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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第65話 薄くなった水滴紋

 水滴紋が薄くなった。


 アルバから届いた報告書の一行を、ミラが読み上げた。


 その瞬間、ポロの顔が明るくなる。


「よくなった?」


 俺は、すぐには頷けなかった。


 古い石扉の水滴紋は、閉じた水の状態を示している可能性がある。


 紋が薄くなるのは、内側の冷えや湿気がほどけ始めた合図かもしれない。


 けれど、水が別の場所へ移り、紋だけが消えかけている可能性もある。


 良い変化に見える時ほど、急いで答えを決めてはいけない。


「まだ分かりません」


 俺が答えると、ポロは少しだけ肩を落とした。


「薄くなったのに?」


「薄くなった理由が、まだ分からないからです」


「そっか」


 ポロは報告書を見た。


「薄くなった、まで」


「はい。今は、そこまでです」


 アルバからの封書を開く前に、村の確認は済ませていた。


 井戸水は澄んでいる。


 さら。

 りん。


 水脈石の音にも変化はない。


 水車は軽く回り、影車もいつもの合図を送った。


 こ、と。


 北結界石が応える。


 りん。


 石そのものの音は澄んでいた。


 北側の石片裏に見つけた浅溝も、細く息をしている。


 す。

 ……り。


 浅溝の右縁から抜ける音は安定している。


 石の中央奥に残っていた冷えの芯は、位置を変えていなかった。

 ただ、その音は昨日よりもさらに小さい。


 ……ん。


「北結界石の冷えの芯は、同じ場所で弱くなっています」


 ミラは朝の記録へ、そう書いていた。


 村側では、冷えは道へ寄っていない。


 浅溝から息を抜きながら、同じ場所で少しずつ弱まっている。


 古い石扉の冷えとは、経過が違う。


 だから、村でうまくいったことを、そのまま迷宮へ当てはめてはいけない。


 工房の机には、アルバから届いた紙が並べられていた。


 三度目の三点固定観察の記録。


 水滴紋の独立した写しが二枚。


 紙片に残った冷えの時間。


 魔力灯、剣帯金具、槍袋の確認。


 追加観察を行わずに戻った記録。


 ミラが報告書を、最初から読み直す。


「左紙片。揺れなし。冷えなし。湿りなし」


 ポロが紙の左側に白い丸を描いた。


「左は、変わらない」


「中央紙片。揺れなし。観察直後の冷えは弱い。北回廊中ほどまでに冷え消失」


 ポロは中央に、小さな青い丸を描く。


「真ん中、冷たいけど、すぐ戻る」


「右紙片。下端微揺れ一回。観察直後の冷えは弱い。北回廊出口までに冷え消失」


 右にも、小さな青い丸。

 その横に、外へ向かう細い線。


「右は揺れた。でも、冷えは早くなくなった」


「はい」


 前日の右紙片は、組合へ戻った後も冷えを残していた。


 今回は、北回廊を出るまでに消えている。


 中央も右も、冷えが弱くなっていた。


 右寄りの揺れは続いている。

 けれど、冷えの強さと残る時間は小さくなった。


「弱まりながら、出口の影へ寄っている可能性があります」


 俺は言った。


 ミラが帳面へ書く。


「可能性。冷えは右寄りの揺れを残しながら弱化。出口の影へ寄りつつ、冷え全体が小さくなっている可能性」


 ガンツさんが報告書を見た。


「可能性だ。良くなったと決めるな」


「はい」


「弱くなったから、扉を触っていいわけでもない」


「はい」


 ポロが新しい紙へ書く。


『よくなったようでも、さわらない』


 ハンナさんが頷いた。


「それ、大事だね」


 ミラは次に、水滴紋の写しを二枚並べた。


 一枚はセシアさん。


 もう一枚は、同行した組合補助員が描いたもの。


 二人は、先に互いの絵を見ず、同じ観察枠を使って紋を描いている。


 水滴。

 輪。

 歯車に似た欠けた線。


 全体の形は、前日の写しとほとんど変わらない。


 ただ、水滴紋の右下だけが少し違う。


