第27話 粉を挽く石
水車が目を覚ました翌朝、ポロは麦の袋を抱えて水車小屋の前に立っていた。
袋は小さい。
大人なら片手で持てるくらいの量だ。
けれど、ポロはまるで宝物でも運ぶように、両腕で大事そうに抱えている。
「今日は粉になる?」
「今日は、粉になるかを確かめる日です」
俺が答えると、ポロは少しだけ眉を下げた。
「パンになる日じゃない?」
「まだです」
「水車、回ったのに」
「水車が回っても、粉を挽く石がちゃんと動かないと、麦は粉になりません」
ポロは水車を見上げた。
昨日、新しい軸で三回転した水車は、今は静かに止まっている。
けれど、以前のような沈黙ではない。
また水を受ければ動ける。
そんな静けさだった。
ポロは今度、水車小屋の中を覗いた。
「粉を挽く石って、そんなに大事?」
ハンナさんが後ろから言う。
「大事だよ。水車がどれだけ元気でも、石が悪ければ粉は荒い。粉が荒ければ、パンは固くなる」
「固いパン……」
「歯が負けるよ」
「それはいやだ」
ポロは真剣な顔で麦袋を抱え直した。
水車小屋の中は、昨日より明るく見えた。
窓を開け、湿気を逃がしてある。
床に残っていた古い藁や土も、ハンナさんと村人たちが掃いてくれた。
中央には、粉を挽くための石がある。
下に据えられた重い石。
その上に重なる、丸い上石。
水車の力が軸を通って伝わると、上石が回り、麦を挽く仕組みだ。
けれど、石は長い間止まっていた。
表面には白っぽい粉の跡が固まり、溝には古い麦粉と石粉が詰まっている。
上石の片側は、ほんの少し下がって見えた。
俺は挽き石の前にしゃがみ、耳を澄ませた。
ご。
ざり。
……ごり。
重い。
水車の軸よりも、ずっと鈍い音だった。
石が眠っているというより、喉に何かを詰まらせているような音だ。
「どうだ」
ガンツさんが聞く。
「石がむせています」
「むせる?」
「溝に古い粉が詰まっています。あと、上石の片側が少し重いです」
ミラが帳面を開いた。
「挽き石。溝に古い粉と石粉の詰まり。上石の片側が重い……」
ガンツさんは上石を見た。
「軸からの伝わりも見る必要があるな。水車は回っても、ここで詰まれば意味がない」
「はい」
ハンナさんが石の表面を指で撫でる。
「これは、すぐ麦を入れたら駄目だね」
「分かりますか?」
「粉の匂いが古い。湿気を吸っているよ。麦を入れたら、最初の粉に嫌な匂いが移る」
ミラが記録する。
「ハンナさん確認。古い粉の湿気臭あり。試し挽き前に清掃必要」
ポロが麦袋を抱えたまま、少し後ずさった。
「この麦、まだ入れない?」
「まだです」
「麦、待機!」
ポロは麦袋を水車小屋の入口近くへ置いた。
ただし、床に直接置こうとして、ハンナさんに止められた。
「直接置かない」
「あ、そっか」
ポロは慌てて木箱の上に袋を置いた。
「麦も地面に置かない」
「そう。粉にする前から大事にする」
ポロは自分の紙に書き足した。
『むぎはじめんにおかない』
水車小屋の作業は、まず掃除から始まった。
ただの掃除ではない。
石の溝を傷つけず、古い粉と石粉だけを取り除く作業だ。
水をかけて洗えば早い。
けれど、挽き石に水を吸わせると、後で麦粉に湿気が移る。
だから、乾いた木べらと硬めの刷毛で少しずつ落とす。
ガンツさんが細い木べらを持つ。
「削るのではない。浮かせる」
「はい。溝の底を傷つけないでください」
「分かっている」
かり。
かり。
古い粉が、少しずつ溝から出てくる。
白というより灰色に近い。
麦粉だけではなく、石の細かな粉も混じっている。
ハンナさんが小皿に取って匂いを確かめた。
「これは食べられないね」
「捨てますか?」
ポロが聞く。
「畑の端に混ぜるくらいなら使えるかもしれないけど、口に入れるものじゃない」
ミラが書く。
「清掃で出た古い粉は食用不可。畑利用はハンナさん判断」
ポロは石の溝を見ながら、絵を描き始めた。
丸い石。
その中に放射状の溝。
詰まった粉にばつ印。
刷毛で掃除する手。
「この溝、なんであるの?」
「麦を粉にしながら、外へ送る道です」
俺が答える。
「道が詰まると?」
「粉が出てきません。石の中で押しつぶされすぎて、熱を持つこともあります」
「熱い粉?」
ポロが顔をしかめる。
ハンナさんが頷く。
「熱を持つと、粉の匂いが悪くなる。パンにしてもおいしくないよ」
「じゃあ、溝は粉の道!」
