第66話 一日、扉を見ない
古い石扉を見ない日、アルバ冒険者組合では、いつもより多くの者が石扉の話をしていた。
見に行かない。
触れない。
紙片も、反射鏡も使わない。
第三層北回廊奥へは、誰も入らない。
リント村修理工房から届いた指示に従い、今日一日は古い石扉の観察そのものを休ませることになっていた。
掲示板の中央には、ポロが描いた大きな絵が貼られている。
灰色の石扉。
その前には誰もいない。
紙片もない。
杖もない。
反射鏡もない。
空には、丸い太陽が一つ。
『一日、見ない』
『見ないも、きろく』
『きょうは、だれもいかない』
文字は少し曲がっていたが、遠くからでもよく見えた。
リーネは、その絵の下に組合用の注意書きを貼った。
『第三層北回廊奥 観察休止日』
一、本日、古い石扉前の観察は行いません。
二、許可者を含め、北回廊奥への立ち入りを禁止します。
三、紙片、反射鏡、魔力灯等を用いた確認も行いません。
四、見物目的の立ち入りを禁止します。
五、接触、清掃、水掛け、魔力投入、加熱、冷却を引き続き禁止します。
六、立ち入りがなかったことも記録します。
最後の一文を読んだ冒険者が、首を傾げた。
「誰も行かなかったことまで書くのか?」
「書きます」
リーネは受付机から答えた。
「本当に一日休ませたと確認するためです」
「何も起きなかったら、書くことないだろ」
「『立ち入りなし』『接触なし』『新規不調報告なし』と書けます」
「全部なしじゃないか」
「なしを残さなければ、後から何がなかったのか分かりません」
冒険者は難しい顔をした。
「記録って、空っぽも書くんだな」
「空欄と、確認した上での『なし』は違います」
リーネは淡々と言った。
その言葉を、ちょうど組合へ入ってきたダリオが聞いていた。
「今日は、紙片係も休みか」
「はい」
受付机の奥には、左、中央、右の三つの紙片が別々の木枠で休ませてある。
密封していない。
重ねてもいない。
朝の確認では、三つとも冷え、湿り、曲がりに差はなかった。
ダリオは紙片の木枠を覗き込む。
「持っていかないと、妙な感じだな」
「今日は持ち出しません」
「分かってる」
「触れないでください」
「触らない」
ダリオは両手を背中へ回した。
セシアも、記録板を持ってはいた。
しかし、今日は石扉を観察するための記録板ではない。
過去三回分の比較記録を整理するためのものだ。
水滴紋の濃さ。
乾いた筋の位置。
三つの紙片の揺れ。
冷えの強さ。
冷えの残った時間。
観察時刻。
滞在時間。
今日、現地へ行かないからこそ、今までの紙を見直す時間ができる。
「石扉を見ない日に、石扉の記録を見るのはいいの?」
ダリオが聞いた。
セシアは少し考えてから答えた。
「現地へ行かず、過去の記録を整理するだけなら問題ないわ。今日の石扉に新しい影響は与えないもの」
「なるほど」
ダリオは机へ座った。
「じゃあ、俺も紙片の記録を並べる」
「順番を間違えないでね」
「分かってる。左、中央、右。最初の日、次の日、その次」
以前なら、紙の整理を自分から手伝うことはなかったかもしれない。
だが今は、どの紙片がいつ冷えたかを、ダリオ自身がよく覚えている。
レオルは受付横で、北回廊奥の立ち入り禁止記録を確認していた。
「第三層へ入る者全員に説明するのか」
「北回廊へ近づく可能性のある方には説明します」
リーネが答える。
「北回廊奥へ通じる分岐には、組合の封鎖札を設置済みです。巡回員は分岐の手前まで。奥へは入りません」
「封鎖札を破る者が出たら?」
「迷宮出入り停止を含む処分対象です」
「分かった」
レオルは掲示板の注意書きをもう一度読んだ。
「今日は、止める側だな」
「はい」
「石扉を見に行こうとする者を、ここで止める」
「お願いします。ただし、武器は抜かないでください」
「抜かない」
その返事に迷いはなかった。
朝の受付が始まる。
第三層へ向かう冒険者たちは、いつもより長く掲示板の前で足を止めた。
「本当に今日は見られないのか?」
「観察休止日です」
「遠くから見るだけでも?」
「北回廊奥へ入れません」
「扉の前まで行かず、途中までなら」
「封鎖札の先へは入れません」
リーネの答えは変わらなかった。
ガルドも掲示板の前へ来た。
古い扉を押せばいいと言い続けていた力自慢の冒険者だ。
