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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第53話 乾いた筋の写し

 アルバからの封書が届いた朝、北結界石の細い浅溝は、まだ息をしていた。


 湿り印の内側に残る土は、昨日より少しだけ明るい。

 完全に乾いたわけではない。

 けれど、根元に沈んでいた冷たさは、ほんの少し軽くなっている。


 俺は北結界石へ耳を近づけた。


 りん。

 ……りん。


 石そのものの音は澄んでいる。


 影車の合図を通す。


 こ、と。


 北結界石が応える。


 りん。


 遅れはない。


 次に、北側の石片裏に見つけた細い浅溝へ耳を近づける。


 す。

 ……り。


 昨日より、音は落ち着いていた。


 逃げる音というより、細い息が整っている音だ。

 詰まりを取った直後の緊張が薄れ、石と土の間に細い通り道がなじみ始めている。


「浅溝の音、安定しています」


 ミラが帳面に書く。


「北結界石。湿り範囲やや薄化。冷え軽減。浅溝の抜け音安定」


 ポロが湿り印の木片を確認した。


「広がってない。冷たさも、ちょっとまし」


 ハンナさんが白い布を当て、匂いを確かめる。


「井戸水とは違うけど、昨日ほどこもってないね」


 ガンツさんは溝の周りを見た。


「触るな。今日は聞くだけでいい」


「はい」


 ポロもすぐに言う。


「石の息の道、ひろげない」


「そうだ」


 村の井戸も確認した。

 水は澄んでいる。

 味も変わらない。

 水車は軽く回り、挽き石も昨日の粉と同じ粗さを返した。


 村の暮らしは保たれている。


 その確認を終えてから、俺たちは工房へ戻った。


 机の上には、アルバから届いた封書が置かれている。


 ミラが封を開くと、中から数枚の紙が出てきた。


 リーネさんの報告書。

 セシアさんの描き写し。

 組合補助員の足元図。

 観察線を下げたという記録。

 反射鏡を使った観察手順。


 そして、湿った石床の中に一本だけ残る、乾いた細い筋の写し。


 ポロが思わず身を乗り出した。


「白い線」


 その言い方が、いちばん近かった。


 図の中では、扉前の石床が薄く塗られている。

 湿っている場所は灰色。

 その中に、白く細い筋が一本だけ残っていた。


 扉の下部右寄り。

 石床の継ぎ目とは少しずれている。

 途中で砂粒に隠れ、先は分からない。


 ミラが報告書を読み上げる。


「水滴紋の濃さは前回と同程度。水音なし。滴下なし。扉前の石床に湿りあり。その中に、一本だけ乾いた細い筋を確認。反射鏡による観察。接触なし。清掃なし。砂粒除去なし」


