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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第62話 冷えは動くのか

 前日に使った三つの紙片は、一晩、別々の木枠で風に当てられていた。


 左。

 中央。

 右。


 紙の大きさは変わっていない。

 破れもない。

 湿りもない。

 下端の曲がりにも、目立った違いはなかった。


 リーネは三つの木枠を受付机へ並べ、一枚ずつ確認する。


「出発前。左紙片、冷えなし。中央紙片、冷えなし。右紙片、冷えなし」


 補助員が同じ順番で記録した。


 昨日、長く冷えを残した中央紙片も、早く冷えを手放した右紙片も、今朝は同じ状態に戻っている。


 少なくとも、持ち出す前に分かる差はない。


 掲示板横には、リント村修理工房から届いた新しい注意書きが貼られていた。


『おなじところ』

『おなじたかさ』

『おなじじかん』

『なんどもいかない』

『うごいても、ほらない』

『のこっても、たたかない』


 その下には、左、中央、右の三つの紙片と、二つの日を表す太陽が描かれている。


『つぎのひと、くらべる』


 ダリオは三つの紙片を見下ろした。


「今日は、冷えが動くかを見るんだよな」


「冷えの位置、強さ、残る時間を前日と比べます」


 リーネが答える。


「ただし、動いたと判断するには一度の変化では足りません」


「分かってる。動いたかもしれない、まで」


「はい」


 ダリオはもう、自分から言い直せるようになっていた。


 セシアは記録用紙を確認する。


 前日と同じ時刻。

 同じ経路。

 同じ観察人数。

 同じ紙片。

 同じ木棒。

 同じ高さ。

 同じ砂時計。

 同じ三つの固定位置。


「条件に違いはありません」


 レオルが剣帯の金具を確かめる。


「出発前、曇りなし。冷えなし」


 セシアも魔力灯を確認した。


「魔力灯、曇りなし。留め金冷えなし。起動予定なし」


 ダリオは槍袋の底と紐を見た。


「槍袋、乾燥。紐、冷えなし。三紙片、別袋。混在なし」


 リーネが頷く。


「観察中に変化が出ても、追加の確認は行わないでください」


「一回分だけ」


 セシアが言う。


「はい。変化が出た時ほど、同じ条件を守って戻ってください」


 レオルが短く答えた。


「分かった」


 第三層北回廊の入口は、前日とほとんど変わらなかった。


 水音はない。

 壁に水滴もない。

 石床も乾いている。


 三つの紙片を確認する。


 左、揺れなし。

 中央、揺れなし。

 右、揺れなし。


 冷えもない。


 セシアが記録する。


『北回廊入口。

 三紙片、揺れなし。

 冷えなし。

 湿りなし。

 水音なし。』


 奥へ進む。


 こつ。

 こつ。


 足音が石壁に返る。


 中ほどへ来たところで、ダリオが足を止めた。


 右紙片の下端が、かすかに震えたのだ。


 ひら。


「中ほど。右紙片、下端微揺れ」


「左と中央は?」


 セシアが尋ねる。


 ダリオは三枚を、決められた位置で一枚ずつ確認した。


「左、揺れなし。中央、揺れなし。右だけ、下端が一度」


「冷えは?」


「まだ分からない。少なくとも、強くはない」


 補助員が時刻を記録する。


 前日も、北回廊中ほどで右紙片はわずかに揺れていた。


 今日も同じ。


 それだけなら、大きな変化ではない。


 レオルは後方を確認した。


「許可者以外なし」


 三人はそのまま古い石扉へ向かった。


 灰色の扉は閉じている。


 水滴紋は前日と同じ濃さ。

 濃くもなっていない。

 薄くもなっていない。


 水音なし。

 滴下なし。


 扉前の湿った石床には、乾いた細い筋が残っていた。

 位置にも、長さにも、目立った変化はない。


 セシアが反射鏡を使って確認する。


「水滴紋、前日と同程度。

 乾いた筋、位置変化なし。

 砂粒移動なし。

 石床の湿り、大きな変化なし」