「そうです」
ポロは絵の下に書いた。
『こなのみちをつまらせない』
ミラがそれを見て頷く。
「分かりやすいですね」
掃除が進むにつれ、挽き石の音は少しずつ変わっていった。
最初は、ざり、と喉に詰まるような音だった。
それが、かり、こり、と軽くなる。
けれど、まだ片側だけ重い。
俺は上石の周りをゆっくり回りながら叩いた。
こん。
こ。
……ご。
「この側です」
俺は上石の北側を指さした。
「ここだけ、下石に近すぎます」
ガンツさんが目を細める。
「石が傾いているのか、受けが沈んでいるのか」
「たぶん、受けの方です」
俺は石の中心にある軸の受けを見た。
水車からの力を受け、上石を回すための心棒。
その下の受け金具が、片側だけ沈んでいる。
「水車が長く止まっていた間、上石の重さが片側にかかっていたんだと思います」
ガンツさんが頷く。
「金具が少し寝ているな」
「寝ている?」
ポロが聞く。
「起き上がるべき金具が、重さで少し倒れているということだ」
「金具も寝るんだ」
「寝る。だが、寝たまま働かせると壊れる」
ポロは真剣に書いた。
『ねているかなぐは、おこす』
ガンツさんがそれを見て、少しだけ眉を上げた。
「まあ、間違いではない」
「採用?」
「子ども用ならな」
「やった!」
受け金具を直すには、上石を完全に外す必要があった。
重い石だ。
手だけで持ち上げるのは危険だった。
ガンツさんは木の楔とてこを使い、少しずつ上石を浮かせることにした。
「急に上げるな。石は割れる」
「はい」
若者二人が手伝いに入る。
ミラは距離を取りながら手順を読み上げる。
「上石を浮かせる前に、周囲の粉を除去。てこを入れる場所を確認。楔は左右均等に入れる。片側だけ上げない」
ポロは入口で口を押さえて見ていた。
昨日の水車の時と同じように、声を出すのを我慢している。
ぎ。
上石が、ほんの少し持ち上がる。
嫌な音ではない。
ただ、長く動かなかった石が驚いている音だ。
「そこで止めてください」
俺は言った。
ガンツさんが手を止める。
「早いな」
「石がまだ慣れていません。少し待ってから、反対側を」
「分かった」
石も、一気には動かさない。
小さい音を聞いてから、大きく動かす。
その考え方は、ここにも必要だった。
少しずつ、少しずつ、上石を浮かせる。
下に薄い木片を入れて支え、受け金具が見える隙間を作る。
受け金具は、予想通り片側だけ沈んでいた。
錆びているわけではない。
折れてもいない。
ただ、長い間、同じ重さを受け続けたせいで、ほんの少し形が負けている。
「直せる」
ガンツさんが言った。
「ただし、叩きすぎると割れる。石に戻した時の音を聞きながらだ」
「はい」
受け金具を外し、鍛冶場で軽く調整することになった。
その間に、俺とミラ、ハンナさん、ポロは挽き石の溝をさらに掃除した。
ハンナさんは古い粉を見分けるのが上手かった。
「これは粉というより石粉だね」
「これは麦殻が混じっている」
「これは湿気を吸って固まってるから、きちんと取らないと」
ミラが一つずつ記録する。
「粉の状態によって詰まり方が違うんですね」
「そうだよ。麦を入れすぎた時の詰まり、湿気で固まった詰まり、石が擦れた粉。全部違う」
「全部、見分けられますか?」
「慣れればね。匂いと手触りで分かる」
ミラの目が輝いた。
「ハンナさん、粉の見分け表を作りましょう」
「また仕事が増えたね」
ハンナさんは笑ったが、嫌そうではなかった。
ポロは自分の指についた粉を見て、匂いを嗅ごうとした。
「口に入れない」
ハンナさんがすぐに言う。
「匂いだけ!」
「鼻に近づけすぎない」
「はい!」
ポロは紙に書いた。
『ふるいこなは、たべない。ちかくでかぎすぎない。』
昼前、ガンツさんが受け金具を持って戻ってきた。
金具は、大きく変わったようには見えない。
けれど、音が違った。
かち。
さっきより、起きている音だ。
「寝ている金具、起きた?」
ポロが聞く。
「起こした」
ガンツさんは短く答えた。
「やった」
「喜ぶのは、石を戻してからだ」
上石を戻す作業は、上げる時よりさらに慎重だった。
重さを受ける位置を間違えれば、また片側に偏る。
金具が正しくても、石の置き方が悪ければ意味がない。
ミラが手順を読む。
「受け金具を中央へ。上石を一度に下ろさない。左右の楔を少しずつ抜く。下ろした後、四方向の音を確認」
