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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第47話 北結界石の湿り

 翌朝、北の結界石の根元は、まだ湿っていた。


 夜露なら、朝の光が当たれば少しずつ薄くなる。

 畑の土も、石垣の苔も、井戸道の石畳も、同じように朝を受けて乾いていく。


 けれど、北の結界石の根元だけは違った。


 石の根元を囲む土が、指二本分ほど暗い。

 濡れて光るほどではない。

 泥になるほどでもない。


 ただ、乾かない。


 それが一番気になった。


「昨日と同じ場所です」


 ミラが帳面を開いた。


「北結界石根元、北東側。湿り残りあり。範囲は指二本分ほど」


 ポロはしゃがみ込みそうになって、途中で止まった。


「触っていい?」


 ガンツさんがすぐに言う。


「まだだ。まず見る」


「見る、聞く、触るはあと」


 ポロは自分で順番を言った。


「そうだ」


 俺は北の結界石に耳を近づけた。


 石そのものの音は、澄んでいる。


 りん。

 ……りん。


 割れた音ではない。

 濁った音でもない。

 結界石の内側に大きな異常はない。


 けれど、根元の土から、かすかな鈍りが返ってきた。


 し。

 ……す。


 水の音というには弱い。

 土が冷えた音に近い。

 ただ、普通の朝露とは違っていた。


「石は安定しています。でも、根元の土だけ音が重いです」


 ミラが記録する。


「石音安定。根元土のみ湿り音あり」


 ハンナさんが白い布を取り出した。


「少しだけ土に当ててみるよ。掘らない。こするだけ」


 ガンツさんが頷く。


「表面だけだ」


 ハンナさんは布の端を、湿った土に軽く当てた。

 押し込まない。

 土を崩さない。


 布に、うっすら水気が移る。


 彼女はそれを鼻へ近づけた。


「井戸の水とは違うね」


「匂いますか?」


「匂うというほどじゃない。でも、井戸水のすっとした感じじゃない。石の下にこもった冷たさがある」


 俺も布へ耳を近づけた。


 布から音がするわけではない。

 それでも、そこに移った水気の気配を聞く。


 し。

 ……り。


 井戸の水脈石の音とは違う。


 井戸の音は、さら、と流れて、りん、と澄む。

 この湿りは、流れずに残っている。


 アルバの湿気記録に書かれていた、古い石扉前の空気。

 水路はないのに、金具が曇る。

 壁に水は見えないのに、袋の底だけ湿る。


 それに、少しだけ似ている。


 だが、同じとは言えない。


「似ています」


 俺は慎重に言った。


 ミラが筆を止める。


「何にですか?」


「アルバの古い石扉前の記録にある湿り方です。水が流れているのではなく、石の近くに湿気が残る感じが似ています」


「同じですか?」


「分かりません。似ているだけです」


 ガンツさんが頷いた。


「それでいい。似ている、までだ」


 ミラは書いた。


「北結界石根元の湿り。第三層古扉前の湿気記録と類似。ただし同一とは断定不可」


 ポロが小さく繰り返す。


「似てるだけ。同じって言わない」


「はい」


 それも、工房の大事な手順になりつつあった。


 次に、影車からの合図を確認する。


 水車小屋の裏から、細い水を流す。

 影車が小さく動く。


 こ、と。


 北の結界石が応える。


 りん。


 音は遅れていない。

 影車からの合図は届いている。


 ミラが記録する。


「影車合図、遅れなし。北結界石応答、安定」


 ガンツさんは石の周りを見て回った。


「苔は増えていない。金具の浮きもない。石の座りも悪くない」


 彼は根元に手を伸ばしかけて、止めた。


「掘らん」


「掘らないんですか?」


 ポロが聞く。


「今掘れば、座りを崩すかもしれん。湿りの場所も散る。まず表面の変化を見る」


 ミラが書く。


「掘削なし。表面観察継続」


 ハンナさんは、湿りの範囲を小さな木片で囲うようにした。


「踏まないように目印を置こう。村の子が走って崩したら困るからね」


 ポロがすぐに札を描いた。


『ここ、ふまない』

『石のねもと、さわらない』


 ミラがそれを見て頷く。


「北結界石周辺注意札として使いましょう」


「大きく描く?」


「はい。遠くから分かるように」


 ポロは少し誇らしげに頷いた。


 北結界石の確認を終えたあと、俺たちは井戸へ向かった。


 比較するためだ。


 井戸水は今日も澄んでいる。


 さら。

 りん。


 ハンナさんが水を白い器に取り、北結界石の布と並べた。


