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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第63話 冷えは道へ寄る

 冷えの残る場所が、中央から右へ変わった。


 それが、閉じた息が出口へ向かい始めた合図なのか。


 それとも、出口になりかけた場所へ冷えが集まり、詰まり始めた合図なのか。


 アルバから届いた記録だけでは、まだ分からない。


 だから俺たちは、その封書を開く前に北結界石へ向かった。


 村の音が先。


 外で何が起きていても、この順番は変えない。


 広場の井戸札は『使用できます』。


 ハンナさんが白い器に水を取り、濁りと匂いを確かめる。


「今日も問題ないね。底の泥も増えてない。味も変わらないよ」


 俺も井戸の縁に手を置いた。


 さら。

 りん。


 水脈石の音は澄んでいる。


 次に水車小屋へ向かう。


 影車へ細い水を通す。


 こ、と。


 北の結界石が遠くで応えた。


 りん。


 水車本体も、無理のない量の水で二回転だけさせる。


 こ、とん。

 こ、とん。


 軸と軸受けの音に乱れはない。

 挽き石から落ちた粉も、昨日と同じ粗さだった。


「井戸、水車、影車、粉、異常なし」


 ミラが帳面に書く。


 その確認を終えてから、北の畑端へ向かった。


 北結界石の根元に置いた湿り印は、動いていない。


 湿りの色は、最初に見つけた時よりかなり薄くなっている。

 浅溝を覆っていた枯れ草と乾いた泥を、必要な分だけ取り除いた効果は続いているようだった。


 俺は結界石へ耳を近づける。


 りん。

 ……りん。


 石そのものの音は、今日も澄んでいる。


 次に、北側の石片裏に見つけた浅溝を聞く。


 中央。


 す。

 ……す。


 風と冷えが、細く通っている。


 右縁。


 す。

 ……り。


 こちらは、通るというより外へ抜けていく音だ。


 左縁。


 し。

 ……り。


 まだ、わずかな湿りが残っている。


「浅溝の音は安定しています」


 ミラが記録する。


「中央は通気。右縁は抜け音。左縁には湿り残り」


 ポロが注意札の外側から浅溝を見た。


「寒いところは?」


「石の中央奥です」


 俺は北結界石の根元、浅溝より少し内側へ耳を寄せた。


 ……ん。


 昨日より弱い。

 位置は大きく変わっていない。


「冷えの芯は、同じ場所に残っています。ただし、強さは少し下がっています」


 ミラが筆を止めた。


「冷えの芯、と書いてよいですか?」


「仮の名前だと分かるようにお願いします」


「はい」


 ミラは丁寧に書いた。


『北結界石。仮称・冷えの芯。位置変化なし。強さやや低下。浅溝の抜け音安定』


 ポロが小さく頷く。


「動かなくても、小さくなる」


「はい」


「動かないから悪い、じゃない」


「その通りです」


 ガンツさんが石の周囲を見回す。


「追加で触る必要はないな」


「ありません」


「なら、今日は何もしない」


 何もしない。


 それも工房の仕事だった。


 浅溝が息をしているなら、こちらから余計な手を加えない。

 冷えが弱まっているなら、動かそうとしない。


 ハンナさんが畑の土を確かめる。


「苗にも冷えは回ってない。井戸も水車も大丈夫。村の暮らしはいつも通りだね」


 それを確認して、俺たちは工房へ戻った。


 机の上には、アルバから届いた封書がある。


 ミラが封を開き、中の紙を一枚ずつ並べた。


 前日の観察表。


 本日の観察表。


 左、中央、右の紙片が、古い石扉前から組合へ戻るまでに、どれほど冷えを残したかが書かれている。


 ミラが前日の記録から読み上げた。


「前日。左紙片、冷えなし。中央紙片、組合帰還後も冷えが残り、砂時計一回後にも弱い冷えあり。右紙片、北回廊出口で冷えほぼ消失。組合帰還後は冷えなし」


 ポロが紙の上に丸を描く。


 左には白い丸。


 中央には青い丸。


 右には外へ向かう細い線。


「前の日は、真ん中が冷たい」


「はい」


 次に、本日の記録。


「本日。左紙片、冷えなし。中央紙片、北回廊出口で冷えほぼ消失。組合帰還後は冷えなし。右紙片、組合帰還後も冷えが残り、砂時計一回後にも弱い冷えあり。砂時計二回後に消失」


