第32話 アルバ冒険者組合の掲示板
アルバ冒険者組合の朝は、いつも騒がしい。
迷宮へ向かう者。
帰ってきたばかりの者。
依頼札を見上げる者。
受付に報酬を催促する者。
酒場の端で、朝から声を張り上げる者。
革鎧の擦れる音。
剣帯の金具が鳴る音。
魔力灯の薄い光が揺れる音。
濡れた外套を絞る音。
迷宮都市アルバらしい、荒くて忙しい音が組合の中に満ちていた。
その騒がしい掲示板の隅に、一枚の新しい紙が貼り出された。
『リント村修理工房 初回相談受付について』
貼ったのは、組合受付のリーネだった。
眼鏡をかけた若い受付係で、依頼書の不備にうるさいことで知られている。
冒険者たちからは「細かいリーネ」と呼ばれていたが、本人はまったく気にしていなかった。
むしろ、細かいことは大事だと思っている。
「リント村?」
掲示板の前にいた短剣使いの男が、紙を見て眉をひそめた。
「どこだ、それ」
「北の小村だろ。防護鐘が鳴ったって噂の」
別の冒険者が答える。
「防護鐘?」
「森の魔物を遠ざける古い鐘だよ。ずっと鳴らなかったのが、最近また鳴ったとか」
「へえ」
短剣使いは興味なさそうに鼻を鳴らした。
だが、次の行を見て表情を変える。
「魔道具診断……?」
その言葉に、周囲の冒険者たちが反応した。
迷宮第三層から戻った冒険者たちの間では、ここ最近、魔道具の不調が増えていた。
魔力灯が揺れる。
方位石の針が戻らない。
保存箱の冷えが弱い。
結界札が焦げる。
水気を吸った魔力管が曇る。
どれも、完全に壊れたわけではない。
だから後回しにされる。
けれど、迷宮の中でそれが起きると、命に関わる。
組合は修理職人へ相談しようとしたが、アルバの職人たちは忙しかった。
武器、防具、大型魔道具の修理が優先され、小さな不調の診断は後回しにされがちだった。
そこへ、リント村修理工房から返答が届いたのだ。
リーネは掲示板の横に立ち、冒険者たちが紙を読むのを見ていた。
掲示には、こう書かれている。
『リント村修理工房 初回相談受付について』
一、初回相談日は十日後の午前。
二、持ち込み相談は五件まで。
三、即日修理は原則として不可。
四、まず簡易診断を行い、修理可否、必要日数、材料費を確認する。
五、危険性の高い魔道具、出所不明の迷宮品、周囲へ害を及ぼす可能性のある品は受け取り不可。
六、診断料、修理料、材料費は別に記録する。
七、預かり品は状態確認の上、記録を作成する。
八、リント村の修理予定を優先するため、日程変更または依頼を断る場合がある。
九、点検表や手順書の写しを希望する場合、写し代が必要。
短剣使いの男が顔をしかめた。
「条件、多くないか?」
隣の弓使いも肩をすくめる。
「即日修理不可って、じゃあ何しに行くんだよ」
「しかも五件まで? 少なすぎるだろ」
「村の修理優先って、こっちは迷宮潜ってるんだぞ」
文句はすぐに出た。
だが、全員がそうではなかった。
少し後ろで掲示を読んでいた女冒険者が、腰の魔力灯を押さえて言った。
「私は、こういう方が信用できるけど」
「何でだよ」
短剣使いが振り返る。
「何でもすぐ直すって言う職人の方が怖いわ。私の魔力灯、第三層で二回消えかけたのよ。ちゃんと見て、無理なら無理って言ってくれる方がいい」
別の中年冒険者も頷いた。
「預かり品の状態を記録するってのも悪くない。前に修理へ出したら、どこでついた傷か揉めたことがある」
「診断と修理を分けるのも、まともだな」
「材料費を別にするのは痛いが、まあ、分からんでもない」
掲示板の前は、少しずつざわついていった。
不満。
興味。
警戒。
期待。
その全部が混ざっていた。
リーネは手を叩いた。
「相談希望者は、受付で申し込みをしてください」
冒険者たちが一斉に彼女を見る。
「初回は五件までです。組合側で内容を確認し、危険性、緊急性、リント村修理工房で対応可能と思われるものを選定します」
「早い者勝ちじゃないのか?」
短剣使いが聞く。
「違います」
リーネはきっぱり答えた。
「危険物、出所不明品、持ち主が説明できない品は持ち込めません。リント村は迷宮内ではありません。村に危険を持ち込むことは許可できません」
「細かいなあ」
「細かいことが嫌なら申し込まなくて結構です」
リーネは淡々と言った。
短剣使いは口を閉じた。
そのやり取りを、少し離れた場所でセシアが見ていた。
青い外套の胸元には、修理された魔力灯が下がっている。
光は弱めだが、安定していた。
