第52話 扉前の足元
リント村修理工房から届いた封書を読んだリーネは、すぐに掲示板横の注意札を増やした。
『第三層北回廊奥 古い石扉前』
その下に、太い文字が並ぶ。
『石片を動かさない』
『苔を削らない』
『砂を払わない』
『勝手に掃除しない』
『溝を作らない』
『足元も記録する』
隣には、ポロが描いた新しい絵が貼られていた。
石扉の前で、冒険者が良かれと思って苔を払おうとしている。
その手に大きなばつ印。
砂を蹴ってどかす足にも、ばつ印。
距離を取って紙に描き写している人には、丸印。
絵の下に、大きく書かれている。
『うごかすまえに、きろく』
リーネはその札の端をしっかり押さえた。
組合の掲示板には、もう何枚もリント村修理工房の紙が並んでいる。
魔力灯。
方位石。
保存箱。
携帯結界灯。
古い石扉。
最初は笑われていた絵入りの紙も、今では足を止めて読む者が増えていた。
それでも、油断はできない。
古い石扉を見に行きたがる冒険者は、まだいる。
開かない扉。
濃くなる水滴紋。
水音のない湿気。
そういうものは、好奇心を刺激する。
リーネは受付机へ戻り、今日の観察許可者を確認した。
《白狼の剣》。
レオル。
セシア。
ダリオ。
それに組合から、迷宮記録係の補助員が一人同行する。
ただし、作業は観察のみ。
扉にも床にも触れない。
勝手な清掃もしない。
リーネは三人が来る前に、観察用の道具を机に並べた。
記録板。
乾いた布。
通気袋。
小さな反射鏡。
細い測り紐。
白墨。
白墨は床へ印をつけるためではない。
観察線の手前に置き、そこから先へ進まないための目印に使う。
反射鏡は、扉前の足元を見るためだ。
近づかず、触れず、角度を変えて観察する。
ダリオが組合へ入ってきて、道具を見た瞬間に顔をしかめた。
「今日は掃除道具じゃないんだよな?」
「掃除はしません」
リーネは即答した。
「反射鏡と記録板です。足元を見ますが、触れません」
「分かってるって」
ダリオは槍袋を外し、底を確認した。
「乾いてる。昨日から干した」
「記録してください」
「今?」
「今です」
ダリオは少し肩を落としながらも、記録板に書いた。
『出発前。槍袋底、乾燥。予備布あり。』
セシアは魔力灯の留め金を確認している。
外殻を開けない。
押さない。
見るだけ。
「魔力灯、曇りなし。留め金浮きなし」
彼女は自分で記録した。
レオルは剣帯の金具を乾いた布で拭き、拭いた布を別袋に入れた。
「出発前、曇りなし」
リーネが頷く。
「よろしいです」
ダリオが小さく笑った。
「褒めた?」
「確認です」
「知ってた」
セシアは掲示板の新しい札を見て、少し表情を引き締めた。
「足元も記録する、ですね」
「はい。リント村修理工房の記録では、北結界石の北側に細い浅溝が見つかったそうです。ただし、第三層の古い石扉前にも同じものがあるとは限りません」
「同じと決めない」
ダリオが言う。
「だいぶ覚えましたね」
リーネは淡々と言った。
「褒めてる?」
「確認です」
「やっぱり」
レオルは掲示の文字を見つめていた。
『勝手に掃除しない』
彼は短く言った。
「見るだけだ」
その声には、以前のような苛立ちはない。
やるべきことを確かめる声だった。
第三層北回廊へ入ると、空気は前回よりも少し冷たかった。
水路沿いではない。
壁に水も見えない。
それなのに、奥へ進むほど、肌の上に薄い冷気が重なる。
セシアは入口で一度、記録を取った。
『北回廊入口。水音なし。魔力灯曇りなし。槍袋底乾燥。剣帯金具曇りなし。』
進む。
足音が石の壁に当たって返ってくる。
こつ。
こつ。
水の音はない。
それが、かえって不自然だった。
やがて、古い石扉が見えた。
灰色の大きな扉。
取っ手のない、閉じた石の壁のような扉。
中央より少し上の紋は、前回と同じように見えた。
水滴。
輪。
歯車のような欠けた線。
セシアは観察線の手前で止まり、じっと見た。
「水滴紋の濃さは、前回と同程度」
記録係の補助員が横で書く。
「滴下なし。水音なし。輪と歯車部分の変化少」
セシアも同じ内容を、自分の記録板に書いた。
ダリオは足元を見る。
「床、湿ってるように見えるな」
扉前の石床は、全体的に少し暗かった。
濡れているほどではない。
しかし、乾いた石の色ではない。
前回も湿りはあった。
だが、今日は床に目を向けるため、細かな違いがよく見える。
レオルが反射鏡を手にした。
「これを使う」
彼は観察線の手前に膝をつき、反射鏡だけを前へ傾けた。
鏡は床へ触れない。
鏡の柄も観察線を越えない。
セシアが横から角度を調整する。
「もう少し下」
「こうか」
「そこで止めて」
鏡の中に、扉前の石床が映った。
石床の端。
扉のすぐ下。
湿った灰色の中に、一本だけ細い線が見えた。