ガンツさんが上石を支え、若者たちが楔を調整する。
俺は音を聞く。
ぎ。
こ。
……こ。
「北側、まだ少し低いです」
「楔を半分戻せ」
「はい」
若者が慌てず動く。
以前なら、こうした作業は職人だけのものだったかもしれない。
けれど今は、手順があり、言葉があり、村人も少しずつ理解している。
それが心強かった。
もう一度、下ろす。
こ。
今度は、いい。
「合いました」
上石が受け金具の上に収まった。
俺は四方向から叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
音が揃った。
完全ではない。
でも、片側だけ重い音は消えている。
「石の傾き、戻りました」
ミラが大きく息を吐く。
「記録します。受け金具調整後、四方向の音が揃う」
ポロが小さく拍手しかけて、慌てて手を止めた。
「まだ?」
「まだです」
俺は笑った。
「次は、空回しです」
「空回し?」
「麦を入れずに、石だけを少し動かします」
「粉なしで?」
「はい。いきなり麦を入れると、まだ残っている粉や石粉が混じるかもしれません」
ポロは麦袋を見て、少し残念そうにした。
「麦、まだ待機」
「もう少し待機です」
空回しの手順も、影車から始まった。
こ、と。
影車が鳴る。
北の結界石が応える。
りん。
水車本体に少量の水。
こ、とん。
水車がゆっくり動く。
その力が、軸を通って水車小屋の中へ伝わる。
挽き石が、ほんの少し震えた。
ご。
まだ重い。
「止めてください」
水が止まる。
俺は石の音を聞く。
「溝に残った粉が、まだ内側で当たっています。もう少し掃除します」
ポロが両手を握る。
「まだ掃除……」
「粉にする前に必要です」
「分かった。こなの道をきれいにする」
もう一度、溝を掃除する。
古い粉を出す。
石粉を出す。
刷毛で払う。
布で拭かない。湿気が移るからだ。
二度目の空回し。
影車。
こ、と。
北の結界石。
りん。
水車。
こ、とん。
挽き石。
ご……こ。
さっきより軽い。
「もう少しです」
俺が言うと、ガンツさんが石の外周を見た。
「外へ逃げる粉の口が狭いな」
「そこも詰まっています」
粉が出る小さな口に、固まった古い粉が残っていた。
ハンナさんが木べらで慎重に取り出す。
「ここが詰まったら、粉が出てこないよ」
「粉の出口ですね」
ミラが書く。
「粉出口、詰まり確認。試し挽き前に必ず見る」
ポロの絵に、新しい矢印が増えた。
『こなの出口』
三度目の空回し。
水が流れる。
水車が回る。
挽き石が動く。
こ……こ。
今度は、石の音が軽くなった。
まだ眠い。
けれど、むせてはいない。
「空回し、通りました」
ミラが記録する。
「三度目、空回し成功。異音なし。ただし低速」
ポロが麦袋を抱えた。
「ついに麦?」
俺はハンナさんを見た。
ハンナさんは袋を開け、中の麦を少し手に取った。
指でこすり、匂いを確かめる。
「試しなら、このくらいだね」
ほんの一握り。
ポロは目を丸くした。
「少ない!」
「最初は少ない」
ハンナさんが言う。
「いきなりたくさん入れて詰まったら、また掃除からやり直しだよ」
「それはいやだ」
「だろう?」
ポロは一握りの麦を見つめた。
「小さい麦から」
「そうです」
俺は頷いた。
「小さい音を聞いてから、大きく動かす」
「麦も同じ」
「はい」
ミラが試し挽きの手順を読み上げる。
「一、影車確認。
二、北結界石確認。
三、水車本体を低速で回す。
四、挽き石の空回し音を確認。
五、麦を一握りだけ入れる。
六、粉の出口を確認。
七、粉の粗さ、匂い、石粉混入を確認」
ポロが小さく呟く。
「パンまで手順がいっぱい……」
ハンナさんが笑う。
「おいしいものは、だいたい手間がかかるんだよ」
試し挽きが始まった。
影車。
こ、と。
北の結界石。
りん。
水車。
こ、とん。
挽き石。
こ……こ。
ハンナさんが、一握りの麦を投入口へ入れる。
さら。
麦が石の間へ落ちる。
その瞬間、音が変わった。
ごり。
ポロがびくっとする。
俺はすぐに耳を澄ませた。
ごり。
こり。
……さら。
悪くない。
最初に麦を噛む重い音。
その後、石が麦を砕く音。
粉が溝を通って外へ出ようとする音。
粉の出口から、少しずつ白いものが落ちた。
ほんの少し。
まだ粗い。
粒も大きい。