 ガンツさんが低く言った。


「触らなかったのはいい」


「はい」


 俺は図をじっと見た。


 北結界石の浅溝とは違う。


 北の浅溝は、実際に細いくぼみがあった。

 泥を少し取ると、風と冷えが通った。

 音が動いた。


 アルバの石扉前の乾いた筋は、溝とはまだ言えない。

 少なくとも、図からはくぼみがあるように見えない。


 湿っている床の中で、そこだけ湿りが避けている。


 まるで、道になりたいのに、まだ道になっていない線のようだった。


「同じではありません」


 俺は言った。


 ミラが筆を構える。


「北結界石の浅溝とは違いますか」


「はい。北のものは、細い浅溝です。湿気が抜ける通り道がありました。でも、こちらは溝というより、湿りが避けている筋です」


 ポロが首を傾げる。


「湿りが避けてる?」


「そこに水気が乗らない、ということです」


「乾いてるから、いいところ?」


 ガンツさんがすぐに答えた。


「そうとは限らん」


 俺も頷く。


「乾いているから安全、とは言えません。むしろ、そこだけ弱くなっている可能性もあります」


 ポロは目を丸くした。


「乾いてるのに?」


「はい。湿った石の中で、そこだけ乾いているなら、何かが通ろうとしているか、逆に塞がっているかもしれません」


 ミラが記録する。


「古扉前の乾いた筋。北結界石浅溝とは同一ではない。溝ではなく、湿りが避けている筋の可能性。安全とは断定不可」


 ハンナさんが図を見ながら言った。


「濡れた布の中に、変に乾いたところがあると、そこだけ布が傷んでる時があるよ」


「傷みですか」


「うん。湿っているところより、乾いて硬くなったところが先に裂けることもある」


 ガンツさんが頷いた。


「石も似たことがある。乾いて見える筋が、固いとは限らん。そこが脆いこともある」


 ミラはさらに書き足す。


「乾燥筋は弱点の可能性あり。削らない、押さない、湿らせない」


 ポロがすぐに絵を描き始めた。


 湿った灰色の床。

 白い細い筋。

 そこを指でなぞる手に、ばつ印。

 水をかける絵にも、ばつ印。

 削る小刀にも、ばつ印。


『かわいてるからって、さわらない』

『みずをかけない』

『けずらない』


「水をかけない、も必要ですね」


 ミラが言う。


 俺は頷いた。


「はい。濡らして反応を見るのは危険です」


 ガンツさんが腕を組む。


「乾いているなら濡らせば分かる、という馬鹿が出る」


 ハンナさんがため息をついた。


「出そうだね」


 ミラはアルバへの返答用の紙へ、先に注意項目だけ書いた。


『乾いた筋を濡らさないこと。

 削らないこと。

 押さないこと。

 砂を払わないこと。

 反応を見るために魔力を流さないこと。』


 ポロが横から言う。


「息の道かもしれないなら、息ふさいじゃだめ?」


「そうです」


 俺は図を見つめたまま答えた。


「ただ、息の道ともまだ言えません」


「じゃあ、息になりかけ?」


 その言葉に、工房の中が少し静かになった。


 息になりかけ。


 道になりきっていない筋。

 まだ開いていない細い通り。

 閉じた湿気が外へ出ようとして、石の表面に残した乾き。


 ポロの言葉は、時々とても近いところへ届く。


 ミラが記録した。


「ポロ案、息になりかけの筋。正式判断ではないが、状態表現として保留」


 ポロは少し誇らしげにしたが、すぐに自分で言い直した。


「かもしれない」


「はい」


 水守控えをさらに調べることになった。


 ミラは古い帳面を取り出し、机の上に乾いた布を敷いた。

 ページは薄く、端が欠けている。

 強く開けば、紙そのものが裂けそうだった。


 ハンナさんが言う。


「急いでめくらない。紙も休ませながらね」


 ミラは頷き、一枚ずつ慎重にめくる。


 根冷え。

 細き逃げ音。

 小溝。

 風と音の通り。


 その近くのページに、かすれた文字があった。


 ミラの指が止まる。


「乾き筋……」


 俺は息をのんだ。


 ミラはゆっくり読み上げる。


「『湿りの中に白き筋あらば、乾き筋と見よ。乾き筋は、塞がる前の息である。手を入れれば息は乱れ、水を掛ければ道を失う』」


 工房の空気が冷えた。


 乾き筋は、塞がる前の息である。


 ポロが小さく言う。


「息になりかけ、当たってた?」


 ガンツさんが言う。


「近かった。だが、まだ喜ぶな」


「うん」


 ミラは記録する。


「水守控え。湿りの中の白き筋=乾き筋。塞がる前の息。手を入れれば息は乱れ、水を掛ければ道を失う」


 俺はその一文を見つめた。


 手を入れれば息は乱れる。

 水を掛ければ道を失う。


 乾いているから触れる。

 見えにくいから水をかける。

 砂を払う。

 削る。


 そうしたくなる理由は分かる。

 だが、それをすれば、まだ形になりきっていない細い息を壊してしまうかもしれない。


「アルバへ、すぐ返答した方がいいです」


 俺は言った。


 ミラが頷く。


「はい。乾いた筋への接触禁止を強めます」


 ガンツさんも言う。


「弱点の可能性も書け」


 ハンナさんが続ける。


「水をかけるな、は大きく書いておくれ」


 ポロはもう大きな紙を用意している。


『かわいてるからって、みずをかけない』


 文字が大きい。

 ばつ印も大きい。


「これは掲示用ですね」


 ミラが言った。


 ポロは真剣な顔で頷いた。


 昼前、北結界石をもう一度確認した。


 浅溝の音は安定している。


 す。

 ……り。


 湿りの範囲は、朝と変わらない。

 冷たさも増えていない。


 俺は北の浅溝と、アルバの乾き筋の図を頭の中で比べた。


 こちらは、すでに息をしている。

 あちらは、息をしようとしているかもしれない。


 似ている。

 でも違う。


 その違いが重要だった。


