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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第54話 風を見る紙片

 アルバ冒険者組合の掲示板に、新しい札が貼られた。


『乾いた筋に触れない』

『水を掛けない』

『削らない』

『魔力を流さない』

『砂を払わない』

『風を見る時も、遠くから』


 その横には、リント村修理工房から届いた絵がある。


 湿った石床の中に、白い細い筋。

 そこへ水筒を傾ける冒険者に、ばつ印。

 杖から魔力を流す魔法使いに、ばつ印。

 小刀で筋を削ろうとする手に、ばつ印。


 少し離れた場所で紙片を持つ人には、丸印。


 絵の下には、太い字でこう書かれていた。


『ためしに、みずをかけない』

『かぜをみるのも、とおくから』


 リーネはその札を貼り終えると、受付机の上に小さな紙片を並べた。


 薄く、軽く、白い紙。

 湿気を吸いやすいように、油は塗っていない。

 端には小さな糸が結ばれている。


 紙片の横には、短い木棒が一本。


 それを見たダリオが、嫌そうに眉を寄せた。


「これ、俺が持つのか?」


「はい」


 リーネは迷いなく答えた。


「足元を見る係は、あなたが一番よく動きます。紙片もお願いします」


「槍使いなんだけどな」


「今日は紙片係です」


 セシアが少し笑った。


「似合っているわよ」


「どこがだ」


 ダリオは文句を言いながらも、紙片を丁寧に手に取った。


 力任せに扱えば、すぐ破れる。

 彼はそれを見て、少し肩の力を抜いた。


「軽いな」


「軽くなければ、風が分かりません」


 リーネは記録板を三枚差し出す。


「役割を確認します。セシアさんは紋、魔力灯、記録。ダリオさんは紙片と足元。レオルさんは観察線と接触禁止の確認」


 レオルは短く頷いた。


「分かった」


「紙片は観察線の手前で使ってください。乾いた筋の上に近づけてはいけません。扉にも床にも触れません」


 ダリオが紙片を持ったまま言う。


「分かってる。遠くから、だろ」


「はい」


 セシアは自分の魔力灯を確認する。


「出発前、魔力灯外殻曇りなし。留め金浮きなし。袋乾燥」


 レオルも剣帯の金具を見た。


「出発前、曇りなし」


 ダリオは槍袋の底を触る。


「槍袋底、乾燥。紙片、破れなし」


 リーネが頷く。


「記録してください」


「もう書いた」


「よろしいです」


 ダリオは少しだけ得意げな顔をしたが、すぐに紙片を見て表情を戻した。


「これ、破ったら怒られるやつだな」


「破れたことも記録します」


「怖いな、記録」


 そのやり取りの横で、ガルドが掲示を見ていた。


 以前、石扉を押せばいいと言った力自慢の冒険者だ。


「水も駄目、魔力も駄目、掃除も駄目。じゃあ、何ならいいんだ」


 リーネは即答した。


「見ること。記録すること。戻ることです」


「つまらねえな」


「つまらない方法が、安全な場合もあります」


 ガルドは鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。


 ライナが横から言う。


「灯りが曇る場所で遊ぶなってことだろ」


 ボルドも頷いた。


「保存箱を持っていくなら、近づかない方がいい」


 トマとニナは方位石の袋を別々に確かめている。


 以前より、組合の空気は少し変わっていた。


 注意を笑う者はいる。

 面倒だと言う者もいる。


 それでも、自分の道具を見てから迷宮へ入る者が増えている。


 《白狼の剣》の三人は、記録板と紙片を持って第三層へ向かった。


 北回廊の入口は、いつもと変わらない石の道だった。


 水路からは遠い。

 壁に水滴はない。

