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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第59話 右に揺れ、中央に冷え

 アルバから届いた封書を開く前に、俺たちは北結界石へ向かった。


 朝の畑には、薄い霜のような白さが残っている。

 けれど、井戸水は澄んでいた。

 味も変わらない。

 水車も軽く回り、影車の合図も届いている。


 こ、と。


 北結界石が応える。


 りん。


 遅れはない。


 俺は石に耳を近づけた。


 りん。

 ……りん。


 石そのものの音は、今日も澄んでいる。


 次に、北側の浅溝を聞いた。


 す。

 ……り。


 抜け音は安定していた。

 最初に見つけた時よりも、ずっと落ち着いている。


 ただ、全部が同じ音ではない。


 中央には、細く通る音。

 右縁には、軽く抜ける音。

 左縁には、まだ少し湿りを抱えた音。


 昨日と同じだ。


「北結界石、浅溝の音は安定しています。右縁に抜け音、中央に通気音、左縁に湿り残り」


 ミラが記録する。


「石音安定。影車応答安定。湿り範囲、さらに薄化。追加処置なし」


 ポロが湿り印を見て、頷いた。


「今日は、さわらない日」


「はい」


 ガンツさんが短く言う。


「何もしないことも処置だ」


 ハンナさんが井戸水を入れた白い器を持ち上げる。


「井戸も大丈夫。粉も昨日と同じ。畑に冷えが広がった感じもないね」


 その確認を終えてから、俺たちは工房へ戻った。


 机の上には、アルバからの封書がある。


 ミラが封を開き、一枚ずつ紙を並べた。


 三点固定観察の報告。

 左、中央、右の紙片記録。

 水滴紋と乾いた筋の写し。

 帰還後の道具確認。

 リーネさんのまとめ。


 ミラが読み上げる。


「左固定位置。紙片揺れなし。冷え感なし。湿りなし」


 ポロが小さく言う。


「左、なにもなし」


 ミラは次の行へ進む。


「中央固定位置。紙片揺れなし。下端冷え感あり。湿りなし。乾いた筋に比較的近い位置」


 ハンナさんが眉を寄せる。


「揺れないけど冷える」


 ミラは続けた。


「右固定位置。紙片下端微揺れ。下端冷え感あり。湿りなし。前回微揺れ位置に近い」


 ガンツさんが腕を組む。


「右は揺れ、中央は冷え、左は変化なし」


「はい」


 俺は報告書を見つめた。


 紙の上には、三つの小さな図が描かれていた。


 左。

 中央。

 右。


 左は何もない。

 中央は揺れないが冷えている。

 右は冷えて、揺れる。


 答えではない。


 けれど、今までより少しだけ形が見えてきた。


 息が抜けようとしている場所と、冷えが残っている場所が同じではない。


 北結界石の浅溝と似ている。


 あちらでも、抜け音が軽いのは右縁だった。

 でも、湿りが残っているのは左縁に近い。

 中央は、通り道として落ち着いている。


 俺はゆっくり言った。


「出口の影は右寄りにある可能性があります」


 ミラが筆を構える。


「はい」


「でも、冷えの芯は中央寄りに残っています。右が揺れるから右が全部ではありません。中央が冷えるから中央を叩くのでもありません」


 ガンツさんがすぐに頷いた。


「それを書け。揺れも冷えも、触る理由ではない」


 ミラが記録する。


「仮説。出口の影は右寄り、冷えの芯は中央寄りの可能性。ただし断定不可。揺れ、冷えは接触理由にならない」


 ポロが首を傾げた。


「右が出口で、中央が寒い?」


「まだ出口とは言えません」


 俺は答えた。


「でも、外へ出ようとする気配は右に寄っているかもしれません。冷えは中央に残っているかもしれません」


「息が右に行きたい。でも、寒いのは真ん中?」


「そう聞こえます」


 ハンナさんが机の上に小さな鍋を置いた。


 朝の粥を温めたあとの鍋だ。

 火から下ろしてしばらく経っている。


「少し触ってごらん。外側はもう温いけど、真ん中はまだ熱いところがある」


 ポロが恐る恐る手を近づける。

 触るのではなく、手をかざすだけだ。


「あ、真ん中あったかい」


「湯気が抜けるのは端だったりするけど、熱が残るのは真ん中だったりする。冷えも似たようなことがあるんじゃないかね」


 ミラが記録する。


「ハンナ所見。逃げる場所と、熱または冷えが残る場所は一致しない場合あり」


 ガンツさんも言う。