妙に乾いている。
周囲の石は湿って暗いのに、その線だけが薄く白い。
水が流れた跡ではない。
削れた溝でもない。
むしろ、湿気が避けて通っているような乾いた筋だった。
セシアが息を止める。
「……乾いた筋がある」
ダリオが覗き込む。
「どこだ?」
「扉の下、右寄り。石床の継ぎ目に沿っているように見えるけど、完全には重なっていない」
レオルは鏡を動かさずに言った。
「幅は細い」
補助員が測り紐を手にしたが、すぐに止まった。
触れない。
近づかない。
測り紐を床に伸ばすことも、今日は禁止だ。
セシアは自分の目でおおよその位置を記録した。
『扉下部右寄り。湿った石床の中に、細い乾いた筋あり。
石床の継ぎ目と完全には一致せず。
幅は小指より細いと思われる。
接触なし。測定なし。反射鏡による観察。』
ダリオが低く言った。
「湿ってる中に、乾いてる筋か」
「リント村の北結界石では、細い抜け音の通り道があったそうです」
セシアが答える。
「でも、これが同じとは限らないわ」
「似てる、まで」
「そう」
レオルは鏡の角度を変えず、じっと足元を見ていた。
「筋の周りだけ、石の色が違う」
「濃い?」
「いや。筋そのものは薄い。周囲が濃い。湿りが筋の外側に寄っているように見える」
補助員が記録する。
『乾いた筋の両側、湿り濃い。筋内部は乾いた色。』
その時、後ろで誰かが小さく言った。
「そこを払えば見えるんじゃないか」
同行していた別小隊の若い冒険者だった。
今日は接触許可のない見学ではなく、北回廊手前までの巡回で通りかかっただけの者だ。
だが、扉の前で足を止めている。
ダリオが振り返る。
「払わない」
「でも、砂が乗ってるだけなら」
「払わない」
今度はレオルが言った。
声は静かだった。
しかし、通路に響いた。
「掃除もまだしない。そう書いてあった」
若い冒険者は口を閉じた。
セシアはそのやり取りも記録した。
『砂または堆積物除去案あり。制止。除去なし。』
ダリオが苦笑する。
「それも書くんだな」
「書くわ」
補助員も同じ内容を書いている。
記録は、起きたことだけではない。
起きそうになって止めたことも残す。
それが、次の事故を防ぐ。
セシアはそう考えながら、扉前の足元をさらに見た。
乾いた筋は、扉の下部から少しだけ手前へ伸びている。
途中で途切れているようにも見える。
その先には、小さな砂粒がいくつか乗っている。
砂粒を払えば、続きが分かるかもしれない。
けれど、払わない。
今日の目的は、そこではない。
セシアは記録板に書く。
『乾いた筋は途中で途切れて見える。先に砂粒あり。除去せず。』
ダリオが槍袋を確認した。
「まだ乾いてる」
レオルは剣帯金具を見る。
「曇りなし」
セシアは魔力灯を見た。
「外殻曇りなし。留め金内側、冷えあり」
冷えはある。
だが、前回ほど道具に変化は出ていない。
滞在時間を短くしていることも関係しているのかもしれない。
補助員が時刻を確認する。
「観察開始から、まだ短いです」
セシアが頷く。
「今日はここまでにしましょう。長く留まると、道具の状態が変わります」
ダリオは少しだけ名残惜しそうに乾いた筋を見た。
「気になるけどな」
「だから記録して帰るのよ」
「分かってる」
レオルは反射鏡をゆっくり戻した。
鏡も床に触れない。
観察線を越えない。
補助員が最後に確認する。
「扉接触なし。床接触なし。砂、苔、石片、堆積物への接触なし。魔力投入なし。打撃なし」
「はい」
セシアが答える。
レオルも頷いた。
ダリオは槍袋をもう一度確認する。
「袋、乾燥。今のところ湿りなし」
北回廊を離れる時、セシアは一度だけ振り返った。
古い石扉は、閉じたままだ。
水滴紋は前回と同じ濃さ。
水音はない。
滴る水もない。
ただ、足元の湿った石床に、一本だけ乾いた細い筋がある。
湿っている場所に、乾いた線。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
分からないからこそ、動かさずに帰る。
アルバへ戻る道で、ダリオがぽつりと言った。
「昔の俺なら、たぶん払ってた」
セシアが横を見る。
「砂を?」
「ああ。ちょっとだけならいいだろって」
レオルが短く言う。
「今はやらなかった」
「まあな」
ダリオは槍袋の紐を結び直した。
「やらないの、けっこう疲れるな」
「分かるわ」
セシアは記録板を胸に抱えた。
「知りたい時ほど、手を出さずに見るのは疲れる」
レオルは前を見たまま言った。
「だが、壊してからでは遅い」
二人は少し驚いて、レオルを見た。
レオルは目をそらさなかった。
「そうだろ」
ダリオがにやりと笑う。
「今の、エイルっぽいな」
レオルは眉を寄せた。
「うるさい」
だが、怒ってはいなかった。
組合へ戻ると、リーネはすぐに報告を受け取った。