 足元も乾いている。


 セシアは入口で記録を取る。


『北回廊入口。水音なし。魔力灯曇りなし。槍袋乾燥。剣帯金具曇りなし。紙片揺れなし。』


 ダリオは紙片を木棒の先に結び、胸の高さで持った。


 紙片は動かない。


「今のところ、風なし」


「書いて」


「はいはい」


 ダリオは少し雑に返事をしたが、文字は前より丁寧だった。


 奥へ進む。


 こつ。

 こつ。


 足音が石壁に返る。


 水音はない。


 それなのに、奥へ近づくほど空気は冷えた。


 紙片の端が、ほんの少しだけ震える。


 ダリオが足を止めた。


「今、揺れた」


 セシアが振り返る。


「場所は?」


「北回廊中ほど。水路なし。壁に水なし。紙片の端だけ、少し」


 彼はすぐ記録した。


 レオルは後方を確認する。


 同行の補助員と、許可を受けた記録係以外はいない。

 見物の冒険者は入っていない。


「進む」


 古い石扉が見えた。


 灰色の大きな扉。

 取っ手はない。

 閉じた石壁のように、通路の奥に立っている。


 水滴紋は、前回と同じくらいの濃さだった。


 水音はない。

 滴下もない。


 扉前の石床は、薄く湿った灰色。

 その中に、一本だけ乾いた細い筋が残っている。


 前回と同じ場所。

 扉下部右寄り。

 石床の継ぎ目とは、少しずれている。


 セシアは観察線の手前で止まった。


「水滴紋、前回と同程度。滴下なし。水音なし。乾いた筋、視認可能」


 補助員が記録する。


 レオルは観察線の位置を確認した。


 前回より手前に下げられている。

 線の先へ手を伸ばしても、扉前の床には届かない。


「線、問題なし」


 ダリオは紙片を持つ手を少し上げた。


「ここでいいんだよな」


「観察線の手前」


 セシアが確認する。


「乾いた筋へ近づけないで」


「分かってる」


 ダリオは木棒を胸の高さで持った。

 紙片は白く薄い。

 息を吹きかければ揺れそうだが、彼は顔をそむけて呼吸を止めた。


 紙片は、しばらく動かなかった。


 通路は静かだ。


 水音はない。

 風音もない。

 誰もしゃべらない。


 やがて、紙片の下の端だけが、かすかに揺れた。


 ひら。


 ほんの一度。


 ダリオは目を見開いた。


「揺れた」


 セシアがすぐ聞く。


「どちらへ?」


「こっちじゃない。横……いや、下から押された感じだ」


 レオルが紙片を見る。


「上は動いていない」


「そう。下の端だけ」


 補助員が書く。


『観察線手前。紙片下端のみ微揺れ。方向不明。扉下側からの冷気の可能性。』


 セシアは自分の記録板にも書いた。


『紙片の下端のみ、かすかに揺れる。上部揺れなし。人の呼気なし。水音なし。滴下なし。』


 ダリオが紙片を少し持ち上げようとした。


 その瞬間、レオルが言う。


「高さを変える前に記録」


「あ、そうだった」


 ダリオは手を止めた。


 セシアが時刻と高さを書き込む。

 紙片の位置。

 持った高さ。

 観察線からの距離。

 乾いた筋へ近づけていないこと。


 それを書いてから、ダリオは紙片を少しだけ低くした。


 床へは近づけない。

 観察線の手前。

 膝より上。


 紙片はまた静かになった。


 少し待つ。


 ひら。


 今度も、下の端だけが揺れた。


 ダリオは小さく息をのむ。


「やっぱり下だけ」


 セシアが記録する。


「低位置でも下端微揺れ。揺れは短い。連続しない」


 レオルは扉と足元を見ていた。


「乾いた筋に変化は?」


「見た限りありません」


 セシアは反射鏡を使い、観察線の手前から足元を確認した。


 乾いた筋はそのまま。

 砂粒も動いていない。

 湿った石床の色も、急に濃くなったようには見えない。