彼はポロの絵をしばらく見た。
『一日、見ない』
「見るなって言われると、余計に気になるな」
ダリオが受付机から顔を上げる。
「分かる」
「お前もか」
「気になる。でも行かない」
「紙片係なのに?」
「紙片係だからだよ。今日は紙も休みだ」
ガルドは鼻を鳴らした。
「一日見なかったくらいで、何が変わる」
「変わらないかもしれない」
セシアが答えた。
「それも確認するための一日よ」
「何も変わらなかったら?」
「『変化なし』と記録する」
「本当に何でも記録するんだな」
ガルドは呆れた顔をした。
だが、北回廊奥へ行くとは言わなかった。
彼は討伐依頼の札を一枚取り、別の仲間と第三層南側の通路へ向かった。
リーネは時刻と行き先を記録した。
『ガルド隊、第三層南側へ。
北回廊奥への立ち入り予定なし。
注意事項説明済み。』
ダリオが記録を覗く。
「行かなかった人の行き先まで?」
「北回廊奥へ入らなかったことを確認するためです」
「空っぽの記録って、意外と忙しいな」
「誰も行かせないためには、誰がどこへ行ったかを見る必要があります」
午前の鐘が鳴る頃、第三層から最初の小隊が戻ってきた。
北回廊には入っていない。
使った魔力灯に曇りなし。
方位石の針戻り正常。
保存袋に湿りなし。
リーネは記録した。
『第三層中央広場経由。
北回廊立ち入りなし。
新規湿気不調なし。』
次の小隊も同じだった。
採石跡まで。
北回廊には入っていない。
魔力灯、方位石、金具に変化なし。
三組目は水路沿いを通っていたため、外套の裾が少し湿っていた。
だが、古い石扉前の冷えとは違う。
水路を通ったことが明確な、普通の水気だ。
それも分けて書く。
『南水路沿い。
外套裾に湿り。
水路接触によるもの。
北回廊奥との関係なし。』
セシアが記録板を見ながら言った。
「新しい不調がないことは分かりました。でも、誰も古い石扉へ行っていないから当然とも言えます」
「はい」
リーネは頷く。
「不調がなかったことだけで、石扉の状態が良くなったとは判断しません」
「行かなかった影響も、まだ分からない」
「その通りです」
昼になる頃、組合の記録板には『なし』が並んでいた。
北回廊奥への立ち入り、なし。
古い石扉への接触、なし。
封鎖札の破損、なし。
見物目的の侵入未遂、なし。
新たな湿気見本の持ち込み、なし。
古い石扉付近に由来すると考えられる道具不調、なし。
紙片の持ち出し、なし。
反射鏡の持ち出し、なし。
ダリオは記録板を見上げた。
「全部なしだ」
「はい」
「これでいいんだよな」
「今日については、これが最も望ましい記録です」
リーネが答える。
ダリオは少し笑った。
「何もしてないのに、ちゃんと一日が進んでる」
セシアが過去の記録を重ねる。
「何もしなかったわけではないわ。行かないことを守った。紙片を休ませた。前の記録を整理した」
レオルも言う。
「誰も入らなかった」
短い言葉だった。
だが、その一日を守るために、受付、巡回、封鎖札、説明、帰還記録が必要だった。
ただ扉を見なかったのではない。
見に行かない環境を、組合全体で維持している。
午後、セシアは三度分の水滴紋の写しを、同じ位置に重ねていた。
最初の写し。
次の写し。
三度目の写し。
水滴紋の右下縁は、三度目だけが少し細い。
ただし、線の太さは描いた者の手でも変わる。
そのため、セシアと補助員の二枚を別々に比較する。
どちらも同じ位置が細い。
「薄化の可能性は残ります」
セシアが言った。
ダリオが紙を覗き込む。
「今日見に行かない間に、もっと薄くなってるかな」
「分からないわ」
「明日になれば分かる」
「分かることが増える、ね。原因まで分かるとは限らない」
「細かいな」
「必要よ」
レオルは掲示板の前に立っていた。
何人かの冒険者が、観察休止の理由を聞きに来る。
「冷えが弱くなったなら、今日は見てもいいんじゃないのか?」
「弱くなった可能性があるから、休ませる」
「良くなってるなら確認した方が早いだろ」
「確認を重ねて変わったのか、触らずにいて変わったのかを分けるためだ」
レオルは、リント村から届いた説明を自分の言葉で伝えていた。
「今日行けば、見ない日の記録がなくなる」
冒険者は少し考えた。
「明日まで待てってことか」
「ああ」
「お前、本当に変わったな」
「今は関係ない」