「見た目はどちらも透明に近い。でも、匂いが違う」


「井戸水は?」


「すっとする」


 ポロが先に答えた。


 ハンナさんが笑う。


「そう。井戸水はすっとする。北の湿りは、少し冷たくこもってる」


 ミラが記録する。


「井戸水は安定。北湿りと匂い、気配が異なる」


 次に、水車を確認した。


 水車本体は、昨日より滑らかに回った。


 こ、とん。

 こ、とん。


 軸受けの音も悪くない。

 挽き石はまだ動かさないが、空回しの音は整っている。


 村の水の巡りは、大きく乱れていない。


 それでも、北の結界石の根元だけが乾かない。


 工房へ戻ると、ミラは水守控えの続きを開いた。


 昨日見つけた古い帳面だ。


『水守控え』


 かすれた文字を、ミラはゆっくり目で追った。


 井戸の記録。

 水車の修理。

 北の巡り。

 防護鐘の遅れ。


 ページの端に、小さな書き込みがあった。


 ミラの指が止まる。


「ありました」


 俺たちは机へ集まった。


 ミラは読み上げる。


「『北の湿りは、鐘より先に来る。鐘が鳴らぬうちに石の根を聞け。根が冷え、輪が黙れば、門は水を抱いている』」


 工房の中が静かになった。


 ポロが不安そうに聞く。


「鐘より先?」


 ミラはもう一度、文字を追った。


「防護鐘に異常が出る前に、北の湿りが出るという意味かもしれません」


 ハンナさんが腕を組む。


「嫌な書き方だね」


 ガンツさんは低く言った。


「防護鐘を見に行く」


「今ですか?」


「今だ。鳴らす必要はない。金具と綱と鐘座を見る」


 俺たちは防護鐘へ向かった。


 防護鐘は、村の中央より少し北寄りの見張り台に吊られている。

 森の魔物を遠ざける古い鐘だ。


 以前、鳴らなかった鐘を直した。

 それ以来、定期的に確認している。


 今日は鳴らさない。

 音を出せば村に不安が広がる。

 まずは、鐘そのものと綱、鐘座を見るだけだ。


 ガンツさんが金具を確認する。


「錆は増えていない。吊り金具も悪くない」


 ハンナさんが綱を触る。


「湿ってはいないね」


 俺は鐘に耳を近づけた。


 触れずに、近くで聞く。


 ……ん。


 鐘は眠っている。

 悪い眠りではない。

 ただ、北の結界石の湿りを知った後だと、その静けさが少し重く感じる。


「鐘には大きな異常はありません」


 ミラが記録する。


「防護鐘、外観異常なし。綱乾燥。吊り金具安定。鳴動確認は行わず」


 ガンツさんが頷く。


「鳴らすのは明日の定期確認でいい。今日は余計なことをするな」


「はい」


 ポロが小さく言った。


「鐘より先に、石の根を聞く」


 その言葉を聞いて、ミラは帳面に書き加えた。


「水守控えの記述により、北結界石根元の湿りを継続確認対象とする」


 工房へ戻ってから、俺たちは情報を整理した。


 一、北結界石そのものの音は澄んでいる。

 二、影車からの合図に遅れはない。

 三、根元の土だけが乾かない。

 四、井戸水とは違う、こもった湿り。

 五、第三層古扉前の湿気記録と似ているが、同一とは断定できない。

 六、水守控えに「北の湿りは、鐘より先に来る」とある。

 七、防護鐘の外観と綱に異常はない。


 ミラが書き終えると、ハンナさんが言った。


「今すぐ危ないわけじゃない。でも、見逃していいものでもないね」


「はい」


 俺は頷いた。


「北の結界石は、朝夕で確認した方がいいです」


 ガンツさんが言う。


「根元の範囲を測れ。広がったかどうか分からんと意味がない」


 ポロがすぐに細い木片を持ってきた。


「印を置く」


「動かないように、軽く刺すだけです」


 ミラが言う。


「深く刺さない」


「うん」


 北結界石の湿りを測るための、小さな印が作られた。


 木片に線を入れ、湿りの外側に置く。

 範囲が広がれば分かる。

 乾けば、それも分かる。


 ポロはその木片に、小さな水滴の絵を描いた。


「これ、湿り印」


「分かりやすいです」


 ミラが記録する。


「北結界石湿り印、設置予定」


 次に、アルバへの返答を考えた。


 ミラが筆を持つ。


『北結界石の根元に、乾きにくい湿りを確認しました。

 石そのもの、影車からの応答、防護鐘の外観に大きな異常はありません。

 湿りの質は、第三層古扉前の記録と類似する部分がありますが、同一とは断定しません。

 水守控えに「北の湿りは、鐘より先に来る」との記述があり、継続確認を行います。』


 ガンツさんが加える。


「石扉を触るな、ともう一度書け」


 ミラは頷いた。


『古い石扉への打撃、こじ開け、魔力投入、試験起動は行わないでください。

