第49話 水滴紋が濃くなる
リント村修理工房からの返答が、アルバ冒険者組合に届いたのは、朝の鐘が二度鳴った後だった。
受付机で封を開けたリーネは、まず本文を読み、次に添えられていた絵を見た。
古い石扉。
大きな槌で叩く手に、ばつ印。
棒でこじ開けようとする絵に、ばつ印。
杖から魔力を流し込む絵にも、ばつ印。
その横には、大きな文字で書かれている。
『たたかない』
『こじあけない』
『まほうをながしこまない』
『かわったら、かく』
リーネは眼鏡を押し上げ、小さく息を吐いた。
「分かりやすいですね」
隣にいた迷宮記録係の老職員が、絵を覗き込んで笑う。
「子どもの絵だが、これなら馬鹿でも分かる」
「分からない方が出ないよう、掲示します」
リーネはすぐに掲示板横へ向かった。
依頼札の隣。
点検表見本の木箱の上。
そこに、新しい注意書きを貼る。
『第三層北回廊奥 古い石扉について』
一、叩かないこと。
二、こじ開けないこと。
三、魔力を流し込まないこと。
四、表面の紋、湿気、道具の曇りを記録すること。
五、変化があれば組合へ報告すること。
さらに、ポロの絵入り札をその横に貼った。
絵の力は強かった。
文字だけなら読み飛ばす者も、槌と杖に大きなばつ印がついているのを見ると、足を止めた。
「またリント村の紙か?」
冒険者の一人が言う。
「今度は扉を叩くな、だとよ」
「叩けば開くかもしれないだろ」
別の男が笑った。
その瞬間、受付机からリーネの声が飛んだ。
「開きません。開いたとしても、責任は取れません。叩いた者は組合規定違反として処分します」
男は顔をしかめた。
「冗談だよ」
「古い石扉の前では、冗談で槌を振らないでください」
組合の空気が少し引き締まった。
ちょうどその時、《白狼の剣》の三人が入ってきた。
レオル。
セシア。
ダリオ。
三人とも、今日は第三層北回廊奥の確認に向かう予定だった。
セシアは掲示を読み、ゆっくり頷く。
「リント村から返答が来たのね」
「はい」
リーネは写しを一枚差し出した。
「古い石扉への接触禁止、魔力投入禁止。変化の記録をお願いします」
ダリオが絵入り札を見て、少し笑った。
「ポロの絵、またでかくなったな」
「遠くから見やすくするためだそうです」
「分かりやすい。俺でも分かる」
「分かってください」
リーネは冷静に言った。
レオルは掲示の文字を黙って見ていた。
『たたかない』
『こじあけない』
『まほうをながしこまない』
彼は短く言う。
「守る」
その一言だけだったが、以前の彼を知る者なら少し驚いたかもしれない。
セシアは記録用の板と紙を受け取った。
「確認するのは、紋の濃さ、湿気、道具の曇り、時刻、ですね」
「はい。扉そのものには触れないでください。可能なら、距離を取って見てください」
「分かりました」
ダリオは槍袋を確認する。
「袋は乾いてる。予備布もある。濡れたら、その場で記録して分ける」
リーネが頷く。
「よろしいです」
レオルは剣帯の金具を乾いた布で拭き、布を別袋に入れた。
曇った場合に、どの布で拭いたか分かるようにするためだ。
セシアがそれを見て、少し微笑む。
「準備が丁寧になったわね」
「必要だからだ」
レオルはそれだけ言った。
三人が組合を出ようとした時、別の冒険者が声をかけてきた。
「おい、石扉を見るなら俺たちも行く。開けられるか試した方が早いだろ」
大柄な男だった。
名はガルド。
力自慢で、迷宮の古い箱や扉を見ると、まず叩いて確かめる癖がある。
リーネの目が鋭くなる。
「ガルドさん。掲示を読んでください」
「読んだ。だから、叩かなきゃいいんだろ? 少し押すくらいなら」
「押すのも禁止です」
「面倒だな」