「乾いた筋、変化なし。砂粒移動なし。湿り濃度、大きな変化なし」


 ダリオが紙片を見つめる。


「風って感じじゃないな」


「どういうこと?」


「普通の風なら、紙全部が揺れるだろ。でもこれ、下の端だけ、ちょっと押される感じだ」


 セシアは記録した。


『ダリオ所感。通常の風ではなく、下端のみ押されるような微揺れ』


 レオルが言う。


「冷気が漏れているのかもしれない」


「書く?」


「可能性としてだ」


 セシアは頷いた。


『可能性。扉下側または足元付近からの弱い冷気。ただし未確定。』


 その時、後ろで補助員が小さく咳をした。


 紙片が少し揺れる。


 ダリオがすぐに言った。


「今のは咳」


 セシアが記録する。


『補助員の咳により紙片全体が揺れる。前述の下端微揺れとは動きが異なる』


 補助員が申し訳なさそうに頭を下げる。


「すみません」


「いえ。むしろ比較になりました」


 セシアはそう言った。


 普通の空気の動きなら、紙片全体が揺れる。

 扉前で起きた微かな動きは、下端だけだった。


 違いが分かる。


 それも記録になる。


 滞在は短く区切る。


 リント村修理工房からの注意に従い、観察時間を延ばさない。


 セシアは最後に魔力灯を確認した。


「魔力灯外殻曇りなし。留め金内側、冷えあり。起動なし」


 レオルは剣帯を見る。


「金具、曇りなし。ただし冷えあり」


 ダリオは槍袋を確認する。


「袋底、乾燥。紙片、破れなし。端に湿りなし」


 補助員が全体をまとめる。


『扉接触なし。

 床接触なし。

 乾いた筋接触なし。

 水掛けなし。

 魔力投入なし。

 清掃なし。

 紙片による観察のみ。

 観察線越えなし。』


 レオルが頷く。


「戻る」


 ダリオは少しだけ扉を見た。


「気になるけどな」


「だから戻るのよ」


 セシアが言った。


「気になる時ほど、長く見すぎない」


「それもリント村の教えか?」


「たぶんね」


 レオルは静かに言う。


「見続けて変えるな。戻って記録しろ」


 ダリオは肩をすくめた。


「はいはい」


 だが、足はすぐに動いた。


 帰り道でも、ダリオは紙片を持ち続けた。


 北回廊の中ほどでは、紙片が少し揺れる。

 入口近くでは揺れない。


 セシアはそれも記録した。


『北回廊中ほど、微揺れあり。

 入口付近、揺れなし。

 古扉前ほど明確ではない。』


 アルバへ戻った時、紙片は破れていなかった。

 湿ってもいない。


 リーネは受付奥で三人を迎えた。


「報告を」


 セシアが記録板を差し出す。


「水滴紋は前回と同程度。水音なし。滴下なし。乾いた筋に変化なし。紙片の下端のみ、観察線手前で二度かすかに揺れました」


 リーネの目が細くなる。


「紙片全体ではなく、下端のみ?」


「はい。補助員の咳で紙片全体が揺れた時と、動きが違いました」


 補助員が慌てて言う。


「咳の記録もあります」


「確認します」


 リーネは二つの記録を照合した。


 内容は一致している。


 紙片の位置。

 高さ。

 揺れ方。

 観察線を越えていないこと。

 乾いた筋に近づけていないこと。


 すべて書かれていた。


「よろしいです」


 ダリオが少し胸を張る。


「紙片係、ちゃんとやっただろ」


「はい。紙片係として適切です」


「それは褒めた?」


「評価です」


「近いな」


 セシアは小さく笑った。


 レオルはリーネに言った。


「観察線は、今の位置でいい。紙片でも見られる」


「分かりました。次回以降もこの線を維持します」


 リーネは報告書をまとめる。


『風を見る紙片 観察結果』


 一、水滴紋、前回と同程度。

 二、水音なし。

 三、滴下なし。

 四、乾いた筋、視認可能。変化なし。