「鍛冶でも、割れが出る場所と熱が残る芯は違うことがある」


「はい」


 俺は頷いた。


 見えている現象は一つではない。

 揺れ。

 冷え。

 乾き筋。

 水滴紋。

 道具の冷え。


 それぞれが、同じものの別の顔かもしれない。

 あるいは、違う層の変化かもしれない。


 決めるには早い。


 ミラは水守控えを開いた。


 乾いた布の上に古い帳面を置き、該当するページを探す。


 出口なき息。

 道の影。

 端の息。


 その少し後に、細い文字があった。


「……ありました」


 ミラはゆっくり読み上げる。


「『息は端より抜け、冷えは芯に残ることあり。端を出口と決めるな。芯を病と決めるな。抜ける息と残る冷えを分けて記せ』」


 工房の中が静かになった。


 息は端より抜け、冷えは芯に残ることあり。


 ポロが目を丸くする。


「今のと同じ?」


「近いです」


 俺は言った。


「でも、同じ状況とは限りません」


 ガンツさんが頷く。


「近い。だが、決めるな」


 ミラは記録する。


「水守控え。息は端より抜け、冷えは芯に残ることあり。端を出口と決めるな。芯を病と決めるな。抜ける息と残る冷えを分けて記せ」


 ポロはすぐに紙を取り出した。


 石の中に、中央の冷たい丸。

 右側へ出ようとする細い息。

 左には何もない。


 その下に書く。


『右にゆれ』

『まんなかにひえ』

『ひとつにしない』


 ハンナさんが覗き込む。


「分かりやすいね」


 ガンツさんは追加で言う。


「右を掘るな、中央を叩くな、も描け」


 ポロは右側を掘る手にばつ印。

 中央を槌で叩く絵にもばつ印を描いた。


『ゆれたから、ほらない』

『ひえたから、たたかない』


 ミラはその札を見て、頷いた。


「アルバ掲示用に入れましょう」


 俺は、アルバへの次の返答を考えた。


 今必要なのは、温かいか冷たいかを一度だけ見ることではない。

 冷えがどれだけ残るかだ。


 右は揺れる。

 中央は冷える。

 でも、時間が経った時、どちらの冷えが長く残るのか。


 それを知りたい。


「次は、冷えの残り時間を見てもらいたいです」


 ミラが顔を上げる。


「残り時間?」


「はい。三点観察の直後、帰還途中、帰還後。中央と右の紙片や道具に、冷えがどれくらい残るかを比べます」


 ハンナさんが頷く。


「鍋でも布でも、すぐ冷えるところと、いつまでも冷たいところがあるからね」


「はい。右が揺れても、冷えがすぐ抜けるなら出口に近いかもしれません。中央が揺れなくても、冷えが長く残るなら芯に近いかもしれません」


 ガンツさんが言う。


「冷えを見るだけだ。温めるな。こするな」


「はい」


 ミラが書く。


「次回提案。冷えの残り時間を記録。温めない。こすらない。触りすぎない」


 ポロが札を追加する。


『ひえが、いつまでのこるか見る』

『あたためない』

『こすらない』


 ガンツさんはそれを見て頷いた。


「いい」


 昼前、北結界石へもう一度行った。


 アルバの記録を読んだあとで、こちらの音を比べたかった。


 浅溝の右縁。


 す。

 ……り。


 軽く抜けている。


 中央。


 ……す。


 通っているが、強くはない。


 左縁。


 し。

 ……り。


 湿りが残る。


 俺はそれぞれを聞き分けたあと、時間を置いてもう一度聞いた。


 右縁の抜け音はすぐ軽くなる。

 中央の通気は安定している。

 左縁の湿り音は、少し残りやすい。


「場所ごとに、音の残り方が違います」


 ミラが記録する。


「北結界石浅溝。右縁の抜け音は軽い。中央は安定。左縁の湿り音は残りやすい」


 ハンナさんが言う。


「村側では、冷えはもう強くないね」


「はい。今は湿り残りの方が目立ちます」


 ガンツさんが周囲を確認する。


「追加処置なし」


 ポロも言った。


「今日は、聞くだけ」


 工房へ戻ってから、アルバへの返答を書いた。


 ミラが筆を取る。


『三点固定観察の報告を確認しました。

 左は変化なし。

 中央は揺れなし、下端に冷え。

 右は下端微揺れ、下端に冷え。

 この三つの違いは重要です。

 揺れる場所と冷えが残る場所は、同一とは限りません。』


 続けて、水守控えの言葉を書く。


『水守控えには、「息は端より抜け、冷えは芯に残ることあり。端を出口と決めるな。芯を病と決めるな。抜ける息と残る冷えを分けて記せ」とあります。』