 線が細い。


 消えてはいない。

 途切れてもいない。


 だが、前日よりわずかに薄く見える。


 ミラは三枚の写しを、机の上に同じ位置で並べた。


「右下縁の薄化は、セシアさんと補助員の両方が描いています」


 ガンツさんが紙を覗き込む。


「光の違いは」


「否定できません。報告にも、その可能性が書かれています」


「なら、薄くなったと断定するな」


「はい。薄くなった可能性です」


 ミラは記録した。


『水滴紋右下縁、独立写し二点で薄化位置一致。ただし、光条件による差を除外できず。薄化の可能性』


 ポロが前日と本日の写しを見比べた。


 そして、自分の大きな紙に水滴紋を二つ描く。


 左が前日。

 右が本日。


 水滴の右下だけ、線の太さを変える。


「色じゃなくて、線を細くした」


「その方が分かりやすいですね」


 ミラが言った。


「アルバの掲示でも、色の濃さは見え方が変わるので」


 ポロは二つの絵の下に書く。


『きのう』

『きょうかもしれない』


 ガンツさんが目を細めた。


「今日、ではなく?」


「薄く見えたかもしれない、だから」


「分かっているな」


 ポロは少し誇らしげにした。


 俺は、二枚の水滴紋と紙片の位置図を並べた。


 薄くなった可能性があるのは、水滴紋の右下縁。


 紙片が揺れるのは、古い石扉の正面より右寄り。


 乾いた筋は、その間に近い。


 三つは一直線ではない。


 それでも、変化が起きている側は同じだった。


「水滴紋の薄化も、紙片の揺れも、右側に寄っています」


 ミラが筆を止める。


「関係がありますか?」


「分かりません」


 俺は答えた。


「ただ、記録上は並べておくべきです。水滴紋の右下縁。乾いた筋。右の紙片。三つとも右側にあります」


 ガンツさんが言う。


「並べるだけだ。つなぐな」


「はい」


 ミラが記録する。


『水滴紋右下縁の薄化可能性、乾いた筋、右紙片微揺れは、いずれも扉右寄り。ただし直接の関係は未確認』


 ハンナさんは、水滴紋の写しを見ながら腕を組んだ。


「薄くなったなら、中の冷えが抜けてるってことじゃないのかい?」


「その可能性はあります」


 俺は答えた。


「でも、紋だけ薄くなって、水や冷えが別の場所へ移っている可能性もあります」


「見た目だけ軽くなって、中では残ってることもある?」


「はい」


 ハンナさんは少し考え、昼の薄焼き用に休ませていた生地を持ってきた。


「生地も、表面が乾いて軽く見えても、中に水が残ってることがあるよ。逆に、表面が少ししっとりしてても、中まできちんと馴染んでることもある」


 ポロが生地を見た。


「見た目だけじゃ分からない」


「そういうことだね」


 ハンナさんは生地を指で割らず、外から軽く押しただけで戻した。


「だから、すぐ焼かない。もう少し休ませる」


 ガンツさんが短く言う。


「扉も休ませろ」


 その言葉で、工房の中が静かになった。


 良い変化に見える。


 冷えは弱くなった。


 紙片の冷たさも早く消えた。


 水滴紋の右下縁も、少し薄くなった可能性がある。


 だからこそ、次の観察を急がない。


「一日、観察を休ませた方がいいと思います」


 俺が言うと、ミラが顔を上げた。


「古い石扉へ行かない日を作るのですか?」


「はい。北回廊奥へ近づかず、紙片も使いません。扉を見ない時間を置きます」


 ポロが不思議そうに聞く。


「見ないと、分からなくならない?」


「見ない間にも変化が続くかを確かめるためです」


「人がいない時の変化?」


「はい」


 観察する人の体温。

 呼吸。

 持ち込む道具。

 通路を歩く足音。

 ほんの小さなものでも、古い石扉の周りの空気へ影響しているかもしれない。


 今までは同じ条件で観察することで、比較できる記録を集めてきた。


 次は、観察しない時間を一つの条件として置く。


 ガンツさんが頷いた。


「良く見える変化が出た後に、回数を増やすのが一番まずい」


「はい」


「一日、誰も行かせるな」