 ポロは、中央の青い丸を小さくした。


 代わりに、右へ青い丸を描く。


「今日は、右に冷たいのが残った」


「そうです」


 俺は二日分の表を見比べた。


 見える石扉には変化がない。


 水滴紋は同じ濃さ。

 乾いた筋も同じ位置。

 水音も、滴下もない。


 だが、持ち帰られた冷えの残る場所は変わっている。


 中央から右へ。


「冷えの座が、右へ寄った可能性があります」


 ミラが記録する。


「冷えの芯が移動した、ということですか?」


「まだ、そこまでは言えません」


 俺は二つの表を指で示した。


「中央の冷えが弱くなり、右の冷えが強くなったようには見えます。でも、同じ冷えが移動したのか、中央と右で別々に変化したのかは分かりません」


 ガンツさんが頷く。


「寄ったことと、流れたことは違う」


「はい」


「右へ寄ったから、出口へ流れていると決めるな」


「はい」


 ポロが首を傾げる。


「寄るけど、流れてないことある?」


 ハンナさんが、洗って干していた厚い布を持ってきた。


 布の中央は、まだ少し冷たい。

 端は乾いている。


 彼女は布の片方の端を折り、木箱の側面へ軽く押し当てた。


「布の中の湿りが端へ寄っても、端が開いていれば外へ抜ける」


 次に、折った端を木箱と布の間に挟む。


「でも、端が塞がっていたら、そこへ冷たさが溜まることもある」


 ポロが手を近づける。


「端、冷たい」


「同じように寄って見えても、抜けてるのか、詰まってるのかで違うんだよ」


 ハンナさんは布を元に戻した。


「古い扉が布と同じとは言わないけどね」


「はい。石と布では違います」


 俺は答えた。


 だが、考え方は分かりやすかった。


 冷えが右へ寄った。


 それだけでは、良い変化とも悪い変化とも決められない。


 弱まりながら寄ったのか。


 強まりながら寄ったのか。


 そこを見なければならない。


 ミラは水守控えを開いた。


 古い紙を傷めないよう、乾いた布の上へ置く。


 前回見つけた文章の周辺を、一枚ずつ確かめる。


『芯を急がせるな』

『端を責めるな』

『冷えの座が移るか見よ』


 その少し下に、さらに細い文字が残っていた。


 ミラは紙を斜めにし、光を当てる方向を変える。


「読めそうです」


 工房の中が静かになった。


 ミラがゆっくり読み上げる。


「『冷えの座、息の道へ寄ることあり。寄るを流れと決めるな。弱まりながら寄るか、強まりながら寄るかを見よ』」


 ガンツさんが低く繰り返す。


「弱まりながら寄るか。強まりながら寄るか」


 ポロが二つの絵を描き始めた。


 一つ目。


 中央に大きな青い丸。

 右へ行くにつれて、丸が小さくなる。


 二つ目。


 中央に小さな青い丸。

 右へ行くにつれて、丸が大きくなる。


『ちいさくなりながら、よる』

『おおきくなりながら、よる』


 俺は二日分の記録をもう一度見た。


 前日は、中央の冷えが砂時計一回後まで残った。

 右の冷えは、組合へ戻る頃には消えていた。


 本日は、中央の冷えが早く消えた。

 右の冷えは砂時計一回後まで残り、二回後に消えた。


「冷えの位置は右へ寄ったように見えます」


 俺は言った。


「ですが、冷え全体が弱くなったか、強くなったかは、まだ比べきれません」


 ミラが顔を上げる。


「なぜですか?」


「前日の中央紙片は、砂時計一回後に弱い冷えが残ったところまでしか記録されていません。二回後に消えたのか、その前に消えたのかが分かりません」


 ミラは前日の表を確認した。


「本当ですね。前日は砂時計二回後の記録がありません」


「本日は右紙片が二回後に消えています。だから、残った時間を正確に比べるには、前日の記録が足りません」


 ポロが少し残念そうに言う。


「分からない?」


「今ある記録だけでは、分かりません」


「じゃあ、失敗?」


「いいえ」


 ミラが答えた。


「足りないと分かったことも、記録の成果です」


 ガンツさんも頷く。


「分からない場所が分かれば、次に同じ穴を残さずに済む」


 ポロは前日の表の下に書いた。


『二こめのすなどけい、きろくなし』


「次は書く」