彼女は掲示板に近づき、リント村修理工房の条件を最初から最後まで読んだ。
即日修理は約束しない。
危険物は受け取らない。
村の修理を優先する。
診断と修理を分ける。
記録を作る。
その一文一文に、エイルの姿が見えた。
いや、エイルだけではない。
帳面を抱えたミラ。
腕を組むガンツ。
絵入り点検表を描くポロ。
生活の目で判断するハンナ。
あの小さな工房の空気が、紙の向こうから伝わってくるようだった。
「セシア」
後ろからダリオが声をかけた。
彼は自分の槍を肩に担いでいなかった。
手に持ち、穂先の根元を布で拭いている。
組合の中で槍を拭くなと受付に注意され、今は入口近くの邪魔にならない場所に立っていた。
「見たか?」
「ええ」
「条件、多いな」
「でも、必要な条件だわ」
「だよなあ」
ダリオは自分の槍の留め具を見た。
「俺、前なら文句言ってたと思う。五件だけかよ、すぐ見ろよ、って」
「今は?」
「五件でも多くないか?」
彼は少し真面目な顔で言った。
「一つ一つ見るの、時間かかるだろ。俺の槍だけでも、あれだけ見られたんだぞ」
セシアは小さく笑った。
「変わったわね」
「ガンツさんに毎日言われたこと、まだ耳に残ってるんだよ。湿ったら拭け、袋も干せ、泥を押し込むな」
「ちゃんとやっているの?」
「やってる」
ダリオは少し誇らしげに言った。
「昨日も拭いた。槍袋も干した」
「えらいわ」
「子ども扱いするな」
「ポロの点検表を見ながら?」
ダリオは視線をそらした。
「……分かりやすいんだよ」
セシアは笑った。
その横へ、レオルがやって来た。
腰の剣帯に手を置いている。
以前なら、ただ剣の柄に触れていただろう。
だが今は、剣帯の金具の位置を確かめる癖がついている。
セシアはそれに気づいた。
「レオル」
「何だ」
「また剣帯を見ているの?」
レオルはわずかに眉を寄せた。
「確認しているだけだ」
ダリオがにやりとする。
「毎朝やってるよな」
「悪いか」
「悪くない。俺も槍拭いてるし」
レオルはダリオを睨みかけたが、言い返さなかった。
その視線は、掲示板へ向かう。
『リント村修理工房』
その文字を、レオルはしばらく見ていた。
「条件を出してきたか」
「ええ」
セシアが答える。
「エイルらしいというより、あの工房らしいわ」
「村の修理を優先する、か」
レオルの声は低かった。
そこに怒りはなかった。
以前なら、勇者候補パーティより村を優先することを理解できなかっただろう。
だが今は、少なくとも否定はしなかった。
「当然だろ」
ダリオが言う。
「リント村の工房なんだから」
レオルは少しだけ黙った。
「ああ」
その一言に、セシアは少し驚いた。
レオルは続ける。
「当然だ」
彼はそれ以上何も言わなかった。
だが、その横顔は以前より少しだけ静かだった。
受付では、すでに相談申し込みが始まっていた。
リーネの前には、何人かの冒険者が並んでいる。
最初に来たのは、革鎧の女冒険者だった。
腰に小型の魔力灯を三つ下げている。
「第三層で灯りが細くなるんです。修理というより、何が悪いのか見てほしい」
リーネは記録用紙を出す。
「使用階層、使用頻度、最後に点検した日を記入してください」
「最後に点検……」
女冒険者は目をそらした。
「覚えていません」
「では、そのように記録します」
リーネは容赦なかった。
次に来たのは、若い二人組だった。
「方位石が北を指さないんです」
「迷宮用ですか?」
「はい」
「魔力石や結界札と同じ袋に入れていましたか?」
二人は顔を見合わせた。
「入れてました」
後ろでダリオが小さく言う。
「あ、それエイルに怒られるやつだ」
セシアが肘で軽く突いた。
「怒らないわ。たぶん静かに指摘される」
「それが刺さるんだよな」
レオルは何も言わなかったが、少しだけ目を伏せた。
三件目は、保存箱だった。
持ち主は大柄な冒険者で、箱の蓋を縄で縛っていた。
リーネが眉をひそめる。
「なぜ縄で縛っているのですか」
「蓋が閉まらないからだ」
「無理に閉めましたか」
「急いでいたからな」
リーネは無表情で書いた。
「蓋の歪み疑い。無理な圧力あり」
大柄な冒険者が不満そうにする。
「そんなことまで書くのか」
「預かり記録に必要です」
「まだ預けると決まったわけじゃないだろ」
「だから相談記録です」
リーネは一歩も引かなかった。
四件目は、結界札だった。
端が少し焦げている。
持ち主の魔法使いは、心配そうに言った。
「使うと、ぱちっと鳴るんです」