 ガンツさんが言う。


「禁止も入れろ」


 ミラは頷き、太く書いた。


『右が揺れたからといって、右を出口と断定しないでください。

 中央が冷えたからといって、中央を叩かないでください。

 右を掘らないでください。

 中央を削らないでください。

 乾いた筋へ水を掛けないでください。

 魔力を流さないでください。

 接触、清掃、加熱、冷却を行わないでください。』


 ハンナさんが「加熱も」と呟く。


「温めれば分かる、って言う人もいるかもしれないからね」


「はい」


 ミラはさらに書き足した。


『反応を見るために温めることも禁じます。』


 ポロが大きな字で書く。


『ためしに、あたためない』


 そして、次の観察項目。


『次回観察では、冷えの残り時間を記録してください。


 一、三点固定観察直後の左、中央、右の紙片の冷え。

 二、北回廊を出た直後の冷え。

 三、組合帰還直後の冷え。

 四、帰還後しばらく置いた後の冷え。

 五、魔力灯留め金、剣帯金具、槍袋紐の冷えの残り方。

 六、湿りや曇りが出るかどうか。


 紙片を温めないでください。

 こすらないでください。

 密封しないでください。

 同じ条件で置いてください。』


 俺は少し考えてから加えた。


「中央と右の紙片は、別々に置いてください。近づけると冷えが移るかもしれません」


 ミラが書く。


『左、中央、右の紙片は別々に通気保管してください。互いに触れさせないでください。』


 ポロが三つの紙片を別々の小箱に入れる絵を描いた。


『まぜない』


 ハンナさんが頷く。


「保存箱の仕切りと同じだね」


「はい」


 それも、今までの仕事とつながっている。


 魔力灯。

 方位石。

 保存箱。

 結界札。

 携帯結界灯。

 北結界石。

 古い石扉。


 別々の仕事のようで、どれも「混ぜない」「急がない」「触る前に見る」に戻ってくる。


 夕方、北結界石の最後の確認をした。


 浅溝の音は安定。

 湿りは薄い。

 冷えはほとんど気にならない。


 ただ、左縁の湿りはまだ残っている。


「北結界石、追加処置不要。明日も確認」


 ミラが記録する。


 ポロが言う。


「石、だいぶ楽そう」


 ガンツさんが言い直させるように見る。


 ポロは少し慌てて言った。


「楽そう、かもしれない」


「よし」


 ハンナさんが笑った。


 夜、アルバへの封書が整った。


 中には、水守控えの写し。

 三点観察への返答。

 冷えの残り時間を測る新しい項目。

 ポロの絵札。


『右にゆれ』

『まんなかにひえ』

『ひとつにしない』

『ゆれたから、ほらない』

『ひえたから、たたかない』

『ためしに、あたためない』

『まぜない』


 ミラは封を閉じる前に、最後の文を読み上げた。


『揺れは出口の影を示すかもしれません。

 冷えは閉じた息の芯を示すかもしれません。

 どちらも、まだ未確定です。

 分けて記録してください。』


 俺は頷いた。


「それでお願いします」


 工房の看板が夜風で鳴る。


 からん。


 井戸の札が鳴る。


 から。


 影車が鳴る。


 こ、と。


 北結界石の浅溝が、細く応える。


 す。

 ……り。


 右に抜ける音。

 中央に通る音。

 左に残る湿り。


 アルバの古い石扉も、きっと一つの音だけではない。


 右に揺れ、中央に冷え。


 その違いを分けて聞くことができれば、出口を作らずに、出口の影へ近づけるかもしれない。


 まだ、穴は開けない。


 まだ、触れない。


 ただ、冷えがどれだけ残るのかを、次に聞く。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、アルバから届いた三点固定観察の結果を、リント村修理工房で読み解く回でした。


結果は、


・左:変化なし

・中央:揺れなし、冷えあり

・右:揺れあり、冷えあり


でした。


エイルは、出口の影は右寄りにあるかもしれないが、冷えの芯は中央寄りに残っているかもしれない、と考えます。


水守控えからは、


「息は端より抜け、冷えは芯に残ることあり」

「端を出口と決めるな」

「芯を病と決めるな」


という記述が見つかりました。


次は、アルバ側で「冷えがどれだけ残るか」を観察することになります。

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