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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第55話 息はあるが、出口がない

 北結界石の浅溝は、朝の光の中で細く息をしていた。


 す。

 ……り。


 音は昨日よりも落ち着いている。


 湿り印の内側に残る土は、まだ少し暗い。

 けれど、最初に見つけた時のような重い冷たさは薄れていた。


 俺は結界石に耳を近づける。


 りん。

 ……りん。


 石そのものの音は澄んでいる。


 影車からの合図を通す。


 こ、と。


 北結界石が応える。


 りん。


 遅れはない。


 ミラが帳面を開く。


「北結界石。石音安定。影車応答安定。浅溝の抜け音継続。湿り範囲、前日より薄化」


 ポロが湿り印の木片を見て、少し嬉しそうに言った。


「石、息できてる」


 ガンツさんがすぐに言う。


「できている、とは言い切るな」


「息できてる、かもしれない」


「それでいい」


 ポロは素直に言い直した。


 ハンナさんが白い布で土の表面を軽く押さえる。


「井戸水とは違う湿りだけど、こもった匂いは弱くなってるね」


 井戸の水も確認した。

 澄んでいる。

 味も悪くない。

 料理に使える。


 水車も軽く回した。

 挽き石に少しだけ麦を通すと、昨日と同じ粗さの粉が落ちた。


 村の暮らしは保たれている。


 それを確かめてから、俺たちは工房へ戻った。


 机の上には、アルバから届いた封書が置かれていた。


 リーネさんからの報告。

 紙片による観察記録。

 セシアさんの記録板の写し。

 ダリオさんの紙片係記録。

 補助員の比較記録。


 ミラが封を開き、一枚ずつ広げる。


「水滴紋、前回と同程度。水音なし。滴下なし。乾いた筋、変化なし。紙片を観察線手前で使用。紙片下端のみ、二度微揺れ」


 ポロが首を傾げた。


「下だけ?」


「はい」


 ミラは続きを読んだ。


「紙片上部に揺れなし。補助員の咳による全体揺れとは動きが異なる。扉、床、乾いた筋への接触なし。水掛けなし。魔力投入なし。清掃なし」


 ガンツさんが短く言う。


「守っているな」


「はい」


 俺は紙片の動きの図を見た。


 薄い紙。

 観察線の手前。

 乾いた筋からは離れている。

 上は動かず、下の端だけが、かすかに押されるように揺れた。


 普通の風なら、紙片全体が揺れる。

 補助員の咳では実際に全体が揺れたと記録されている。


 でも、扉前での揺れは下端だけ。


 それは、空気が通路全体を流れたのではないということだ。


 足元の近く。

 扉の下。

 湿った石床の奥。

 そこから、細く弱い冷気が押し出そうとしている。


 けれど、出口がない。


 俺は北結界石の浅溝を思い出した。


 こちらには、細い通り道があった。

 枯れ草と乾いた泥を少し取ると、冷えが細く抜けた。

 す、り、と音が通った。


 アルバの古い石扉には、紙片を揺らすほどの息はある。


 でも、乾いた筋はまだ溝ではない。

 息を外へ出す出口にはなっていない。


「息はあります」


 俺は言った。


 ミラが筆を構える。


「はい」


「でも、出口がありません。北結界石には浅溝があって、そこから細く抜けています。古い石扉は、紙片を揺らすほどの冷気はあるのに、乾いた筋はまだ出口になっていません」


 ミラはゆっくり書く。


「古い石扉。息はあるが出口がない可能性。紙片下端のみ揺れ。乾いた筋は未開通。北結界石浅溝とは異なる」


 ポロが小さく言う。


「息があるのに、出られない?」


「そう聞こえます」


「苦しい?」


 俺は少し考えた。


「苦しいかどうかは分かりません。でも、閉じ込められている感じです」


 ハンナさんが胸元を押さえる。


「嫌な感じだね。湯気の抜けない鍋みたいだ」


 ガンツさんが頷いた。


「蓋を叩き割れば中身が飛ぶ」


「はい」


 俺は言った。


「だから出口を作ってはいけません。出口を探す必要があります」


 ガンツさんは俺を見た。


「今のは、書いておけ」


 ミラが頷く。


「出口を作るな。出口を探す」


 ポロはすぐに紙を取り出した。


 石の中に小さな息が閉じ込められている絵。

 外へ出たがっている細い線。

 大きな棒で穴を開けようとする手に、ばつ印。

 石の周りを見ている人に、丸印。


 その下に書く。


『でぐちをつくるな』

『でぐちをさがす』


 ガンツさんが腕を組んだまま言った。


「いい」


 ミラは水守控えを取り出した。


「この状況に近い記述があるか、もう一度確認します」


 古い帳面のページを、乾いた布の上で慎重にめくる。


 根冷え。

 細き逃げ音。

 乾き筋。

 塞がる前の息。


 その周辺を探す。


 紙は薄い。

 文字はかすれている。

 一度に読むと目が疲れる。


 ミラは途中で手を止めた。


「紙も休ませます」


 ハンナさんが頷く。


「その方がいい。古い紙は急がせない」


 少し待ち、まためくる。


 そして、ミラの指が止まった。


「ありました」


 工房の中が静かになる。


 ミラはかすれた文字を読み上げた。


「『出口なき息は、石を内より冷やす。冷えを見て穴を穿つな。息は道を知る。人は道の影を探せ』」


 ポロがゆっくり繰り返した。


「人は、道の影を探せ」


 ガンツさんが低く言う。


「穴を穿つな」


「はい」


 ミラは続けて読んだ。


「『濡れを追えば迷い、乾きを削れば失う。風の揺れ、紋の濃淡、床の筋、時の違いを並べよ』」


 俺は息を止めた。


 風の揺れ。

 紋の濃淡。

 床の筋。

 時の違い。


 まさに今、アルバから届いている記録だ。


 ミラは帳面を閉じず、そのまま写しを取った。


「水守控え。出口なき息は石を内より冷やす。冷えを見て穴を穿つな。息は道を知る。人は道の影を探せ。濡れを追えば迷い、乾きを削れば失う。風の揺れ、紋の濃淡、床の筋、時の違いを並べよ」