受付奥の記録机には、第三層の地図が広げられている。
北回廊奥の古い石扉前には、赤い印が増えていた。
セシアは記録板を差し出す。
「水滴紋の濃さは前回と同程度。水音なし。滴下なし。足元に乾いた細い筋を確認しました」
リーネの目が鋭くなる。
「乾いた筋?」
「はい。湿った石床の中に、一本だけ。反射鏡で観察しました。接触、測定、清掃はしていません」
「よろしいです」
補助員も同じ内容の記録を提出する。
リーネは二つを照合した。
記録が一致している。
彼女は新しい項目を作った。
『扉前足元観察』
一、水滴紋濃度、前回と同程度。
二、水音なし。
三、滴下なし。
四、扉下部右寄り、湿った石床に乾いた細い筋あり。
五、石床継ぎ目と完全には一致せず。
六、乾いた筋の両側は湿り濃い。
七、筋の先に砂粒あり。除去なし。
八、反射鏡による観察。
九、床接触なし。
十、砂、苔、石片、堆積物の移動なし。
十一、魔力投入なし。
十二、短時間滞在。
十三、砂除去案あり、制止済み。
リーネは最後の項目に少しだけ筆圧を強めた。
「制止済みも残します」
ダリオが言う。
「やっぱりそこ、大事?」
「大事です。次に同じことを言う方が出た時、前例として使えます」
「記録、強いな」
「はい」
リーネは当然のように答えた。
レオルは反射鏡を返しながら言った。
「観察線を、もう少し手前にした方がいい」
リーネが顔を上げる。
「理由は?」
「乾いた筋が見えたことで、近づきたがる者が増える。今の線では、手を伸ばせば扉前の床に届きそうに見える」
ダリオが頷く。
「分かる。俺もちょっと気になった」
セシアも言う。
「反射鏡でも見えます。線は下げても観察できます」
リーネはすぐに記録した。
「観察線を手前へ変更。反射鏡による観察を標準化」
迷宮記録係の老職員も頷いた。
「よかろう。見えるなら近づかなくてよい」
リーネは掲示用の注意にも追記した。
『古い石扉前の観察線を手前へ変更します。
反射鏡を用いた観察のみ許可。
足元の砂、苔、石片を動かさないこと。』
その横に、ポロの絵札をもう一枚貼る。
『そうじも、まだしない』
夕方の組合では、また少しざわめきが起きた。
「乾いた筋?」
「湿ってるのに乾いてるって、どういうことだ」
「逃げ道じゃないのか?」
「だから勝手に触るなって」
「見るだけならいいのか?」
「許可がないと駄目だろ」
リーネは受付机から告げる。
「古い石扉前は、見物場所ではありません。観察許可者以外の立ち入りは制限します」
不満の声は出たが、以前ほど強くはなかった。
ライナが魔力灯の袋を揺らしながら言う。
「近づいて灯りが曇ったら面倒だぞ」
ボルドも言う。
「湿気は食料にも悪い。用がないなら行くな」
トマとニナは方位石の袋を確認しながら頷いた。
「針が重くなる場所は避けたい」
実際に困った者の言葉は、掲示よりも効くことがある。
リーネはそれを見て、少しだけ息をついた。
夜、リント村修理工房へ送る封書をまとめる。
水滴紋の濃さ。
扉前の足元。
乾いた細い筋。
反射鏡による観察。
接触なし。
清掃なし。
観察線の変更。
さらに、セシアの描き写しと補助員の足元図を添える。
乾いた筋は、細く、短く、途中で砂粒に隠れている。
湿った石床の中で、そこだけ白く残っている。
リーネは本文の最後に書いた。
『当該乾燥筋が、貴工房で確認された「細い浅溝」または「細き逃げ音」に関係するかは判断できません。
現時点では、足元の変化として記録のみ行っています。
除去、清掃、接触はしていません。』
筆を置いた後、彼女は少し考え、追記した。
『観察に当たり、接触や清掃を提案する声がありましたが、制止されています。
今後、観察線を手前へ下げ、反射鏡を用いた観察を基本とします。』
封を閉じる。
組合の外では、夜の鐘が鳴った。
掲示板横の木箱には、絵入り点検表と注意札が並んでいる。
『うごかすまえに、きろく』
『そうじも、まだしない』
その言葉の通り、古い石扉の足元は、動かされずに残された。
湿った石床の中に、一本だけ乾いた筋を抱えたまま。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、アルバ側で古い石扉前の足元を観察する回でした。
リント村修理工房からの注意に従い、
・石片を動かさない
・苔を削らない
・砂を払わない
・勝手に掃除しない
・反射鏡で見る
・記録だけする
という方針で、《白狼の剣》が第三層北回廊奥を確認します。
水滴紋は前回と同程度。
水音も滴下もありません。
けれど、湿った石床の中に、一本だけ乾いた細い筋が見つかりました。
それが何なのかは、まだ分かりません。
だからこそ、動かさず、触れず、記録だけをリント村へ送ります。




