く。


『三紙片、別袋保管。混在なし』


 リーネが頷いた。


「紙片係として、問題ありません」


「もう肩書きになったな」


「仮の役割です」


「そこは係長でもいいんじゃないか?」


「必要ありません」


 ダリオは少し残念そうだった。


 セシアは魔力灯を確認する。


「外殻曇りなし。留め金浮きなし。冷えなし。起動予定なし」


 レオルは剣帯金具を乾いた布越しに見た。


「金具、曇りなし。冷えなし。確認布、乾燥」


 リーネは観察条件を読み上げる。


「前回と同じ時刻、同じ経路、同じ人数です。観察線を越えないでください。欠け部分へ反射鏡や紙片を近づけることも禁止します」


 セシアが頷く。


「観察枠から見える表面だけを描きます」


「はい。欠けの左右の縁、底の形、隣接する歯との角度を記録してください」


「石の粉や崩れは?」


「見える範囲でのみ確認します。床の砂は動かしません」


 レオルが短く言った。


「変化があっても、一回で戻る」


「その通りです」


 そこへガルドが近づいてきた。


 掲示板の欠けた一歯を眺め、腕を組んでいる。


「壊れてないかもしれない欠け、ねえ」


 ダリオが紙片をしまいながら言う。


「埋めるなよ」


「今日は行かねえよ」


「今日だけじゃなくてだ」


「分かってる」


 ガルドは不満そうに鼻を鳴らした。


「欠けてたら直す。それが普通だろ」


 ダリオは少し考えた。


「俺も前なら、そう思ってた」


「今は違うのか?」


「保存箱の蓋も、槍の金具も、無理に戻せば悪くなる。欠けてる理由を見ないで埋めるのは、直すんじゃなくて隠すだけかもしれない」


 ガルドは何も言わなかった。


 リーネは、そのやり取りも記録しようとして、やめた。


 今日は時間が決まっている。


 《白狼の剣》の三人と補助員は、第三層へ向かった。


 北回廊の入口には、目立った変化がなかった。


 水音なし。


 壁の湿りなし。


 三つの紙片も揺れない。


 冷えもない。


 セシアが記録する。


『北回廊入口。

 三紙片、揺れなし。

 冷えなし。

 湿りなし。

 水音なし』


 奥へ進む。


 こつ。

 こつ。


 四人分の足音だけが、石壁へ返ってくる。


 中ほどで、右紙片の下端が一度だけ揺れた。


 ひら。


「右、微揺れ一回」


 ダリオが言う。


「冷えは?」


 セシアが尋ねる。


 ダリオと補助員が、別々に確認した。


 どちらの判定も『なし』。


『北回廊中ほど。

 右紙片下端、微揺れ一回。

 冷えなし。

 左、中央、変化なし』


 右寄りの息は、まだある。


 けれど、冷えは持っていない。


 古い石扉の前へ着く。


 灰色の大きな扉は、今日も閉じたままだった。


 取っ手はない。


 隙間も見えない。


 水音なし。


 滴下なし。


 扉前の石床には、薄い湿りが残っている。


 乾いた細い筋の位置も変わらない。


 セシアは、まず水滴紋を観察枠から確認した。


 水滴紋の右下縁。


 輪へ向かう細線。


 前回より薄くなった可能性がある場所だ。


 今日も、線は細い。


 ただし、さらに薄くなったようには見えない。


「水滴紋右下縁、前回と同程度。輪へ向かう細線も、前回と同程度」


 補助員も独立して描く。


 二人の写しは、ほぼ一致していた。


『薄化部分、前回から大きな変化なし。

 水音なし。

 滴下なし』


 次に、三点固定観察。


 左。


 紙片揺れなし。


 冷えなし。


 中央。


 揺れなし。


 冷えなし。


 右。


 しばらく待つ。


 ひら。


 下端が一度だけ揺れる。


 ダリオと補助員の冷え判定は、どちらも『なし』だった。


「右、微揺れ一回。冷えなし」


 セシアが記録する。


 冷えは、さらに弱くなっているように見える。


 だが、今日の目的はそこではない。


 欠けた一歯の形。


 セシアは前回の写しを閉じたまま、観察枠の向きを調整した。


 枠には細かな格子が刻まれている。


 歯車状の紋全体を、同じ位置から見られるようにするためのものだ。


「欠け部分、観察開始」


 補助員は別の記録板を用意する。


 二人は互いの手元が見えない位置に座った。


 レオルは観察線の端に立つ。


 後方と、二人の足元の両方を確認する。


「線越えなし。周囲、許可者のみ」


 ダリオは三つの紙片を片付け、欠けた一歯を遠くから見た。


「こうして見ると、普通に壊れてるようにも見えるな」


「先入観を入れないで」


 セシアは紙から目を上げずに言った。


「欠けている、までよ」


「分かってる」


 セシアは、欠けの左縁を描いた。


 歯車状の紋は、石の表面に浅く浮き彫りされている。


 欠けた部分の左縁は、階段状に崩れていない。


 鋭く割れた線でもない。


 輪の内側へ向かって、わずかに斜めになっている。