 ミラが記録する。


『提案。古い石扉前の観察を一日休止。北回廊奥への立ち入りなし。紙片観察なし。反射鏡観察なし。扉前環境を休ませる』


 ハンナさんが言う。


「パンも、水車の軸も、休ませたから馴染んだんだよ。何でも同じとは言わないけど、待つ日が必要なことはある」


「はい」


 俺は頷いた。


「ただし、休ませれば良くなると決めるわけではありません。観察を一日減らした後で、同じ条件で確認します」


 ミラが追記する。


『休止後、同じ三点、同じ紙片、同じ時刻、同じ高さ、同じ滞在時間で再観察』


 ポロは、大きな古い石扉の絵を描いた。


 その前には誰もいない。


 紙片もない。

 反射鏡もない。


 扉だけが静かに立っている。


 上には太陽が一つ。


『一日、見ない』


 その下に、小さく書き足す。


『見ないも、きろく』


 ミラがその文字を見て、静かに頷いた。


「それもアルバへ送ります」


 水守控えも調べることになった。


 ミラは古い帳面を乾いた布の上へ置く。


 紋。

 冷え。

 息。

 道。


 前に見つけた記述の続きを、一枚ずつ追う。


『冷えの座、息の道へ寄ることあり』


 さらに、その下。


 文字の一部は欠けていたが、読める行が残っている。


「ありました」


 ミラが言った。


「読みます」


 俺たちは机へ集まった。


「『紋の薄れを、解けと決めるな。冷えが弱まり、息が続くなら待て。紋のみ薄れ、根が冷えるなら、水の座を疑え』」


 ポロがゆっくり繰り返す。


「冷えが弱まって、息が続くなら、待つ」


「はい」


 俺はアルバの記録を見た。


 冷えは弱まっている。


 右紙片の微揺れは続いている。


 水音も滴下もない。


 今のところ、最初の記述に近い。


「現時点では、待つ方に近いです」


 ミラが確認する。


「良い変化の可能性がある、ということですか?」


「はい。ただし、まだ一回の薄化です。次も同じ方向へ進むかは分かりません」


 ガンツさんが言う。


「待つと決めたなら、余計なことを書くな。開ける準備もするな」


「はい」


 ミラは水守控えの写しを作り、アルバへの返答へ入れた。


 午後、返答文を整える。


『水滴紋の独立写しを確認しました。

 右下縁が前日よりわずかに薄く見える可能性があります。

 二名の写しで位置は一致していますが、光条件による差を除外できず、薄化とは断定しません。


 右紙片の微揺れが継続する一方、中央および右紙片の冷えは前日より弱く、早く消えています。

 冷えが弱まりながら出口の影へ寄っている可能性がありますが、こちらも未確定です。』


 次に、水守控えの記述を書く。


『水守控えには、「紋の薄れを、解けと決めるな。冷えが弱まり、息が続くなら待て。紋のみ薄れ、根が冷えるなら、水の座を疑え」とあります。』


 ミラは一度、筆を置いた。


「観察休止の条件を書きます」


「お願いします」


『次の一日は、古い石扉前の観察を休止してください。

 北回廊奥への立ち入りを行わないでください。

 紙片、反射鏡、魔力灯を持ち込まないでください。

 水滴紋、乾いた筋、石床の確認も行わないでください。

 接触、清掃、水掛け、魔力投入、加熱、冷却を引き続き禁止します。


 観察休止日も記録してください。

 扉前へ行かなかったこと。

 北回廊奥への立ち入りがなかったこと。

 見物や接触の未遂がなかったこと。

 組合へ持ち帰られた新たな不調道具がなかったかを記録してください。』


 ガンツさんが言う。


「見ない日に、誰かが勝手に見たら意味がない」


「はい」


 ミラは太く書いた。


『許可者を含め、全員立ち入り禁止です。』


 ポロも大きく書く。


『きょうは、だれもいかない』


 次に、休止後の観察条件。


『一日休止した後、前回と同じ時刻、同じ三点、同じ紙片、同じ高さ、同じ滞在時間で一度だけ再観察してください。

 水滴紋の線の太さは、同じ観察枠を用い、二名が独立して描いてください。

 良い変化に見えても、追加観察を行わないでください。』