ガルドは肩をすくめた。
「扉なんて、開けてみなきゃ分からないだろ」
レオルが一歩、前に出た。
「触るな」
静かな声だった。
ガルドは眉を上げる。
「何だ、剣士様が門番か?」
「そうだ」
レオルは短く答えた。
ダリオが少し驚いた顔をした。
セシアも目を瞬かせた。
レオルは続ける。
「今は、開ける依頼ではない。見る依頼だ。触るなと言われているものに触るなら、同行は断る」
ガルドの顔に不満が浮かぶ。
だが、周囲の冒険者たちの視線が集まっていた。
ライナが腰の魔力灯袋を叩きながら言う。
「やめとけ。リント村の注意、今のところ外れてないぞ」
ボルドも保存箱用の紙を手にしていた。
「無理にやると、後で余計に面倒になる」
トマが小さく言う。
「方位石も、指で戻したら悪化しましたし」
ガルドは舌打ちした。
「分かったよ。行かねえ」
リーネは静かに告げる。
「第三層北回廊奥への確認は、組合許可を受けた者のみとします。無許可で石扉に接触した場合、迷宮出入り停止もあります」
今度は、誰も笑わなかった。
第三層へ向かう通路は、いつもより少し静かだった。
《白狼の剣》の三人は、水路沿いを避けて進む。
北回廊は、石の壁が続く細い道だ。
普段なら乾いている場所で、足音も軽く響く。
しかし今日は、奥へ進むほど空気が重くなっていった。
水音はない。
ぽた、と落ちる音もない。
それなのに、肌に触れる空気は冷たい。
ダリオが槍袋の底を軽く触る。
「まだ濡れてない」
セシアが記録板に書く。
『北回廊入口。槍袋乾燥。魔力灯外殻曇りなし。剣帯金具曇りなし。』
レオルは壁に手を触れないよう、少し距離を取って進む。
やがて、古い石扉が見えた。
北回廊の奥。
行き止まりのように立つ、灰色の大きな扉。
扉は閉じている。
隙間は見えない。
取っ手もない。
ただ、中央より少し上に、削れた紋がある。
水滴。
輪。
歯車のような欠けた線。
セシアは息を止めた。
「前より、濃い」
ダリオが首を伸ばす。
「どこが?」
「水滴の部分だけ」
彼女は扉に近づきすぎないよう、床の線で止まった。
組合が昨日つけた観察用の印だ。
そこから先へは進まない。
セシアは記録板に、扉の紋を描き写した。
昨日見た時、水滴に似た紋は薄かった。
欠けた線の中に、かろうじて形が残っている程度だった。
今日は違う。
水滴の縁だけが、石の中から湿りを吸ったように濃くなっていた。
濡れて光っているわけではない。
水が垂れているわけでもない。
けれど、そこだけ石の色が深い。
輪と歯車のような部分は、まだ乾いた灰色のままだ。
「水滴紋周辺のみ色濃く変化。水滴なし。滴下なし。輪、歯車部分に変化少」
セシアは一つずつ声に出して記録した。
ダリオが槍の石突きを床に触れないよう持ち上げる。
「水音、ないよな?」
「ない」
レオルが答える。
彼は剣帯の金具を見た。
まだ曇っていない。
だが、扉の前に立つと、金具が冷える感覚がある。
「冷えが強い」
レオルが言う。
セシアは記録する。
『扉前、冷気増。水音なし。剣帯金具、現時点で曇りなし。』
彼女は魔力灯を取り出した。
ただし、起動しない。
外殻と留め金を見るだけだ。
「魔力灯、外殻に曇りなし。留め金内側、少し冷たい」
ダリオが自分の槍袋を確認する。
「袋底、まだ乾いてる」
その時、後ろの通路から足音がした。
別の小隊だった。
許可を得て近くまで来たのだろう。
しかし、その中の一人が、扉を見た途端、声を上げた。
「本当に濡れてるじゃないか。少し削れば分かるんじゃないか?」
その手が、腰の短い工具へ伸びた。
レオルが振り返る。
「やめろ」
男は手を止めた。
「削るだけだ」
「触るな」