 五、紙片を観察線手前で使用。

 六、紙片下端のみ、二度微揺れ。

 七、紙片上部に揺れなし。

 八、補助員の咳による全体揺れと動きが異なる。

 九、扉、床、乾いた筋への接触なし。

 十、水掛けなし。

 十一、魔力投入なし。

 十二、清掃なし。

 十三、魔力灯、剣帯金具に冷えあり。曇りなし。

 十四、槍袋底乾燥。

 十五、滞在短時間。


 リーネは最後に、赤い線で囲った。


『扉下側または足元付近から、弱い冷気の可能性。未確定。』


 未確定。


 それが大事だった。


 冷気がある。

 だが、どこからかは分からない。

 乾いた筋と関係するかも分からない。

 扉の向こうからか、床の隙間からか、石そのものからかも分からない。


 分からないものを、分からないまま記録する。


 リーネは新しい掲示を一枚作った。


『古い石扉前で、紙片による観察を実施。

 下端の微揺れあり。

 原因未確定。

 見物、接触、水掛け、魔力使用を引き続き禁止します。』


 その横に、ポロの絵をもう一度貼る。


『かぜをみるのも、とおくから』


 夕方の組合では、また話題になった。


「紙が揺れたって?」


「扉の下から風が出てるのか?」


「なら開くんじゃないのか?」


「馬鹿、開けるなって書いてあるだろ」


「水を掛ければ風の道が分かるんじゃ」


 その言葉を聞いた瞬間、ライナが振り返った。


「水を掛けるなって、今日の一番大きい札に書いてある」


 ボルドも低く言う。


「試しにやるな。試しで壊すやつが一番面倒なんだ」


 トマが方位石の袋を抱えたまま頷く。


「試しに同じ袋に入れたら壊れかけましたから」


 ニナが小さく補足する。


「試しでも駄目です」


 リーネはそれを聞きながら、少しだけ目を伏せた。


 注意を守る声が、組合の中からも出るようになっている。


 それでも、油断はしない。


 古い石扉は、好奇心を呼ぶ。


 だからこそ、掲示と記録と制限を続ける。


 夜、リント村修理工房へ送る封書が作られた。


 紙片の記録。

 セシアの詳細記録。

 ダリオの紙片係記録。

 補助員の比較記録。

 乾いた筋の変化なし。

 水滴紋の変化なし。

 冷気の可能性。

 未確定。


 リーネは本文の最後に書いた。


『紙片の下端のみが、二度かすかに揺れました。

 通常の風とは異なる動きと見られますが、原因は未確定です。

 扉下側または足元付近からの弱い冷気の可能性があります。

 乾いた筋、水滴紋、石床への接触はしていません。

 引き続き、観察線手前からの記録のみ行います。』


 封を閉じる。


 組合の外で夜の鐘が鳴る。


 掲示板横の紙片見本が、入口から入る夜風で少し揺れた。


 その揺れは、全体がふわりと動く普通の風だった。


 今日、第三層の古い石扉前で見たものとは違う。


 リーネはそれを見て、記録板へ一言だけ書き足した。


『通常風では、紙片全体が揺れる。』


 小さな違いを残す。


 その積み重ねが、閉じた扉の息を聞くための、今できる唯一の方法だった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、アルバ側で紙片を使って古い石扉前の風を確認する回でした。


リント村修理工房からの注意を守り、


・乾いた筋に触れない

・水を掛けない

・削らない

・魔力を流さない

・観察線の手前から見る


という条件で、《白狼の剣》が観察を行います。


結果、紙片の下端だけが、二度かすかに揺れました。

通常の風なら紙片全体が揺れる。

けれど、扉前では下端だけが押されるように動いた。


まだ原因は未確定です。

だから、今回も「分からないものを分からないまま記録する」回になりました。

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