 次に右縁。


 こちらも、内側へ向かって斜め。


 左右の角度はよく似ていた。


 完全に同じとは言えない。


 長い年月による摩耗もある。


 それでも、偶然に崩れた二つの縁としては、整いすぎている。


 セシアは見えた通りに描いた。


 補助員も、別の紙へ記録を続けている。


 欠けの底。


 そこには、細い平らな面があるように見えた。


 奥へ続く穴ではない。


 石の表面が低く削られ、細い底を作っている。


 ただし、欠けの中へ光を入れたり、鏡を差し込んだりはしない。


 見える表面だけ。


 セシアは記録した。


『欠け底、細い平面状に見える。

 奥行き不明。

 穴とは確認できず。

 反射鏡接近なし』


 さらに、隣の歯を見る。


 欠けの左隣。


 右隣。


 二つの歯の側面にも、同じような斜めの面があった。


 欠けだけに新しい割れがあるのではない。


 周囲の歯と同じ古い色。


 同じ摩耗。


 新しく崩れた石の白さはない。


 石粉も見当たらない。


 床にある砂粒は前回から動いていない。


『欠け左右縁、隣接歯の側面と類似する傾斜あり。

 欠け部分に新しい石色なし。

 新規石粉、確認なし。

 砂粒移動なし』


 砂時計が落ちきる。


「描写終了」


 セシアは記録板を閉じた。


 補助員も筆を置く。


 二人はその場では絵を見比べない。


 予定した観察は終わった。


 ダリオが欠けた一歯を見た。


「もう少し角度を変えたら、底が見えるんじゃないか?」


 レオルが答える。


「今日は終わりだ」


「聞いただけだ」


「戻る」


 セシアも立ち上がる。


「形が違って見えても、今日の条件では一方向だけ。別の角度は別の日に、必要なら提案する」


「分かってる」


 ダリオは素直に紙片の通気袋を持った。


 古い石扉は、閉じたまま。


 水滴紋も、乾いた筋も動かない。


 欠けた一歯だけが、静かに外側を指すように空いていた。


 北回廊を出る頃、三紙片の冷えはすべて『なし』。


 組合へ戻った時も同じだった。


 紙片は、もう冷えを持ち帰っていない。


 リーネは三つを別々の木枠へ置き、記録した。


『帰還直後。

 三紙片、冷えなし。

 湿りなし。

 右紙片微揺れ記録あり』


 次に、セシアと補助員の描いた欠けた一歯の写しを受け取る。


 二枚を、別々の机へ置く。


 まず、セシアの写し。


 欠けの左縁は、内側へ向かって斜め。


 右縁も、ほぼ同じ角度で斜め。


 底には細い平面。


 次に、補助員の写し。


 左右の縁。


 底の平面。


 隣接する歯の側面。


 描かれた場所は、ほとんど一致していた。


 リーネは格子の数を確認する。


「左縁の傾斜は、二枚とも格子二つ分で内側へ寄っています」


 セシアが頷く。


「右縁も、ほぼ同じです」


「底の幅は?」


「セシアさんの写しでは格子半分。補助員の写しでも、半分よりわずかに広い程度です」


 完全な一致ではない。


 だが、観察誤差の範囲に見える。


 リーネは記録板へ書く。


『欠けた一歯。

 左右縁が内側へ向かう傾斜を持つ。

 独立写し二点で角度おおむね一致。

 底に細い平面状部分。

 隣接歯の側面にも類似傾斜あり。

 新しい石色、石粉なし。

 意図的な切り欠きの可能性が高まる。

 ただし断定せず』


 ダリオが二枚の写しを見た。


「自然に壊れたなら、もっとガタガタするのか?」


 リーネはすぐには答えず、組合の魔道具係を呼んだ。


 魔道具係は写しを確認し、少し考える。


「一般的な石の破断なら、左右が同じ角度で落ちるとは限りません。底も不規則になることが多いでしょう」


「では、作られた欠けですか?」


 セシアが聞く。


「可能性はあります。ただし、実物へ触れていません。石質も確認できていません。長い摩耗で整った可能性も残ります」


 リーネが頷く。


「意図的な切り欠きの可能性。未確定、とします」


 ガルドが掲示板の前から、写しを覗こうとした。


「つまり、壊れてなかったってことか?」


 ダリオが答える。


「そうかもしれない、までだ」


「でも、左右が揃ってるんだろ」


「だからって触るなよ」


「触らねえよ」


 ガルドは二枚の絵を見比べた。


「俺なら、欠けてるのを見たら埋めたくなるけどな」


「今は?」


 ダリオが聞く。


 ガルドは少し黙った。


「……埋めたら、印が読めなくなるかもしれない」


「分かってきたじゃないか」


「うるせえ」


 リーネは聞こえないふりをして、位置図を広げた。


 水滴紋。


 輪へ向かう細線。


 欠けた一歯。


 右紙片が揺れた固定位置。


 欠けの中央から外へ向かう線を、図の上にだけ引く。


 実物には何もしない。


 その線は、右紙片の固定位置へ向かっていた。


 完全には重ならない。