「お前に命令される筋合いはない」
男が一歩踏み出そうとする。
ダリオが槍を横にして、床の観察線の前へ出した。
「ここから先、駄目だって言われてるだろ」
「お前ら、いつから組合の犬になった?」
ダリオの顔が一瞬だけ強張った。
しかし、彼は笑わなかった。
「道具を壊してから後悔するより、犬の方がましだな」
セシアが静かに言う。
「この扉は、開ける対象ではありません。記録する対象です。触った場合、組合へ報告します」
男は舌打ちした。
「面倒な連中だな」
「面倒で済むなら安い」
レオルは短く言った。
その声には、剣を抜く気配はなかった。
だが、退く気配もなかった。
小隊のリーダーらしい女性が、男の肩を掴んだ。
「やめなさい。組合の掲示を見たでしょう」
「でもよ」
「リント村の点検表を笑っていた人たちが、後でどうなったか見たでしょう」
男は口を閉じた。
小隊は観察線の手前で止まり、扉には触れなかった。
セシアはそれも記録した。
『他小隊一名、接触しようとする。制止。接触なし。』
ダリオが小さく笑う。
「そこまで書くのか」
「書くわ」
「怖いな、記録」
「必要よ」
その言い方は、少しだけミラに似ていた。
扉の前での確認は、長くは続けなかった。
リント村修理工房からの注意にも、長時間留まらないことが書かれていた。
湿気の影響で道具が変わるなら、観察そのものも短く区切る必要がある。
セシアは時刻を記録する。
『観察開始、第二鐘後半。
観察終了、第三鐘前。
滞在短時間。
扉接触なし。
魔力投入なし。
打撃なし。』
最後に、距離を取ったまま、彼女は水滴紋をもう一度見た。
濃くなっている。
だが、音はない。
水は落ちていない。
それでも、石は確かに汗をかき始めているように見えた。
アルバへ戻るまで、三人は何度も自分の道具を確認した。
北回廊を離れた後、ダリオの槍袋の底に、ほんの少し湿りが出ていた。
前回ほどではない。
だが、乾いた通路を通ってきたにしては不自然だった。
「出た」
ダリオは予備布で軽く押さえた。
「時刻」
セシアがすぐに聞く。
「第三鐘の少し後」
「場所」
「北回廊を出た曲がり角。水路なし」
「状態」
「袋底に少し湿り。壁接触なし」
セシアは記録し、予備布に小さな札を結ぶ。
『槍袋底湿り。北回廊後。乾燥前。』
レオルは剣帯金具を見る。
薄く曇っていた。
彼は布で拭き取る前に、セシアへ見せる。
「曇りあり」
セシアが記録する。
「拭く布を分けて」
「ああ」
レオルは用意していた布で金具を拭いた。
布は別の通気袋に入れる。
以前なら、こんな作業はしなかった。
曇りなど、軽く拭いて終わりだった。
今は違う。
曇った場所。
時刻。
布。
道具。
全部、残す。
それが、次に誰かを助けるかもしれないからだ。
組合へ戻ると、リーネはすぐに三人を受付奥の記録机へ通した。
「報告を」
セシアが記録板を渡す。
「水滴紋の周辺だけ、前回より濃くなっています。水音はありません。滴下もありません。輪と歯車部分はほぼ変化なし」
「接触は?」
「なし」
「魔力投入は?」
「なし」
「打撃は?」
「なし」
「他小隊の接触は?」
「未遂が一件。制止しました」
リーネの眼鏡が光った。
「名前は?」
セシアは少し迷ったが、同行小隊名を記録した。
ただし、実際の接触はなかったことも添える。
リーネは頷く。
「注意記録として残します」
ダリオが通気袋を差し出した。
「槍袋底の湿りを拭いた布。前みたいに密封してない」
「確認します」
レオルも布を差し出す。
「剣帯金具の曇りを拭いた布」
リーネは二つを分けて受け取り、札を確認した。
「時刻、場所、状態、道具。記載あり。よろしいです」
ダリオが少し得意げにする。