リーネは結界札を見て、すぐに布をかけた。
「これは危険性を確認します。発熱、焦げ、異臭あり。リント村へ持ち込む前に、組合の魔道具係で一次確認します」
「受け付けてもらえないんですか?」
「一次確認後です。リント村修理工房の条件にもあります。危険性のある品は、工房内へ持ち込ませない、と」
魔法使いは不安そうだったが、頷いた。
「分かりました」
五件目で、少し騒ぎが起きた。
持ち込まれたのは、黒い小箱だった。
冒険者は、それを布に包んで持っていた。
箱の表面には、迷宮の泥がこびりついている。
どこで拾ったのかも、何に使うのかも分からないという。
「これ、たぶん魔道具なんだ。時々中で鳴る」
冒険者は軽く言った。
リーネの表情が一瞬で険しくなった。
「出所不明品ですか」
「第三層の奥で拾った」
「用途は?」
「知らない」
「開けましたか?」
「まだ。だから見てほしいんだよ」
周囲の冒険者たちが少し下がった。
セシアも眉を寄せる。
ダリオが低く言った。
「それ、持ってくるなよ」
レオルの手も剣に触れていた。
リーネはすぐに言った。
「リント村修理工房への持ち込みは不可です」
「何でだよ。まだ何もしてないだろ」
「出所不明、用途不明、内部音あり。村へ持ち込む危険があります」
「じゃあ、ここで見てくれよ」
「組合の危険物保管室へ回します。冒険者組合の魔道具係が確認するまで、個人での開封は禁止です」
冒険者は不満そうにした。
「大げさだな」
その時、レオルが一歩前へ出た。
「やめておけ」
冒険者が振り返る。
「あ?」
「用途の分からない迷宮品を軽く扱うな」
レオルの声は低かった。
「その程度の判断もできないなら、第三層へ入るな」
周囲が静かになる。
以前のレオルなら、もっと高圧的に言ったかもしれない。
だが今の声には、ただ見下す響きだけではなかった。
自分も道具を見ていなかった。
その痛みを知った後の言葉だった。
冒険者は舌打ちしたが、箱をリーネへ渡した。
リーネはすぐに組合職員を呼び、黒い小箱を危険物保管室へ運ばせた。
そして、掲示板の前に戻ると、一枚の札を追加で貼った。
『出所不明の迷宮品は、リント村修理工房へ持ち込めません。まず組合で確認してください。』
短剣使いが小さく言う。
「本当に断るんだな」
リーネは答えた。
「断ることも、必要な仕事です」
その言葉に、セシアはリント村でのエイルを思い出した。
危険なものは危険だと言う。
時間がかかるものはかかると言う。
戻らないものは戻らないと言う。
あの時、エイルはそう言っていた。
リント村修理工房の条件は、その言葉を紙にしたものなのだと思った。
昼前には、初回相談候補がいくつか出そろった。
リーネは申込書を机に並べ、組合の魔道具係と一緒に確認する。
一、湿気で揺れる魔力灯。
二、魔力石と同じ袋に入れていた方位石。
三、蓋の歪んだ保存箱。
四、焦げ音のある結界札。ただし組合で一次確認後。
五、鳴る携帯結界灯。持ち主は使用方法を説明可能。
黒い小箱は除外。
用途不明の迷宮品であり、リント村へ持ち込むべきではないと判断された。
短剣使いの持ち込んだ小型罠解除具も候補に上がったが、刃物と毒針の仕掛けが残っていたため、初回からは外された。
「何で俺のは駄目なんだよ」
彼は不満そうに言った。
リーネは淡々と答える。
「針の処理が済んでいないためです。安全化してから再申請してください」
「めんどくせえ」
「面倒なら受付できません」
その様子を見て、ダリオが小声で言った。
「ミラさんとリーネさん、ちょっと似てるな」
セシアも小さく頷いた。
「記録する人は強いのかもしれないわね」
レオルは掲示板を見つめたままだった。
「レオル?」
セシアが声をかける。
「いや」
彼は少し間を置いて言った。
「エイルは、こういう場所にいなかった」
「え?」
「俺たちのパーティにいた時、あいつの警告を守る紙も、条件も、受付もなかった」
セシアは黙った。
ダリオも、槍を持つ手を少し下げる。
レオルは続ける。
「今は、あるんだな」
その声には、悔しさと、安堵が混じっていた。
セシアは掲示板を見た。
リント村修理工房。
条件。
相談日。
五件まで。
「ええ」
彼女は静かに答えた。
「今は、あるの」
レオルは頷いた。
それ以上、何も言わなかった。
午後、組合の奥の小さな会議室で、初回相談の持ち込み者向け説明が行われた。
リーネが前に立ち、五人の冒険者へ説明する。