「はい」


 俺は新しい観察条件を考えた。


「次回も、同じ三点、同じ紙片、同じ高さ、同じ時刻、同じ滞在時間でお願いします」


 ミラが筆を持つ。


「はい」


「帰還後は、三つすべての冷えが消えるまで、砂時計二回分までは必ず確認してもらいます」


「二回たっても残った場合は?」


「三回目も記録します。ただし、温めたり触ったりせず、そのままです」


 ガンツさんが言う。


「冷えを確かめるために、紙を握るな。人の熱を入れるな」


「はい」


 ミラが書く。


『冷え確認時、紙面へ触れない。握らない。温めない。こすらない』


 俺はさらに項目を分けた。


 一、冷えの位置。


 二、冷えの強さ。


 三、冷えの残る時間。


 四、中央から右へ寄った場合、中央で弱くなった量。


 五、右で強くなった量。


 六、二つが同じように見えるか。


 七、水滴紋、乾いた筋、紙片の揺れに変化があるか。


 ミラが四番と五番を見た。


「冷えの強さは、どう記録しますか?」


「同じ二人が、同じ距離から確認するのがいいと思います」


「触れずに?」


「はい。紙面から指二本分離れた位置で、冷えを感じるかを確認します」


 ガンツさんが眉を寄せる。


「手の温度で差が出る」


「あります。だから一人だけで決めず、ダリオさんと補助員の二人で別々に記録してもらいます」


「同じ結果なら採用?」


 ポロが聞く。


「同じなら、比較しやすくなります。違った場合は、違ったと残します」


 ミラが書く。


『冷えの強さは二名が別々に確認。

 紙面から指二本分離す。

 触れない。

 強い、弱い、なしの三段階。

 判断が異なる場合は両方を記録』


 ポロが三つの青い丸を描く。


 大きな丸。

 小さな丸。

 白い丸。


『つよい』

『よわい』

『なし』


 ハンナさんが頷く。


「それなら、少なくとも前の日より強いか弱いかを比べやすいね」


「はい」


 俺は二つの可能性を紙へ書いた。


『弱まりながら右へ寄る』

 中央の冷えが弱くなる。

 右の冷えも前日より弱い、または早く消える。

 出口の影へ向かいながら、冷えを手放している可能性。


『強まりながら右へ寄る』

 中央の冷えが弱くなる。

 右の冷えが前日より強い、または長く残る。

 出口の影の近くで、冷えが溜まっている可能性。


 ガンツさんが二つ目を指さした。


「右で溜まっているなら、詰まりの前かもしれん」


「はい。ただし、今はまだ判断できません」


 ポロが言う。


「弱くなって右なら、いい?」


「良い変化の可能性はあります。でも、それもすぐには決めません」


「強くなって右なら、悪い?」


「詰まりの可能性はあります。でも、別の理由かもしれません」


 ポロは少し難しい顔をした。


「どっちも、まだかもしれない」


「そうです」


 ミラが水守控えの記述の横に、今日の判断を書き加えた。


『冷えが右へ寄った可能性あり。

 弱まりながら寄ったか、強まりながら寄ったかは未確定。

 前日記録に砂時計二回後がなく、比較不足』


 書いてみると、今分かっていないことがはっきり見えた。


 それが、少し心強かった。


 分からないものを、分かったふりで進めなくて済む。


 昼前、北結界石をもう一度確認した。


 浅溝の右縁。


 す。

 ……り。


 抜け音は、朝と変わらない。


 中央奥。


 ……ん。


 冷えは、朝よりさらに弱い。

 位置は同じ。


 左縁。


 し。

 ……り。


 湿りは少し残っている。


「村側では、冷えは位置を変えずに弱まっています」


 ミラが記録する。


「北結界石。冷えの芯、位置変化なし。強さ低下。浅溝右縁の抜け音安定」


 ハンナさんが言う。


「こっちは、端へ寄らなくても弱くなってるんだね」


「はい」


「だから、村でこうだったから向こうもこう、とは言えない」


「その通りです」


 ミラがアルバへの返答へ入れる注意として書いた。


『北結界石では、冷えの芯は位置を変えず弱まっています。

 古い石扉とは経過が異なります。

 村側の変化を古い石扉へ直接当てはめないでください。』


 午後、正式な返答文を作る。


 ミラが筆を取った。