 ポロは目をぱちぱちさせた。


「いっぱい並べる?」


「そうです」


 ミラが答える。


「一つだけを見て決めない、ということです」


 ガンツさんが言う。


「水滴紋だけ見るな。乾いた筋だけ見るな。紙だけ見るな」


「はい」


 俺はアルバの記録を並べ直した。


 水滴紋の濃さ。

 乾いた筋の位置。

 紙片の揺れ。

 魔力灯の冷え。

 剣帯金具の曇り。

 槍袋底の湿り。

 観察時刻。

 滞在時間。


 どれか一つでは分からない。

 でも、並べれば見えることがあるかもしれない。


 北結界石の時もそうだった。


 湿りだけなら、ただの朝露にも見えた。

 冷えだけなら、風通りの悪さにも思えた。

 でも、影車の応答、井戸水、土の匂い、水守控え、枯れ草、浅溝の音を並べたから、最小限の手入れで済んだ。


「古い石扉でも、観察項目を増やす必要があります」


 ミラが頷く。


「ただし、近づかない範囲で」


「はい」


 俺は紙に項目を挙げた。


 一、紙片が揺れる位置。

 二、紙片のどの部分が揺れるか。

 三、水滴紋の濃さ。

 四、乾いた筋の長さと位置。

 五、乾いた筋と水滴紋の距離。

 六、石床の湿りの濃さ。

 七、観察時刻。

 八、滞在時間。

 九、道具の冷え、曇り、湿り。

 十、通常の風との比較。


 ハンナさんが覗き込む。


「時間も大事だね。朝と昼と夕方で湿り方が違うこともある」


「はい。ただ、長く留まるのは危険です」


「一度に長く見るんじゃなくて、短く分ける?」


「それがいいと思います」


 ミラが書く。


「観察は短時間。可能であれば、同じ日に時間を分けて記録。ただし滞在を増やしすぎない」


 ガンツさんが言う。


「人を増やすな。見物が増えれば荒れる」


「はい」


 俺は項目に加えた。


 十一、観察人数を増やさない。

 十二、観察線を越えない。

 十三、接触、清掃、水掛け、魔力投入なし。


 ポロが大きな紙に絵を描く。


 扉の前に、四つの小さな絵。


 水滴紋。

 乾いた筋。

 揺れる紙片。

 時計のような丸。


 その下に書く。


『ひとつで決めない』

『ならべて見る』


 ミラはそれを見て言った。


「分かりやすいです」


 ポロはさらに、穴を開けようとする手に大きなばつ印をつけた。


『あなをあけない』


 ガンツさんが頷く。


「それは大きく描け」


 午後、北結界石の浅溝をもう一度確認した。


 浅溝の音は安定している。


 す。

 ……り。


 湿りは少し薄くなった。

 冷えも弱い。


 ハンナさんが土と畑を見て言う。


「畑への冷えはないね。井戸も変わらない」


「村側の処置は、今のところ悪い影響を出していません」


 ミラが記録する。


「北結界石浅溝、安定。村水、畑、粉に影響なし」


 ハンナさんはアルバの記録へ目を向けた。


「でも、村でうまくいったからって、迷宮でも同じにやっちゃ駄目だよ」


「はい」


 俺は頷いた。


「リント村は土と石片と枯れ草でした。古い石扉は迷宮の石床です。水守控えの言葉が似ていても、同じ手順は使えません」


 ガンツさんが言う。


「北の浅溝を見つけたから、向こうも削ればいい、となるのが一番まずい」


「それは強く書きます」


 ミラが帳面に書き足す。


「村側対応を古扉へそのまま適用しない。出口は作らず、道の影を探す」


 工房へ戻り、アルバへの返答を書くことになった。


 ミラは筆を整えた。


『紙片観察記録を確認しました。

 紙片下端のみが二度かすかに揺れ、通常の風による全体揺れと異なることを確認しました。

 水滴紋、乾いた筋、水音、滴下に大きな変化がないことも確認しました。

 接触、水掛け、魔力投入、清掃を行わなかった判断は適切です。』


 次に、俺の判断を整理する。


『当工房では、古い石扉について「息はあるが、出口がまだない」状態の可能性があると考えます。

 ただし、断定はしません。

 北結界石では細い浅溝から抜け音を確認しましたが、古い石扉前の乾いた筋はまだ出口とは判断できません。』


 ガンツさんが腕を組んだ。


「ここからだ」


 ミラは頷き、太く書いた。


『出口を作らないでください。

 出口を探してください。

 穴を開けないでください。

 乾いた筋を削らないでください。

 砂や苔を払わないでください。