 補助員が同じ内容を書く。


 レオルは観察線を確認した。


「線、異常なし。越えた者なし」


 ダリオは三つの白板の前に、紙片を一枚ずつ用意した。


 左。

 中央。

 右。


「始める」


 最初は左。


 同じ高さ。

 同じ距離。

 同じ砂時計。


 紙片は動かなかった。


 ダリオは、紙へ息をかけないよう顔をそらしたまま言う。


「左、揺れなし。冷えなし」


 セシアが記録する。


『左固定位置。

 揺れなし。

 冷えなし。

 湿りなし。』


 次は中央。


 紙片を動かしながら探らず、中央の白板位置へ移ってから止める。


 砂時計を返す。


 中央紙片は、前日と同じく揺れなかった。


 ただ、下端には冷たさがあった。


 ダリオが眉を寄せる。


「中央、揺れなし。下端に冷え」


 少し間を置き、もう一度確かめる。


「でも、昨日より浅い気がする」


 セシアはすぐには記録しなかった。


「同じ位置、同じ距離で確認して」


 ダリオは足元の白板を見た。

 木棒の高さも確認する。


 条件は同じだ。


「中央、冷えあり。ただし前日より弱い可能性」


 セシアが書く。


『中央固定位置。

 揺れなし。

 下端冷えあり。

 前日より弱い可能性。

 湿りなし。

 条件差、確認できず。』


 最後は右。


 同じ高さ。

 同じ距離。

 同じ砂時計。


 最初は静かだった。


 やがて、下端が一度揺れる。


 ひら。


 少し間を置いて、もう一度。


 ひら。


「右、下端微揺れ。二度」


「前日は?」


 セシアが前日の記録を見る。


「観察中の微揺れは一度。今日は二度。ただし、揺れの強さは大きく変わらない」


 ダリオは木棒の糸を持つ指へ意識を向けた。


「冷えもある」


「中央と比べて?」


「今は……右の方が深い気がする」


 補助員も、紙片の下端へ触れずに指を近づける。


「右の方が冷気を感じます」


 セシアが記録する。


『右固定位置。

 紙片下端微揺れ、二度。

 下端冷えあり。

 観察直後、中央より冷えが強い可能性。

 湿りなし。』


 砂時計が落ちきった。


「終了」


 セシアが言う。


 ダリオは紙片を下ろした。


 だが、視線は右紙片へ残っている。


「昨日と違う」


「違う可能性があります」


「もう一度見れば――」


「見ない」


 レオルが即座に言った。


 ダリオが彼を見る。


「でも、冷えの場所が変わったかもしれないんだぞ」


「だから見ない」


 レオルの声は静かだった。


「変化が出た後に観察を足せば、今日と昨日を比べられなくなる」


 ダリオは少し黙った。


 それから、紙片を別々の通気袋へ入れる。


「……分かった。戻る」


 セシアは記録板に追記した。


『変化確認後、追加観察案あり。

 レオルが制止。

 追加観察なし。』


 レオルが眉を寄せる。


「俺の名前まで書くのか」


「判断の記録よ」


「そうか」


 彼はそれ以上、何も言わなかった。


 古い石扉は、閉じたままだ。


 水滴紋も変わらない。

 乾いた筋も変わらない。


 見えるものは、昨日と同じ。


 けれど、三つの紙片が抱えた冷えには、違いが出始めていた。


 帰り道、北回廊中ほどで一度目の確認を行う。


 左紙片。


「冷えなし」


 中央紙片。


 ダリオは少し首を傾げた。


「冷えはある。でも、昨日より薄い。もうかなり抜けてる」


 右紙片。


「右は、まだ冷たい」


 セシアが書く。


『北回廊中ほど。

 左、冷えなし。

 中央、冷え弱化。前日同地点より早く抜けている可能性。

 右、冷え残り。

 右冷え、中央より明確。』


 ダリオが右紙片を見た。


「昨日は、ここで右の冷えが弱くなってたよな」


「はい」


 補助員が前日の写しを確認する。


「前日は中ほどで右冷え弱化。今日は残りが明確です」


 セシアは別の行へ書く。


『前日との差。

 右紙片の冷え、残り時間が延びた可能性。』


 レオルは自分の剣帯金具を見る。


