第28話 小さな薄焼き
翌朝、水車小屋の前には、昨日より少しだけ多くの麦が用意されていた。
といっても、大きな袋ではない。
ハンナさんが両手で抱えられるくらいの、小さな袋だ。
それでもポロは、目を輝かせていた。
「今日は薄焼き?」
「粉がうまく挽けたらね」
ハンナさんが答える。
「うまく挽ける?」
「それを今から確かめるんだよ」
ポロは水車を見上げる。
昨日、目を覚ました水車。
新しい軸で、半回転、一回転、三回転と少しずつ回った水車。
挽き石から、ほんの少しだけ粉を落とした水車。
今朝の水車は、昨日より少し落ち着いた音をしていた。
こ。
止まっているのに、完全に眠ってはいない。
次に水を受ける準備をしている音だ。
俺はまず、手順通りに影車を確認した。
水路の小板を少しだけ開ける。
さら。
細い水が影車へ触れる。
こ、と。
北の結界石が淡く光る。
りん。
「影車、正常。北の結界石、安定」
俺が言うと、ミラが帳面へ書いた。
「試し挽き二日目。影車正常。北結界石安定」
彼女の横には、昨日作った挽き石確認手順書がある。
『麦は少しずつ』
『粉の道を詰まらせない』
『古い粉は食べない』
『粉が出たら、すぐ食べたいけど、まず見る』
最後の一文は、ポロが書いたものだ。
ミラは迷った末、子ども用手順書にそのまま残していた。
ポロはそれを見て、少し照れくさそうにしている。
「今日は、すぐ食べない。まず見る」
「その通り」
ハンナさんが笑った。
水車小屋の中では、ガンツさんが挽き石の受け金具を確認していた。
「昨日の調整は動いていない」
「石の傾きも、昨日より落ち着いています」
俺は四方向から石を叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
昨日より音が揃っている。
上石が、受け金具の上で自分の位置を覚え始めたようだった。
「挽き石、大丈夫です」
「なら、空回しだ」
ガンツさんが言う。
ミラが手順書を読み上げる。
「一、影車確認済み。二、北結界石確認済み。三、水車本体へ少量の水。四、挽き石の空回し音を確認」
水路係の若者が、少しだけ水を増やした。
水車が動く。
こ、とん。
その力が軸を通り、水車小屋の中へ入る。
挽き石が、ゆっくりと回った。
こ……こ。
昨日より軽い。
まだ重さはある。
けれど、喉につかえるような音ではない。
「空回し、通りました」
ミラが記録する。
「空回し、昨日より軽い。異音なし」
ポロは麦袋を両手で持ち、じっと待っている。
ハンナさんが袋を開け、麦を一握りだけ手に取った。
「最初は、昨日と同じくらい」
「もっと入れないの?」
ポロが小声で聞く。
「昨日より少し増やすのは、あとで。まず昨日と同じ量で確認する」
「同じところから」
「そう」
ハンナさんは麦を投入口へ入れた。
さら。
麦が石の間へ落ちる。
ごり。
こり。
さら。
粉の出口から、薄い麦色の粉が落ち始めた。
昨日より、少しだけ早い。
粉の道が通ったからだろう。
ハンナさんが指先で受け、匂いを確かめる。
「悪くない。昨日より湿気臭が少ないね」
俺も粉の落ちる音を聞いた。
さら。
こり。
さら。
石粉が混じる嫌な音は少ない。
ただ、まだ少し粗い。
「石の間隔を、昨日よりほんの少しだけ詰めてもいいと思います」
ガンツさんが中心の調整具を見る。
「どの程度だ」
「小さい少しです」
ポロがすぐに反応した。
「小さい少し!」
ガンツさんはため息をつく。
「分かりやすいが、作業中に叫ぶな」
「小さい声で言う」
「言わんでいい」
それでも、場の空気は少し和らいだ。