白というより、薄い麦色だ。
それでも、粉だった。
「出た……」
ポロが呟いた。
ハンナさんが指先で粉を受け、よく見る。
「粗いね。でも、石粉はほとんどない。匂いも悪くない」
「パンにできますか?」
ポロが身を乗り出す。
「このままでは、まだ固いパンになるね」
「固い……」
「でも、最初の粉としては上出来だよ」
ポロの顔が明るくなった。
「上出来!」
ミラが手を震わせながら記録する。
「試し挽き一回目。粉、粗い。石粉ほぼなし。匂い悪くない。ハンナさん評価、最初の粉としては上出来」
俺は挽き石の音を聞いた。
こり。
さら。
まだ調整は必要だ。
石の間隔をほんの少し変えれば、もう少し細かく挽ける。
ただし、狭めすぎると石が擦れ、石粉が混じる。
「石の間隔を、少しだけ詰められます」
ガンツさんが中心の調整具を見る。
「少しだな」
「はい。ほんの少しです」
「ポロの言う小さい少しか」
「小さい少しです」
ポロが真剣に頷いた。
「小さい少し、大事」
調整具をほんのわずか動かす。
かち。
石の間隔が変わる。
二度目の試し挽き。
一握りよりさらに少ない麦を入れる。
ごり。
こり。
さら。
粉が落ちる。
今度は、少し細かい。
ハンナさんが粉を指でつまみ、こすった。
「いいね。まだ完全ではないけど、粥や薄焼きなら使える」
ポロが目を輝かせる。
「パンは?」
「小さい薄焼きなら、試せるかもしれない」
「小さいパン!?」
「パンというより、薄焼きだね」
「でも焼ける?」
ハンナさんは笑った。
「少しだけなら」
ポロは両手を上げた。
「やった!」
水車小屋の中に、村人たちの笑いが広がった。
水車が回った。
石が動いた。
粉が落ちた。
まだ少し。
まだ粗い。
まだ大きなパンには遠い。
それでも、村は確かにそこへ近づいている。
俺は粉の出口から落ちる薄い麦色の粉を見た。
さら。
その音は、今までのどの修理とも違った。
水の音でも、石の音でも、金具の音でもない。
暮らしが戻り始める音だった。
夕方、リント村修理工房では、新しい手順書が増えた。
『挽き石確認手順』
一、古い粉を取り除く。
二、溝と粉の出口を見る。
三、上石の傾きを四方向の音で確認する。
四、受け金具を確認する。
五、空回しをする。
六、麦は一握りから試す。
七、粉の粗さ、匂い、石粉を確認する。
八、石の間隔は少しずつ調整する。
ポロの絵入り版には、こう書かれていた。
『こなのみちをつまらせない』
『ふるいこなはたべない』
『むぎは、すこしから』
『こながでたら、すぐたべたいけど、まずみる』
最後の一文を見て、ハンナさんが笑った。
「本音が出てるね」
「だって食べたい」
「明日、小さい薄焼きを作ろうか」
ポロの顔がぱっと明るくなる。
「本当!?」
「粉がもう少し取れたらね。今日の分は、試しだから少ない」
「じゃあ明日、もっと挽く?」
俺は頷いた。
「水車と挽き石の音が今日のまま安定していれば、少し量を増やせます」
「影車から?」
「もちろん」
ポロは満足そうに言った。
「小さい音から」
ミラが帳面を閉じる。
「明日は、試し挽き二日目ですね」
「はい」
ガンツさんが腕を組む。
「石の間隔を欲張るな。粉を細かくしようとして詰まらせるな」
「分かっています」
「ならいい」
水車小屋の方から、夜風に混じってかすかな音が届く。
こ、とん。
水車は止まっているはずだ。
けれど、今日の回転の余韻が残っている。
その奥に、挽き石の音もかすかに混じっていた。
さら。
粉が落ちる音。
俺はその音を聞きながら、工房の窓の外を見た。
水車が回り、石が動き、粉が出た。
あと少しで、ポロが待ち続けているパンに届く。
でも、その少しを飛ばさない。
小さい音を聞いてから、大きく動かす。
リント村修理工房の約束は、粉を挽く石にも、ちゃんと息づいていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、水車が回った後の「粉を挽く石」を確認する回でした。
水車が動いても、挽き石が詰まっていたり、傾いていたりすると、麦はきれいな粉になりません。
古い粉、石粉、片側だけ重く鳴る上石、寝ていた受け金具。
一つずつ直して、ようやく少しだけ粉が落ちました。
ポロの待つ大きなパンまでは、あと少し。
次回は、試し挽き二日目と、小さな薄焼きへ進みます。