「曇りなし。冷えあり」


 セシアの魔力灯も、外殻に曇りはない。

 留め金の内側だけ冷たい。


 ダリオの槍袋は、底も紐も乾いている。


 北回廊出口で、二度目の確認。


 左。


「変化なし」


 中央。


「冷え、ほとんど消えた」


 右。


 ダリオの表情が硬くなる。


「まだ残ってる。弱くはなった。でも、昨日より長い」


 セシアが時刻とともに記録する。


『北回廊出口。

 左、冷えなし。

 中央、冷えほぼ消失。

 右、冷え残り。

 前日は右冷えほぼ消失。今日は残留。』


 補助員の記録も一致している。


 冷えは、中央から消え始めている。


 代わりに、右へ長く残っている。


 ただし、右へ移動したと決めるには早い。


 紙片ごとの条件はそろえている。

 時刻も、滞在時間も同じ。

 それでも、迷宮の空気そのものが完全に同じとは限らない。


 だから、持ち帰る。


 判断は後だ。


 組合へ戻ると、リーネは前日と同じ三つの木枠を用意して待っていた。


 左。

 中央。

 右。


 ダリオは紙片を一枚ずつ、別々に置く。


「混在なし。密封なし。紙面接触なし」


 自分から言い、記録した。


 リーネが確認する。


「よろしいです」


 帰還直後の状態。


 左紙片。


 冷えなし。

 湿りなし。


 中央紙片。


 下端の冷えは、ほとんど消えている。

 前日は、帰還直後にも冷たさが明確に残っていた。


 右紙片。


 下端に冷えが残っている。

 強くはない。

 だが、前日はこの時点でほぼ消えていた。


 リーネの筆が止まる。


「中央と右が、前日と逆になっています」


 セシアは慎重に答えた。


「冷えの残り方が逆になった可能性があります」


「可能性、ですね」


「はい」


 リーネは記録する。


『組合帰還直後。

 左、冷えなし。

 中央、冷えほぼ消失。

 右、下端冷え残り。

 前日は中央冷え残り明確、右冷えほぼ消失。

 前日との傾向差あり。』


 レオルは剣帯金具を見せる。


「曇りなし。冷え弱く残る」


 セシアの魔力灯留め金にも、弱い冷えが残っていた。


 ダリオの槍袋は、湿りなし。

 紐もほとんど冷えていない。


 三つの紙片だけが、前日との違いをはっきり持ち帰っていた。


 砂時計を一度落とす。


 その間、誰も紙片へ触れない。


 ダリオは右紙片を見つめていたが、少し距離を取っている。

 息を吹きかけないためだ。


「冷えが右へ動いたのかな」


 彼が小さく言った。


 セシアは記録板から顔を上げない。


「そうかもしれない。でも、右側の冷えが強くなっただけかもしれない」


「中央が弱くなって、右が強くなった」


「それを、移動と呼べるかはまだ分からないわ」


 レオルが言う。


「変わったことだけ残せ」


 リーネが頷く。


「その通りです」


 砂時計が落ちきる。


 再確認。


 左紙片。


 冷えなし。


 中央紙片。


 冷えなし。


 右紙片。


 下端に、本当にわずかな冷たさが残っていた。


「右、まだ少し」


 ダリオの声が低くなる。


 補助員も同じことを確認する。


 リーネが書く。


『砂時計一回後。

 左、冷えなし。

 中央、冷えなし。

 右、下端に弱い冷え残り。

 前日は中央に弱い冷え残り、右は冷えなし。』


 前日と今日。


 中央と右。


 冷えの残り方は、確かに入れ替わっていた。


 ただし、見える扉には変化がない。


 水滴紋の濃さも同じ。

 乾いた筋の位置も同じ。

 水音も滴下もない。


 変化したのは、紙片が持ち帰った冷えの時間だけだった。


 リーネは前日と今日の表を並べた。


『前日』

 左、変化なし。

 中央、冷え長く残る。

 右、冷え早く抜ける。


『本日』

 左、変化なし。

 中央、冷え早く抜ける。

 右、冷え長く残る。


 セシアが二つの表を見つめた。


「冷えの座が、中央から右へ寄ったようにも見えます」


「未確定です」


 リーネがすぐに言った。