ガンツさんが調整具をほんの少し動かす。
かち。
挽き石の間隔が変わる。
次の麦は、さっきより少しだけ多い。
それでも、ポロが期待していた量にはほど遠い。
「まだ少ない……」
「詰まらせないためです」
「分かってる。分かってるけど、麦が遠慮してる」
ハンナさんが笑った。
「麦にも順番があるんだよ」
二度目の試し挽き。
影車。
こ、と。
北の結界石。
りん。
水車。
こ、とん。
挽き石。
こり。
さら。
粉が落ちる。
さっきより細かい。
粉の流れも安定している。
ハンナさんが粉を指でこすり、うなずいた。
「薄焼きなら、これでいける」
ポロの顔がぱっと明るくなった。
「本当!?」
「ただし、小さいよ」
「小さくてもいい!」
「大きなパンじゃないよ」
「小さな薄焼き!」
ポロは両手を上げかけて、すぐに下ろした。
「水車小屋では跳ねない」
「よく覚えている」
ハンナさんが褒めると、ポロは誇らしげに胸を張った。
試し挽きは、午前中いっぱいかけて少しずつ行われた。
一度に入れる麦の量を、ほんの少しずつ増やす。
粉の出口が詰まらないか見る。
石が熱を持たないか確かめる。
粉の匂いを確かめる。
粒の粗さを記録する。
ミラは、ハンナさんの言葉を何度も聞き返していた。
「この粉は、薄焼き向きですか?」
「そうだね。パンにするには粗いけど、薄く伸ばして焼くならいける」
「昨日の粉との違いは?」
「昨日より粒が揃ってる。あと、湿気臭が少ない」
「粒が揃っている……」
ミラが書き込む。
「粉の見分け表に入れます」
ハンナさんは苦笑した。
「私の感覚で言ってるだけだよ」
「その感覚が必要です」
ミラは真剣だった。
「エイルさんは音を聞けます。ガンツさんは金具や木を見られます。でも、粉が食べ物として使えるかは、ハンナさんが一番分かります」
ハンナさんは、少しだけ照れたように目を細めた。
「そう言われると、いい加減なことは言えないね」
「いつも助かっています」
俺が言うと、ハンナさんは笑った。
「じゃあ、ちゃんと見るよ。村の腹に入るものだからね」
ポロが粉の出口を見つめている。
さら。
薄い麦色の粉が、小さな器に少しずつ溜まっていく。
「これ、村の粉?」
「そうだよ」
ハンナさんが答える。
「リント村の水で、リント村の水車を回して、リント村の石で挽いた粉だ」
ポロは器を見た。
「すごい」
その声は、とても小さかった。
騒ぐでもなく、跳ねるでもなく。
ただ、目の前の粉を見つめている。
俺はその横顔を見て、胸の奥が温かくなった。
水車を直すというのは、木や金具を直すだけではない。
粉が落ちるところまでつなげて、初めて暮らしに届く。
昼前には、薄焼き一枚分には十分な粉が取れた。
大きなパンにはまるで足りない。
村中に配るには少なすぎる。
けれど、試しに焼くには十分だった。
ハンナさんは粉を布に包み、集会所の横にある小さなかまどへ向かった。
ポロはその後ろをついていこうとして、麦袋を忘れかけた。
「麦袋」
「あっ」
ハンナさんが指摘すると、ポロは慌てて袋を抱え直す。
「粉になってない麦も大事」
「そう。残りはまた次に挽く」
「次があるんだ」
「水車が無事ならね」
ポロは水車の方を振り返った。
「無事でいてね」
水車は、こ、とん、と小さく鳴った。
まるで返事のようだった。
集会所の横のかまどには、火が入れられた。
強すぎない火。
薄焼きを焦がさない程度の熱。
ハンナさんは粉を器に入れ、少しの水を加えた。
塩はほんのひとつまみ。
油も、ほんの少しだけ。
「卵とか、甘いものは入れないの?」
ポロが聞く。