 観察線の手前で、格子一つ分ほどずれている。


 しかし、左や中央よりは明らかに右へ近い。


 セシアが言う。


「欠けた一歯の向きと、紙片が揺れる位置は近いですね」


 リーネはすぐに書く。


『欠けた一歯の中心方向と、右紙片微揺れ位置が近い。

 完全一致せず。

 欠けが実際の出口ではなく、方向を示す印である可能性。

 未確定』


 ダリオが首を傾げる。


「目って、そういう意味か」


「外を示す目、と水守控えにはありました」


 セシアが答える。


「出口そのものじゃなくて、見る方向を教えるもの」


 レオルは位置図を見た。


「なら、欠けを埋めれば方向が分からなくなる」


「はい」


 リーネが頷く。


「欠けを埋めない理由が、また一つ増えました」


 ただし、それでも右側へ近づいてはいけない。


 向きが示されたからといって、その先が安全とは限らない。


 出口そのものがそこにあるとも限らない。


 リーネは掲示板用の注意書きを追加した。


『欠けた一歯は、意図的な切り欠きの可能性があります。

 外の向きを示す印である可能性があります。

 ただし、出口そのものとは判断できません。


 欠けを埋めない。

 欠けを削らない。

 欠けの向く方へ近づかない。

 欠けの向く床を掘らない。

 紙片が揺れた場所へ接近しない。』


 ポロの絵も、その横へ貼られた。


 欠けた一歯。


 右を向く細い矢印。


 その先へ走ろうとする人に、ばつ印。


『むきを見つけても、いかない』


 ガルドがそれを読み、ため息をついた。


「何か分かるたびに、行くなって札が増えるな」


 ライナが魔力灯の袋を確認しながら言う。


「分かったから行ける、じゃない。分かったから危ない場所が増えることもあるだろ」


 ボルドも頷いた。


「保存箱の匂いも、分かったから使わずに待てた」


 トマが方位石の青い袋を持ち上げる。


「針が重いって分かったから、迷宮に持っていかなかった」


 ニナが続ける。


「分かることは、進むことだけじゃないです」


 ガルドは掲示を見たまま、何も言わなかった。


 夕方、リーネはリント村修理工房へ送る報告書をまとめた。


 水滴紋と細線に大きな変化がなかったこと。


 三紙片の冷えがすべて消えていたこと。


 右紙片の微揺れが一度だけ続いたこと。


 欠けた一歯の独立写し。


 左右縁の角度。


 底の平面。


 新しい石粉がなかったこと。


 隣接歯との形の類似。


 欠けの向きと右紙片の位置図。


 本文の最後に書く。


『欠けた一歯の左右縁は、独立写し二点でおおむね同じ角度に描かれました。

 欠けの底には、細い平面状部分があるように見えます。

 隣接する歯の側面にも類似した傾斜があり、新しい破断色や石粉は確認されませんでした。


 自然破損ではなく、意図的な切り欠きである可能性が高まりました。

 ただし、実物への接触および石質確認を行っていないため、断定はしません。


 また、欠けた一歯の中心方向は、右紙片の微揺れ位置に近いものの、完全には一致しません。

 欠けが出口そのものではなく、外の向きを示す印である可能性があります。』


 さらに、太く追記する。


『欠けの向く方向へ接近しません。

 床を掘りません。

 砂、石片、苔を動かしません。

 追加観察は行っていません。』


 封を閉じる前に、リーネは一文だけ加えた。


『欠けているから直す、という判断を行わなかったことで、印の形を残すことができました。』


 三つの紙片は、また別々の木枠へ置かれた。


 左。


 中央。


 右。


 冷えはない。


 湿りもない。


 古い石扉は、まだ閉じている。


 水音もない。


 滴下もない。


 欠けた一歯だけが、壊れた跡ではなく、誰かが残した方向の印のように、右側へ空きを向けていた。


 その空きは、埋めるべき傷ではなかったのかもしれない。


 閉じた水の息が向かう外側を、長い年月の向こうから示し続けるための、古い水守の目だったのかもしれなかった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、歯車紋の「欠けた一歯」そのものを観察する回でした。


接触せず、観察線の手前から、セシアと組合補助員がそれぞれ独立して形を描きます。


結果、


・欠けの左右の縁は、内側へ向かってほぼ同じ角度

・欠けの底には細い平面状部分

・隣接する歯にも似た傾斜

・新しい破断色や石粉はない


という特徴が記録されました。


自然に崩れた歯ではなく、最初から意図して空けられた切り欠きである可能性が高まっています。


さらに、欠けた一歯の向きは、右紙片が揺れる位置に近いことも分かりました。


ただし、欠けは出口そのものではありません。


外の向きを示すための「目」である可能性が出てきた段階です。

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