「はい。未確定です」


 ダリオが右紙片を見る。


「でも、出口の影も右だったよな」


 レオルが答える。


「だから、良い変化とは限らない」


「息の道へ冷えが近づいてるなら、抜けるかもしれないだろ」


「そこで詰まるかもしれない」


 ダリオは黙った。


 出口の影へ冷えが寄っている。


 それが、閉じた息が外へ向かい始めたということなのか。

 出口の近くへ冷えが集まり、かえって塞ごうとしているのか。


 まだ分からない。


 リーネは報告書に、二人の言葉をそのままは書かなかった。


 観察されたことだけを整理する。


『前日と同条件で観察。

 中央紙片の冷え残りは短くなった。

 右紙片の冷え残りは長くなった。

 左紙片は両日とも変化なし。

 水滴紋、乾いた筋、石床湿りに目立った変化なし。

 冷えの位置が中央から右へ寄った可能性あり。

 ただし、迷宮環境差を含め未確定。』


 その下に、太く書く。


『変化があったため、追加観察は行っていません。』


 レオルがその一文を見て言った。


「必要だ」


「はい」


 リーネは掲示板にも、短い報告を出した。


『同条件による再観察で、冷えの残る位置に変化が見られました。

 原因未確定。

 古い石扉、水滴紋、乾いた筋、石床へ触れないでください。

 追加観察を求めて近づかないでください。』


 掲示を読んだ冒険者の一人が言った。


「右へ動いたなら、右が答えじゃないのか」


 別の冒険者がすぐに答えた。


「右を掘るなって、何枚も書いてあるだろ」


「でも気になるだろ」


「気になるから触らないんだよ」


 以前なら、リーネが言わなければ出なかった言葉だった。


 今は、組合の中から返ってくる。


 ガルドも掲示を見ていたが、今日は何も言わなかった。


 夜になる前に、リント村修理工房への封書がまとめられた。


 前日と今日の比較表。

 三紙片の時間記録。

 水滴紋と乾いた筋の無変化。

 道具の状態。

 追加観察を止めた記録。

 冷えの位置変化の可能性。


 リーネは本文の最後に書いた。


『前日と同条件で観察した結果、中央紙片の冷えは早く抜け、右紙片の冷えは前日より長く残りました。

 左紙片に変化はありません。

 見た目の変化は確認されていません。

 冷えの座が中央から右へ寄った可能性がありますが、断定はしません。

 変化が確認されたため、当日の追加観察は行いませんでした。』


 封を閉じる。


 三つの紙片は、別々の木枠で風に当てられている。


 左は最初から変わらない。


 中央は、もう冷たくない。


 右だけが、ほんの少し遅れて冷えを手放した。


 やがて二度目の砂時計が落ちきる頃、右紙片の冷たさも消えた。


 リーネはそれも記録する。


『砂時計二回後、三紙片すべて冷えなし。』


 冷えは、消えた。


 だが、その前に残った場所は、昨日と違っていた。


 古い石扉は動いていない。


 水滴紋も、乾いた筋も動いていない。


 それでも、閉じた息の中で、冷えだけが少しずつ位置を変えているのかもしれない。


 冷えは動いたのか。


 それとも、見えない道へ引かれただけなのか。


 答えは、またリント村修理工房へ送られた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、前日と同じ条件で三点固定観察を繰り返す回でした。


前日の結果は、


・左:変化なし

・中央:冷えが長く残る

・右:冷えは早く抜ける


でした。


今回は、


・左:変化なし

・中央:冷えは早く抜ける

・右:冷えが長く残る


という違いが出ています。


冷えの残る場所が、中央から右へ寄ったようにも見えます。

ただし、本当に冷えが移動したのか、右側の冷えだけが強まったのかは未確定です。


そして、変化が出たからこそ追加観察は行いませんでした。


同じ条件を守り、記録だけを持ち帰る。

レオルがその判断を止めずに守る回でもあります。

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