「今日は、粉の味を見るんだよ」
「粉の味」
「ごまかさない味だね」
ハンナさんは指先で生地を混ぜる。
水を入れすぎない。
固すぎない。
薄く伸ばせるくらいに。
ミラがその様子を記録する。
「薄焼き試作。粉少量。水少量。塩ひとつまみ。油少量。生地は薄く伸ばせる硬さ……」
「そこまで書くのかい?」
ハンナさんが笑う。
「次に作る時のためです」
「じゃあ、ちゃんと量ればよかったね」
「今日は目安で記録します。次から量を決めましょう」
「本当に工房の記録だねえ」
ポロは生地をじっと見ている。
「これがパンになる?」
「薄焼きになる」
「薄焼き」
「パンの手前だね」
「パンの手前……」
ポロはその言葉を大事そうに繰り返した。
ハンナさんは小さな鉄板を火にかけた。
十分に温まったところで、生地を薄く広げる。
じゅ。
小さな音がした。
粉と水と火の音。
俺は思わず耳を澄ませた。
じゅ。
ぱち。
……ふわ。
今まで聞いてきた修理の音とは違う。
水車の軸とも、影車とも、結界石とも違う。
食べ物が焼ける音だ。
ポロが両手を握った。
「いい匂い」
たしかに、薄い麦の香りがした。
強い香りではない。
まだ粗い粉の、素朴な匂い。
少し水っぽく、少し香ばしい。
でも、それは間違いなく、リント村の粉が焼ける匂いだった。
集まっていた村人たちも、自然と黙った。
誰かが小さく息を吸う。
誰かが目元を拭う。
水車が止まってから、この匂いを嗅いでいなかった人もいるのだろう。
ハンナさんが薄焼きを裏返す。
表面には、うっすら焼き色がついていた。
「少し粗いね。でも、悪くない」
「もう食べられる?」
ポロが聞く。
「まだ。中心まで火を通す」
「中心まで」
ポロは真剣に頷いた。
「外だけじゃだめ」
「その通り」
ガンツさんが後ろで小さく言った。
「道具と同じだな」
「薄焼きも?」
ポロが聞く。
「外だけ焼けても中が生なら駄目だ」
「道具も、外だけきれいでも中が悪いとだめ」
「そうだ」
ポロは大きく頷いた。
「レオルさんの剣と同じ」
その場が一瞬静かになり、それからハンナさんが吹き出した。
「そう来たかい」
ミラも笑いをこらえている。
ガンツさんは咳払いをした。
「本人のいないところで言うな」
「ごめんなさい」
ポロは素直に謝った。
薄焼きは、手のひらほどの大きさだった。
大きなパンではない。
ふっくらした白いパンでもない。
薄くて、少し不格好で、端が少し焦げている。
けれど、焼き上がったそれを見た時、ポロは息を呑んだ。
「できた……」
ハンナさんは薄焼きを小さく切った。
一人分には少なすぎる。
だから、みんなで一口ずつ分けることになった。
最初の一切れは、ポロへ渡された。
ポロはすぐに食べようとして、ふと止まった。
「僕が最初でいいの?」
ハンナさんは笑う。
「あんたが一番待ってたからね」
ポロは薄焼きを両手で受け取った。
大事そうに見つめる。
匂いを嗅ぐ。
少しだけ冷ましてから、かじった。
小さな音がした。
ぱり。
ポロは目を丸くした。
噛む。
飲み込む。
しばらく黙っていた。
「どう?」
ミラが尋ねる。
ポロは、顔を上げた。
「……固い」
村人たちの間に小さな笑いが起きた。
ポロは慌てて続ける。
「でも、おいしい!」
その声は、本当に嬉しそうだった。
「固いけど、おいしい! 麦の味がする!」
ハンナさんがほっとしたように笑った。
「そりゃよかった」
次に、ミラ。
ガンツさん。
ハンナさん。
俺。
水路係の若者。
井戸の老人。
集まっていた村人たちへ、本当に小さな一口ずつ配られた。
俺の手にも、小さな欠片が乗る。