レオルの声は少し硬くなったが、怒鳴らなかった。
冒険者も、それ以上は言わずに引いた。
夕方の鐘が鳴る。
北回廊奥へ入った者は、最後まで一人もいなかった。
封鎖札にも異常はない。
リーネは、観察休止日の最終記録を書いた。
『古い石扉観察休止日』
一、北回廊奥への立ち入り、なし。
二、古い石扉への接触、なし。
三、封鎖札の破損、なし。
四、接触または見物目的の侵入未遂、なし。
五、紙片持ち出し、なし。
六、反射鏡持ち出し、なし。
七、新規の古扉由来と考えられる道具不調報告、なし。
八、三紙片、別々の木枠で休止。冷え、湿り、破損なし。
九、過去記録の整理を実施。
十、観察休止条件を一日維持。
その下に、太く書く。
『誰も行かなかったことを確認。』
ダリオがその一文を見た。
「やっと終わったな」
「観察休止日が終わっただけです」
リーネが答える。
「明日の観察準備があります」
「休んだ次の日も、同じ紙?」
「同じ三枚です」
「同じ時間?」
「同じ時刻です」
「同じ高さ、同じ三点」
「はい」
ダリオは自分から続けた。
「一回だけ見て、変化があっても追加しない」
「その通りです」
リーネは翌日の観察用紙を準備した。
水滴紋。
乾いた筋。
三つの紙片。
冷えの位置。
冷えの強さ。
冷えの残る時間。
観察休止後の変化。
ただし、今日の記録欄には何も書き足さない。
石扉を見ていないからだ。
推測で埋めない。
見ていないものは、見ていないと残す。
夜になり、組合の扉が閉められた。
三つの紙片は、別々の木枠に置かれている。
左。
中央。
右。
今日は一度も迷宮へ持ち込まれなかった。
紙片は、ただ静かに休んでいる。
セシアは帰る前に、三枚を遠くから確認した。
「冷えなし。湿りなし。変化なし」
リーネが記録する。
「観察休止日終了時。三紙片、状態安定」
ダリオは右紙片を見た。
「明日、また揺れるかな」
「分からないわ」
セシアが答える。
「だから見るのよ」
レオルは組合の入口から、掲示板を見た。
『一日、見ない』
『見ないも、きろく』
その一日を、守り終えた。
古い石扉が、その間にどうなっていたのかは誰も知らない。
水滴紋が薄くなったのか。
冷えが弱まったのか。
何も変わっていないのか。
見ていない以上、今は書けない。
それでよかった。
翌朝。
前日と同じ時刻に、《白狼の剣》と補助員は北回廊へ向かった。
同じ三つの紙片。
同じ観察枠。
同じ反射鏡。
同じ三点。
同じ人数。
休ませた翌日の、一度だけの観察だ。
北回廊入口では、三紙片に変化はなかった。
中ほどで、右紙片の下端が一度だけ揺れた。
ひら。
前回と同じ場所。
ただし、揺れは弱い。
ダリオと補助員の判定は、どちらも『弱い』で一致した。
古い石扉の前へ着く。
水音はない。
滴下もない。
扉は閉じたまま。
乾いた筋も、位置を変えていない。
セシアは観察枠を構えた。
水滴紋を、前回の写しを見ずに描く。
補助員も、別の紙へ描く。
二人が描き終わるまで、誰も前回の写しを開かなかった。
最初に、セシアの絵。
次に、補助員の絵。
水滴の形は残っている。
輪も残っている。
歯車に似た欠けた紋も、まだ見える。
しかし、水滴紋の右下縁は、前回よりさらに少し細かった。
それだけではない。
水滴紋の右下から、輪へ向かって伸びていた細い線。
その線の中央付近も、前回より薄く描かれていた。
セシアと補助員。
二人の写しで、薄くなった位置が一致している。
セシアは息を止めた。
「右下縁と、輪へ向かう線……」
ダリオが聞く。
「両方、薄い?」
「薄く見える。前回より」
補助員が前回の写しを並べる。
光の向きも確認する。
観察枠の位置も、前回と同じ。
時刻も同じ。
それでも、線は細い。
セシアは慎重に記録した。
『観察休止翌日。
水滴紋右下縁、前回より薄化の可能性。
水滴紋から輪へ向かう細線の中央部、前回より薄化の可能性。
セシア、補助員の独立写しで位置一致。
光条件、観察位置、時刻は前回と同条件。
断定はせず。』
ダリオが紙片を持つ。
三点固定観察。
左。
揺れなし。
冷えなし。
中央。
揺れなし。
冷えは、二人とも『なし』。
右。
下端が一度だけ、かすかに揺れた。
ひら。
冷えは、ダリオが『弱い』。
補助員は『なし』。
判定は分かれた。
セシアは両方を残した。
『右固定位置。