「リント村は迷宮都市ではありません。村人が暮らす場所です。武器を抜くこと、魔道具を勝手に起動すること、工房の許可なく道具を開けることは禁止です」
冒険者たちは、少し緊張した顔で聞いていた。
「持ち込み品は、必ず布で包んでください。濡れているものは、その状態を記録します。勝手に乾かしたり、分解したりしないでください」
「濡れてるの、乾かしてから持っていく方がよくないのか?」
保存箱の持ち主が聞く。
リーネは首を振った。
「状態が変わると、原因が分からなくなる場合があります。水を滴らせたままは困りますが、乾かしたなら乾かしたと記録してください」
「記録、記録って……」
「必要です」
リーネは即答した。
ダリオが会議室の外で聞いていて、しみじみと言った。
「俺、前に保存箱を無理に閉めたこと、記録されたな」
「されていたわね」
セシアが答える。
「今思うと、あれ必要だったんだな」
「ええ」
「ちょっと恥ずかしいけどな」
レオルが言う。
「恥ずかしい記録ほど、次に役立つ」
ダリオが驚いた顔でレオルを見る。
「今の、レオルが言ったのか?」
「悪いか」
「いや……変わったなって」
「お前ほどではない」
「俺は成長中だからな」
「槍袋を乾かし忘れた男が言うな」
「昨日は干した!」
セシアは二人を見て、少し笑った。
変わった。
全員が少しずつ。
もちろん、何もかもが良くなったわけではない。
過去が消えたわけでもない。
それでも、道具を見ようとするようになった。
記録を軽く見なくなった。
エイルの仕事を、ただの雑用とは言わなくなった。
その変化は、小さかった。
でも、小さい音を聞くことの大切さを、彼らはもう知っていた。
夕方、リーネはリント村修理工房へ送る確認書を作成した。
『初回相談予定品』
一、魔力灯一件。
二、方位石一件。
三、保存箱一件。
四、結界札一件。組合一次確認後、危険性が低い場合のみ。
五、携帯結界灯一件。
『除外品』
一、出所不明の黒い小箱。危険物保管室へ移送。
二、罠解除具。毒針処理未了のため受付不可。
『同行者』
組合受付リーネ。
各依頼者。
必要に応じて護衛一名。
リーネは最後に、一文を付け加えた。
『リント村修理工房の条件に従い、村内での勝手な起動、分解、武器使用を禁じます。』
彼女はそれを読み返し、満足そうに頷いた。
「これくらいでいいでしょう」
隣の魔道具係が苦笑する。
「細かいね」
「細かく書かないと、現場で困ります」
「君、リント村修理工房と相性がよさそうだ」
「そうかもしれません」
リーネは真面目に答えた。
その日の夜、アルバ冒険者組合の掲示板には、リント村修理工房の紙がまだ貼られていた。
何人もの冒険者が立ち止まって読む。
文句を言う者もいる。
興味を示す者もいる。
自分の魔道具を見下ろし、少し考える者もいる。
セシアは帰り際、もう一度その掲示を見た。
『リント村修理工房』
その文字は、アルバの掲示板の中で少しだけ異質だった。
討伐依頼。
護衛依頼。
採取依頼。
迷宮調査。
賞金首。
そうした荒い文字の中に、修理工房の条件が静かに貼られている。
派手ではない。
だが、必要なものだ。
「エイル」
セシアは小さく呟いた。
「あなたの音、ここまで届いたわよ」
胸元の魔力灯が、静かに光った。
りん。
揺れの少ない、落ち着いた光だった。
同じ頃、リント村修理工房では、まだ誰も知らない。
アルバの掲示板の前で、冒険者たちがどんな顔をしたのか。
リーネがどれほど細かく条件を読み上げたのか。
黒い小箱が、初回相談から外されたことも。
ただ、工房の看板は夜風で揺れていた。
からん。
井戸の札が、小さく鳴る。
から。
水車小屋の影車が、細い水を受けて鳴る。
こ、と。
リント村の音は、今夜も静かに整っている。
そして十日後、その音を聞きに、アルバから五つの相談がやって来る。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、アルバ冒険者組合側の反応回でした。
リント村修理工房から届いた条件は、冒険者たちにとって少し細かく、少し面倒なものです。
けれど、その細かさこそが、エイルの仕事を守り、リント村を守るために必要なものになっています。
《白狼の剣》の三人も再登場しました。
ダリオは槍の手入れを続け、レオルは剣帯を確認する癖がつき、セシアはエイルの工房がアルバに届いたことを静かに受け止めています。
次回は、リント村修理工房へ初回相談の確認書が届き、五件の外部依頼を受け入れる準備をします。