「北結界石の浅溝は、通り道が確認できます。古扉前の乾き筋は、通り道になっているか未確認です」


 ミラが記録する。


「浅溝=確認済みの通気。乾き筋=未確認。接触不可」


 ハンナさんが畑の土を触る。


「畑への冷えは来てないね」


 井戸水も変わらない。

 水車も安定している。


 村の生活は、今日も守られている。


 午後、アルバへの返答を書いた。


 ミラはまず、受け取った報告への確認から始める。


『古い石扉前の足元図を確認しました。

 水滴紋の濃さが前回と同程度であること、水音および滴下がないこと、扉や床への接触がなかったことを確認しました。

 接触、清掃、砂粒除去を行わなかった判断は適切です。』


 次に、乾いた筋について書く。


『図にある乾いた細い筋は、当工房で確認した北結界石の浅溝とは同一ではありません。

 北結界石側では実際に浅い通り道を確認しましたが、古い石扉前の筋は、現時点では「溝」ではなく「湿りが避けている筋」と判断します。

 水守控えに「湿りの中に白き筋あらば、乾き筋と見よ。乾き筋は、塞がる前の息である。手を入れれば息は乱れ、水を掛ければ道を失う」との記述がありました。』


 ガンツさんが聞きながら頷く。


「次だ」


 ミラは筆を強めた。


『乾いた筋に触れないでください。

 削らないでください。

 砂を払わないでください。

 水を掛けないでください。

 魔力を流し込まないでください。

 乾いて見える部分が強いとは限らず、弱点である可能性があります。』


 ハンナさんが言う。


「水を掛けない、もう一度」


 ミラは別の行に、太く書いた。


『反応を見るために水を掛けることを禁じます。』


 ポロが大きな絵を添える。


 湿った床の中の白い筋。

 そこへ水筒を傾ける冒険者。

 大きなばつ印。


『ためしに、みずをかけない』


 リント村修理工房の返答は、また少し厚くなった。


 さらに、次の観察方法も提案する。


『次回観察時は、乾いた筋の長さ、周囲の湿りの濃さ、水滴紋との位置関係を記録してください。

 反射鏡による観察を継続してください。

 観察線を越えないでください。

 滞在時間を短く区切ってください。

 可能であれば、風の有無を布や紙片で離れた位置から確認してください。ただし、筋や扉へ直接当てないでください。』


 俺は最後の一文を見て、少し考えた。


「風を見るなら、筋の近くではなく、観察線の手前で十分です」


「はい」


 ミラは追記する。


『風確認は観察線手前で行い、筋へ近づけないこと。』


 ポロが新しい絵を描く。


 遠くで紙片を持つ人に丸。

 筋の上へ紙片を近づける人にばつ。


『かぜをみるのも、とおくから』


 ガンツさんが言った。


「よし」


 その一言で、返答の内容が決まった。


 夕方、北結界石を確認する。


 浅溝の音は、朝と同じくらいだった。


 す。

 ……り。


 湿りは少しずつ薄くなっている。

 ただ、完全には消えない。


 石の音は澄んでいる。


 りん。

 ……りん。


「北結界石、安定。浅溝の抜け音継続。湿りやや薄化」


 ミラが記録する。


 ポロが浅溝を見て言った。


「こっちは、息できてる」


「はい」


「アルバのは、まだ息できてない?」


「できていないかもしれません。できようとしているのかもしれません」


「だから触らない」


「そうです」


 ハンナさんが井戸水の器を片付けながら言う。


「乾いているものを濡らしたくなる気持ちは分かるけどね。布でも粉でも、そうやって駄目にすることがある」


「粉もですか?」


「水を少し足せばまとまると思って、かえって固まりになることがあるよ」


 ポロがすぐに紙へ書く。


『かわいてるからって、みずじゃない』


 ミラがそれを見て、少し笑った。


「今日の工房用ですね」


 夜、机の上には、アルバへの返答と、ポロの掲示絵が並んだ。


 湿った石床。

 白い乾き筋。

 水を掛けようとする手にばつ。

 触れずに描き写す人に丸。

 遠くから風を見る人に丸。


 そして、水守控えの一文。


『乾き筋は、塞がる前の息である。』


 俺はその文字を見つめた。


 息は、強く吹き込めば乱れる。

 塞げば苦しくなる。

 濡らせば道を失う。


 なら、今できることは限られている。


 見守る。

 記録する。

 近づきすぎない。

 触れない。

 次に変わった時、すぐ分かるようにしておく。


 工房の看板が夜風で鳴った。


 からん。


 井戸の札が鳴る。


 から。


 影車が鳴る。


 こ、と。


 その奥に、北結界石の浅溝の音が重なる。


 す。

 ……り。


 アルバの古い石扉の乾き筋にも、いつかこんな音が通るのだろうか。


 それとも、塞がってしまう前に、別の手順が必要なのだろうか。


 まだ分からない。


 だから、今日の返答には大きく書いた。


 ためしに、水をかけない。


 乾いた筋の写しは、ただの白い線ではなかった。


 それは、まだ声にならない息の形だった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、アルバから届いた「乾いた筋」の写しを、リント村修理工房で確認する回でした。


湿った石床の中にある、一本だけ乾いた細い筋。

それは北結界石で見つかった浅溝とは同じではありません。


北結界石の浅溝は、すでに細い通り道として確認できたもの。

古い石扉前の乾いた筋は、まだ溝ではなく、湿りが避けている筋です。


水守控えからは、


「乾き筋は、塞がる前の息である」

「手を入れれば息は乱れ、水を掛ければ道を失う」


という記述が見つかりました。


そのため、触らない、削らない、水を掛けない、魔力を流さない。

記録だけを続ける方針になります。

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