 水を掛けないでください。

 魔力を流し込まないでください。』


 ポロが絵を横に置く。


 穴を開ける手にばつ。

 出口を探して記録を並べる人に丸。


『でぐちをつくるな』

『でぐちをさがす』


 ミラは水守控えの引用も加えた。


『水守控えには、「出口なき息は、石を内より冷やす。冷えを見て穴を穿つな。息は道を知る。人は道の影を探せ」とあります。

 また、「濡れを追えば迷い、乾きを削れば失う。風の揺れ、紋の濃淡、床の筋、時の違いを並べよ」とあります。』


 その後に、観察項目を書く。


『次回以降の観察では、以下を記録してください。


 一、紙片が揺れる位置。

 二、紙片のどの部分が揺れるか。

 三、水滴紋の濃さ。

 四、乾いた筋の長さと位置。

 五、乾いた筋と水滴紋の距離。

 六、石床の湿りの濃さ。

 七、観察時刻。

 八、滞在時間。

 九、道具の冷え、曇り、湿り。

 十、通常の風との比較。


 観察は短時間で行ってください。

 観察人数を増やさないでください。

 観察線を越えないでください。』


 ハンナさんが言う。


「道具を持って帰った後の変化も書いてもらったら?」


「乾いた後ですか?」


「うん。冷えや曇りが、外へ出たらすぐ消えるのか、しばらく残るのか」


 俺は頷いた。


「大事です」


 ミラが追記する。


『帰還後、道具の冷えや曇りがどれほど残るかも記録してください。』


 ポロが小さく書いた。


『かえったあとも、みる』


 その文字は、魔力灯の返却札にも似ていた。


 外で起きたことは、戻った後にも残る。

 道具は、その記録を持って帰る。


 夕方、北結界石を確認する。


 湿りはさらに少し薄い。

 浅溝の音は安定している。


 す。

 ……り。


 俺はその音を聞きながら、アルバの古い石扉を思った。


 あちらにも息はある。

 紙片を揺らすほどの、細い冷気がある。


 けれど、出口がない。


 北結界石のように、浅溝が見えているわけではない。

 乾いた筋は、まだ道ではない。

 塞がる前の息かもしれない。

 出口になりかけている影かもしれない。


 それを人の手で穴にしてはいけない。


 ミラが夕方の記録を書く。


「北結界石、浅溝安定。湿り薄化。冷え弱い。井戸、水車、畑、異常なし」


 ポロはその下に、今日の言葉を書いた。


『でぐちは、つくらない。さがす』


 夜、アルバへの封書が整えられた。


 厚い。

 だが、必要な厚さだった。


 リーネさんなら、きっと項目を一つずつ掲示し、記録にしてくれる。

 セシアさんなら、細かい違いを書き残してくれる。

 ダリオさんなら、紙片の下端を見逃さない。

 レオルさんなら、観察線を守る。


 そう思えることが、不思議だった。


 昔の俺は、《白狼の剣》の道具を一人で見ていた。

 今は、彼ら自身が道具を見て、記録している。


 変わっている。


 少しずつ。


 工房の看板が鳴った。


 からん。


 井戸の札が鳴る。


 から。


 影車が鳴る。


 こ、と。


 北結界石の浅溝が、細く鳴る。


 す。

 ……り。


 息はある。


 出口があるものもあれば、まだないものもある。


 作ってはいけない出口がある。

 探さなければならない出口がある。


 俺は机の上の水守控えに手を置いた。


 息は道を知る。

 人は道の影を探せ。


 その言葉の意味を、明日もまた聞くことになる。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、アルバから届いた紙片観察の記録を、リント村修理工房で読み解く回でした。


紙片の下端だけが揺れた。

けれど、水音も滴下もなく、乾いた筋も変わっていない。


そこからエイルは、


「息はあるが、出口がまだない」


と判断します。


北結界石には浅溝があり、細く息が抜けています。

しかし古い石扉の乾いた筋は、まだ出口ではありません。


水守控えからは、


・出口なき息は、石を内より冷やす

・冷えを見て穴を穿つな

・息は道を知る

・人は道の影を探せ


という記述が見つかりました。


次は、アルバ側で「出口を探すための観察項目」が使われ始めます。

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