『同条件再観察の報告を確認しました。

 前日は中央紙片に冷えが長く残り、右紙片の冷えは早く消えました。

 本日は中央紙片の冷えが早く消え、右紙片に冷えが長く残りました。

 冷えの座が中央から右へ寄った可能性がありますが、同じ冷えが移動したとは断定できません。』


 続けて、水守控えの言葉を記す。


『水守控えには、「冷えの座、息の道へ寄ることあり。寄るを流れと決めるな。弱まりながら寄るか、強まりながら寄るかを見よ」とあります。』


 ガンツさんが言う。


「右を触るな」


「はい」


 ミラは太く書いた。


『右の冷えが長く残ったからといって、右側へ近づかないでください。

 右を掘らないでください。

 乾いた筋を広げないでください。

 中央を叩かないでください。

 冷えを確かめるために紙片を温めないでください。

 冷えを強める、または弱めるための処置を行わないでください。』


 次に、観察条件。


『次回も同じ三点、同じ紙片、同じ高さ、同じ時刻、同じ滞在時間で観察してください。

 冷えの強さは、同じ二名が紙面から指二本分離れた位置で別々に確認してください。

 強い、弱い、なしの三段階で記録してください。

 紙面には触れないでください。

 帰還後は、全紙片の冷えが消えるまで、砂時計二回分以上を記録してください。』


 さらに、記録の不足も隠さず書く。


『前日の中央紙片について、砂時計二回後の記録がないため、前日と本日の冷えの総時間を正確に比較できません。

 不足している記録を推測で補わないでください。』


 ポロが大きな字で書いた。


『ないきろくを、つくらない』


 ミラがその文字を見て、静かに頷いた。


「とても大事です」


 夕方、北結界石を最後に確認した。


 浅溝の音は安定している。


 す。

 ……り。


 中央奥の冷えは、朝よりさらに小さい。


 ……ん。


 ほとんど、耳の奥へ触れるだけの音になっていた。


「冷えの芯、位置変化なし。強さ、さらに低下」


 ミラが記録する。


 ポロが聞く。


「村の冷えは、道へ寄ってない?」


「今のところ、そう聞こえます」


「そこにいたまま、小さくなってる」


「はい」


「アルバは、右に寄ったかもしれない」


「はい」


「でも、弱くなったか、強くなったか分からない」


「その通りです」


 ポロは紙に二つの絵を並べた。


 一つは、同じ場所で小さくなる青い丸。


 もう一つは、右へ動いた青い丸。


 その下に書く。


『おなじじゃない』


 俺はその言葉を見て、頷いた。


 似た印。

 似た湿り。

 似た古い記録。


 それでも、同じ動きをするとは限らない。


 工房の看板が夜風で鳴る。


 からん。


 井戸の札が鳴る。


 から。


 影車が鳴る。


 こ、と。


 北結界石の浅溝から、細い息が抜ける。


 す。

 ……り。


 村の冷えは、同じ場所で弱まり続けている。


 アルバの冷えは、右へ寄ったように見える。


 冷えは道へ寄ったのか。


 寄りながら、弱まっているのか。


 それとも、出口の影に集まり、強くなっているのか。


 次に必要なのは、もう一度触ることではない。


 同じ条件で、冷えの大きさと時間を最後まで残すことだった。


 寄るを、流れと決めないために。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、中央から右へ変化した冷えの残り方を、リント村修理工房で読み解く回でした。


冷えが右へ寄ったように見える。


けれど、


・弱まりながら出口の影へ寄っている

・出口の影の近くで強まり、詰まり始めている


のどちらなのかは、まだ分かりません。


さらに、前日の記録には「砂時計二回後」の確認がなかったため、冷えの総時間を正確に比べられないことも分かりました。


水守控えには、


「冷えの座、息の道へ寄ることあり」

「寄るを流れと決めるな」

「弱まりながら寄るか、強まりながら寄るかを見よ」


と記されています。


分からない部分を推測で埋めず、次の記録条件を整える回になりました。

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