下端微揺れ一度。
冷え、ダリオ判定・弱い。
補助員判定・なし。
湿りなし。』
前回より、冷えはさらに浅い可能性がある。
だが、水滴紋と輪へ向かう線の薄化が、冷えの弱まりと同じ理由で起きているかは分からない。
レオルが砂時計を見る。
「終了だ」
ダリオが古い石扉を見た。
「線の続きが気になる」
「戻る」
「分かってる」
彼は紙片を別々の通気袋へ入れた。
追加観察はしない。
反射鏡で足元を見る時間も、決めた分だけで終える。
乾いた筋に変化なし。
砂粒移動なし。
石床の湿りに大きな変化なし。
扉も床も、誰も触らない。
北回廊を出る頃には、右紙片の冷えは二人とも『なし』になっていた。
中央も左も変化なし。
組合へ戻った時も、三紙片すべて冷えなし。
リーネは、前日の観察休止記録と、今日の再観察記録を並べた。
『観察休止日』
立ち入りなし。
接触なし。
紙片使用なし。
新規不調報告なし。
『休止翌日』
水滴紋右下縁、薄化の可能性。
輪へ向かう細線中央部、薄化の可能性。
右紙片下端、微揺れ一度。
三紙片の冷え、弱いまたはなし。
水音なし。
滴下なし。
扉開閉なし。
乾いた筋変化なし。
リーネは二つの記録の間へ、一本の線を引かなかった。
一日見なかったから、紋が薄くなった。
そう書く証拠はない。
ただ、観察を休止した翌日に、二か所の薄化が確認された。
その事実だけを並べる。
「休ませたから、薄くなったのかな」
ダリオが言った。
リーネは首を横に振る。
「因果関係は未確定です」
「分かってる。聞いただけだ」
セシアは二枚の写しを見つめた。
「でも、誰も行かなかった一日も、比較に必要な一日になりました」
「はい」
リーネは記録へ書いた。
『観察休止と薄化の関係は未確定。
ただし、休止翌日に変化を確認。
追加観察なし。』
レオルが水滴紋の写しを見た。
「薄くなった線は、輪へ向かっている」
セシアも頷く。
「ええ。水滴紋の右下から、輪の内側へ」
ダリオが首を傾げる。
「水滴と輪をつなぐ線だったのか?」
「まだ分からないわ。削れて途切れた別の模様かもしれない」
リーネは二人の言葉を、そのまま結論にはしなかった。
だが、次に比べるための項目として記録する。
『薄化した細線の向き。
水滴紋右下から輪方向。
紋同士を結ぶ線かは未確定。』
その日の夕方、リント村修理工房への封書が作られた。
観察休止日の記録。
休止翌日の独立写し。
三紙片の冷え判定。
水滴紋右下縁の薄化。
輪へ向かう細線中央部の薄化。
因果関係を断定しないという注意。
リーネは本文の最後に書いた。
『一日の観察休止後、水滴紋右下縁と、輪へ向かう細線中央部に薄化の可能性を確認しました。
観察休止との因果関係は未確定です。
冷えは前回より弱く、右紙片の微揺れは一度のみでした。
水音、滴下、扉開閉、乾いた筋、石床湿りに大きな変化はありません。
変化を確認したため、追加観察は行っていません。』
封を閉じる。
掲示板には、今日の結果を短く出した。
『観察休止翌日。
水滴紋の一部と、輪へ向かう細線に薄化の可能性あり。
原因未確定。
良い変化と断定しません。
接触、清掃、水掛け、魔力投入、加熱、冷却、追加観察を禁止します。』
冒険者たちは、少し離れて掲示を読んだ。
誰も「開けてみればいい」とは言わなかった。
薄くなった。
冷えも弱くなった。
それでも、触れない。
一日、扉を見なかったことで得たのは、答えではない。
誰も行かなかったという、確かな一日の記録。
そして、その後に初めて見えた、輪へ向かう細い線の変化だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、古い石扉を「一日、見ない」回でした。
観察休止日に記録したのは、
・北回廊奥への立ち入りなし
・古い石扉への接触なし
・封鎖札の破損なし
・侵入未遂なし
・紙片、反射鏡の持ち出しなし
・新規の不調報告なし
という、すべて「なし」の記録です。
何も起きなかった空白ではなく、誰も行かなかったことを確認できた一日になりました。
翌日の再観察では、
・水滴紋右下縁
・水滴紋から輪へ向かう細線の中央部
に、わずかな薄化の可能性が確認されます。
ただし、観察を休ませたから薄くなったとは断定しません。
今回も、事実だけを並べて持ち帰っています。