 扉周辺で湿った布、曇った金具、魔力灯の曇りがあれば、乾かす前に状態を記録してください。

 可能であれば、湿った布や曇りを拭いた布を密封せず、通気する形で保管し、次回相談時に見せてください。』


 ハンナさんがすぐに言う。


「密封しちゃ駄目だよ。匂いも湿気も変わるから」


「はい」


 ミラは追記する。


『湿った布を密封しないこと。乾燥状態も記録すること。』


 俺は少し考えてから言った。


「実物の音を聞きたいです」


「実物?」


「はい。古扉前で曇った魔力灯、湿った方位石の袋、剣帯金具を拭いた布。そういうものがあれば、記録だけより湿り方が分かるかもしれません」


 ミラが書く。


『次回相談時、古扉前で不調が出た道具、またはその湿りを拭いた布があれば、状態を変えずに持参してください。』


 ポロが横で絵を描く。


 古い石扉。

 曇った魔力灯。

 湿った布。

 大きな袋にぎゅうぎゅう詰めにする絵にばつ。

 風通しのよい包みに丸。


『しめきらない』

『かわかしたら、かわかしたって書く』


 ハンナさんが頷いた。


「それもいいね」


 昼過ぎ、俺たちは北結界石へ湿り印を置きに行った。


 湿った範囲は朝とほぼ同じ。

 広がってはいない。

 乾いてもいない。


 木片を三つ、湿りの外側へ置く。

 深く刺さず、土を崩さないように。


 ポロが札を立てた。


『ここ、ふまない』

『石のねもと、さわらない』


 近くを通りかかった村の子どもたちが、不思議そうに見る。


「何してるの?」


 ポロが少し胸を張って答えた。


「石の根っこ見てる。踏んじゃだめ」


「石に根っこあるの?」


「あるみたいなもの」


 子どもたちは納得したような、していないような顔をしたが、札を見て遠回りしてくれた。


 ハンナさんが笑う。


「絵札は効くね」


 夕方、もう一度確認する。


 湿りの範囲は、ほとんど変わっていなかった。

 朝より少し冷たく感じるが、広がってはいない。


 北結界石の音も、まだ澄んでいる。


 りん。

 ……りん。


 俺は少しだけ息を吐いた。


 大きな異常はない。

 でも、違和感は残っている。


 それが今の答えだった。


 工房へ戻る頃、空は茜色になっていた。


 水車小屋の影車が、細い水で鳴っている。


 こ、と。


 井戸の札が風で鳴る。


 から。


 工房の看板が鳴る。


 からん。


 机の上には、北結界石の記録。

 水守控えの写し。

 アルバへの返答。

 湿り印の寸法。

 ポロの絵札。


 ミラは今日の最後の記録を書いた。


『北結界石根元の湿り、朝夕で範囲変化なし。

 石音安定。

 影車応答安定。

 防護鐘外観異常なし。

 井戸水安定。

 水車安定。

 湿りの質は第三層古扉前記録と類似点あり。

 継続確認。』


 その下に、ポロが小さく書いた。


『にてるけど、まだきめない』


 ミラはその文字を見て、静かに頷いた。


「それも大事ですね」


 俺は壁に貼られた別の紙を見た。


『村の音が先』


 今日も、それを守った。


 外の石扉の記録に引っ張られすぎず、村の井戸と水車を聞いた。

 防護鐘を見た。

 北の結界石を、掘らずに待った。


 それでも、不安は消えない。


 古い水守控えの言葉が、頭の奥に残っている。


 北の湿りは、鐘より先に来る。


 もしそうなら、今見つけた湿りは、何かが鳴る前の小さな合図なのかもしれない。


 工房の外で、夜風が看板を揺らした。


 からん。


 その音に混じって、遠い石扉の向こうから、まだ聞いたことのない水の音が近づいてくるような気がした。


 俺は目を閉じ、息を整えた。


 焦らない。

 掘らない。

 決めつけない。


 朝も夕方も、聞く。


 北結界石の湿りは、小さなまま、リント村の記録に書き込まれた。


ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、リント村側の小さな異変として、北結界石の根元の湿りを確認する回でした。


石そのもの、影車の応答、防護鐘、井戸、水車には大きな異常はありません。

けれど、北結界石の根元だけが乾かない。


アルバ第三層の古い石扉前の湿気と似た気配はありますが、まだ同じとは断定しません。


さらに、水守控えから、


・北の湿りは、鐘より先に来る

・鐘が鳴らぬうちに石の根を聞け


という記述が見つかりました。


大きな危機ではなく、小さな違和感。

それを掘り返さず、朝夕で測り、記録していく工房らしい対応です。

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