「褒めた?」
「確認です」
「やっぱりな」
リーネはすぐに報告書を作り始めた。
『第三層北回廊奥 古い石扉観察報告』
一、水滴紋周辺のみ濃度増。
二、滴下なし。
三、水音なし。
四、輪、歯車状部分の変化少。
五、扉接触なし。
六、打撃なし。
七、魔力投入なし。
八、短時間滞在。
九、観察後、槍袋底に軽い湿り。
十、剣帯金具に曇り。
十一、湿り布二点を通気保管。
十二、接触未遂一件。制止済み。
リーネは最後に、赤い線でこう書いた。
『水滴紋、濃くなる。』
その一文を見つめて、彼女はしばらく黙った。
リント村修理工房から届いた水守控えの写しには、こうあった。
閉じた水は石を汗ばませる。
古い石扉の水滴紋が濃くなっている。
水音はない。
水滴もない。
だが、石が汗をかき始めているのだとしたら。
リーネは、余計な推測を報告書に入れないよう気をつけた。
書くべきことは、観察された変化だ。
ただし、注意は強める必要がある。
彼女は掲示に新しい紙を追加した。
『古い石扉の水滴紋に変化あり。
許可のない接近、接触、打撃、魔力使用を禁じます。
不調が出た道具は、乾かす前に状態を記録してください。』
夕方の組合はざわついた。
「本当に変わってるのか」
「水滴ってことは、水が出るのか?」
「開く前触れじゃないのか?」
「だから触るなって書いてあるだろ」
「でも、見たいよな」
声が重なる。
リーネは受付机から立ち上がった。
「古い石扉を見物対象にしないでください。現在、北回廊奥への不要な立ち入りを制限します」
文句が出た。
しかし、リーネは揺れなかった。
ライナが魔力灯袋を持ちながら言う。
「やめとけ。湿気だけで道具が曇るんだぞ。見物で行って灯りが死んだら馬鹿らしい」
ボルドも頷く。
「保存箱を持っていくやつは、特に行くな。食料が泣く」
トマとニナも方位石の袋を確認している。
「北回廊奥は、今は避けよう」
「針が重くなるなら危ない」
冒険者たちは、不満を残しつつも少しずつ引いた。
点検表を見て、実際に自分の道具を直した者たちの言葉には重みがあった。
夜、リーネはリント村修理工房へ送る封書をまとめた。
水滴紋の濃度変化の記録。
セシアの描き写し。
ダリオの槍袋湿り布。
レオルの剣帯金具曇り布。
現場滞在時刻。
他小隊の接触未遂。
組合側の立ち入り制限。
封書の最後に、リーネはこう書いた。
『水音はありません。
滴下もありません。
しかし、水滴紋周辺だけが濃くなっています。
石扉は、まだ閉じています。』
筆を置く。
外では、アルバの夜の鐘が鳴った。
組合の掲示板横では、ポロの絵入り注意札が揺れている。
『たたかない』
『こじあけない』
『まほうをながしこまない』
『かわったら、かく』
その文字を見て、リーネは静かに頷いた。
古い石扉は、まだ開かない。
だが、石の表面では、水滴の紋だけが少しずつ濃くなっている。
閉じた水が、内側から扉を汗ばませているかのように。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、アルバ側で古い石扉の変化が確認される回でした。
リント村修理工房から届いた注意に従い、
・叩かない
・こじ開けない
・魔力を流し込まない
・変化を記録する
という条件のもと、《白狼の剣》が第三層北回廊奥を確認します。
結果、水音も水滴もないのに、水滴紋の周辺だけが濃くなっていました。
また、槍袋の湿り、剣帯金具の曇りも再確認されています。
それでも、扉には触れない。
変化を見つけても、まず記録する。
エイルたちの工房で作られた考え方が、アルバ側でも少しずつ守られるようになっています。