 ポロが水滴紋の比較絵を添える。


 太い線。

 少し細い線。


 その横には、手を伸ばさず座って待つ人。


『うすくなっても、まつ』


 ハンナさんが満足そうに頷いた。


「今日の一番大事な札だね」


 夕方、北結界石をもう一度聞いた。


 浅溝。


 す。

 ……り。


 抜け音は安定している。


 中央奥の冷え。


 ……ん。


 朝より、さらに弱い。


 位置は変わっていない。


「北結界石。冷えの芯、位置変化なし。強さ低下。浅溝の抜け音継続」


 ミラが記録する。


 ポロが言った。


「こっちも、待つ?」


「はい。追加で触りません」


「何もしない?」


「聞くだけです」


 ガンツさんが頷く。


「それでいい」


 ハンナさんは昼に休ませていた薄焼きの生地を持ってきた。


 朝より少し滑らかになっている。


「こっちは、待ったから焼けそうだよ」


 小さな鉄板へ、生地を薄く広げる。


 じゅ。


 麦の香りが工房に広がった。


 焼けた薄焼きを、ポロが一口かじる。


「前より柔らかい」


「急がなかったからね」


 ハンナさんが笑った。


 俺も小さな欠片を受け取った。


 少し粗い。

 でも、以前の最初の薄焼きより柔らかい。


 水車。

 挽き石。

 井戸。

 休ませた生地。


 村では、待った時間が食べ物になって戻ってきた。


 古い石扉でも、同じようにうまくいくとは限らない。


 それでも、今は待つべき記録がそろっている。


 夜、アルバへの封書が閉じられた。


 中には、水守控えの写し。

 水滴紋の比較図。

 観察休止の条件。

 ポロの大きな絵。


『一日、見ない』

『見ないも、きろく』

『うすくなっても、まつ』

『きょうは、だれもいかない』


 ミラが最後に、今日の工房記録を書いた。


『水滴紋右下縁、薄化の可能性。

 右寄り微揺れ継続。

 冷えの強さ、残る時間は前日より減少。

 良い変化の可能性あり。

 ただし未確定。

 次回観察前に一日休止を提案。

 北結界石、井戸、水車、影車、粉、畑に異常なし。』


 俺はその下に並んだ言葉を見た。


 紋が薄くなる。


 冷えが弱くなる。


 息が続く。


 なら、待つ。


 昔の俺なら、変化が出た時ほど何かをしなければならないと思ったかもしれない。


 直せるところを探す。

 締められる金具を探す。

 削れる場所を探す。


 働いていることを示すために、手を動かし続けたかもしれない。


 今は違う。


 触れないことを選べる。


 見ない日を作れる。


 待つことを、工房の仕事として記録できる。


 工房の看板が夜風で鳴った。


 からん。


 井戸の札が鳴る。


 から。


 影車が鳴る。


 こ、と。


 北結界石の浅溝が、細く息をする。


 す。

 ……り。


 遠いアルバの古い石扉でも、今夜、誰にも見られずに小さな息が続いているのだろうか。


 次に確かめるのは、見ている間の変化ではない。


 誰も見なかった一日のあとに、何が残っているか。


 薄くなった水滴紋は、静かな時間を与えられることになった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、水滴紋の右下縁がわずかに薄くなった可能性を、リント村修理工房で確認する回でした。


同時に、


・右寄りの紙片の揺れは継続

・中央と右の冷えは弱くなる

・冷えが残る時間も短くなる


という変化が出ています。


良い変化の可能性はあります。

けれど、水滴紋が薄くなった理由はまだ断定できません。


水守控えには、


「紋の薄れを、解けと決めるな」

「冷えが弱まり、息が続くなら待て」

「紋のみ薄れ、根が冷えるなら、水の座を疑え」


と記されていました。


そこで次の一日は、古い石扉を観察しません。


「見ない日」も記録する。

良い変化に見える時ほど、急がず休ませる判断をした回です。

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