薄くて、少し焦げた端。
粗い粉の粒が見える。
口に入れると、たしかに少し固かった。
歯に粒が当たる。
でも、噛むほどに麦の香りが広がる。
水車の音。
挽き石の音。
粉が落ちる音。
火で焼ける音。
その全部が、この小さな欠片の中に入っているようだった。
「おいしいです」
俺が言うと、ポロが嬉しそうに笑った。
「兄ちゃんもおいしい?」
「はい。固いけど」
「固いけど!」
みんなが笑う。
ミラは、薄焼きの欠片を見つめていた。
彼女はゆっくり食べて、目を伏せる。
「水車の記録に、これも書いていいでしょうか」
ハンナさんが言う。
「もちろんだよ。水車は、これのためにあるんだから」
ミラは帳面を開いた。
そして、丁寧に書いた。
『リント村の水車で挽いた粉により、小さな薄焼きを作る。
粉はまだ粗い。
焼き上がりは固い。
だが、麦の香りあり。
村人に分け、全員が味を確認。
水車の復旧は、暮らしへ届き始めた。』
その最後の一文を見て、俺は胸が詰まった。
暮らしへ届き始めた。
そうだ。
水車は回るためだけにあるのではない。
粉を挽くため。
食べ物を作るため。
村の腹を満たすため。
防護鐘が朝を告げたように、水車は食卓を支えるものだった。
ポロは、自分の手についた薄焼きのかけらを大事そうに舐めていた。
「次は、大きいの?」
「次は、もう少し粉を細かくするところからです」
俺が言うと、ポロは真剣に頷いた。
「粉を細かくして、もっと大きくする」
「はい」
「でも、焦らない」
「その通り」
「小さい音から」
「はい」
ハンナさんが腕を組む。
「次は、少し柔らかくしたいね。粉の粗さをもう一段整えて、水の量も見直す」
ミラがすぐに書く。
「次回改善点。粉をもう一段細かく。水量調整。焼き時間確認」
ガンツさんが言う。
「挽き石を詰めすぎるな」
「分かっています」
俺は頷いた。
「石粉が混じらない範囲で調整します」
その日の午後、リント村修理工房の看板の下に、ポロの新しい絵が貼られた。
水車。
挽き石。
粉。
小さな薄焼き。
それを両手で持つ子どもの絵。
下には、こう書かれていた。
『ちいさいこなから、ちいさいごはん』
ミラはその横に、少し整えた文字で書き足した。
『最初の一枚を忘れない』
村人たちがそれを見て、少しずつ笑った。
誰かが「固かったな」と言う。
誰かが「でも、うまかった」と返す。
誰かが「次はもう少し大きく」と言う。
その声の中に、水車の音が混じる。
こ、とん。
今日は、昨日より少しだけ長く回した。
けれど、無理はさせなかった。
挽き石も、少しだけ粉を増やしたところで止めた。
まだ調整は続く。
大きなパンは、もう少し先だ。
でも、リント村の食卓に、小さな一枚が戻ってきた。
夜、工房の机で記録を整理していると、ポロが眠そうな顔でやって来た。
「兄ちゃん」
「どうしました?」
「今日の薄焼き、半分くらいパンだった?」
「うーん……三分の一くらいでしょうか」
「三分の一パン」
「たぶん」
ポロは満足そうに頷いた。
「じゃあ、あと三回くらいで大きなパン?」
「そう簡単ではないと思います」
「そっか」
少し残念そうにした後、ポロは笑った。
「でも、今日のもよかった」
「はい」
「水車、起きてよかったね」
「そうですね」
ポロは工房の窓から水車小屋の方を見た。
「おやすみ、水車」
遠くで、水車がかすかに鳴った。
こ。
俺には、それが返事のように聞こえた。
ポロが帰った後、ミラが帳面を閉じる。
「水車編も、一段落ですね」
「完全ではありませんけど」
「はい。でも、暮らしに届きました」
彼女は今日の記録を軽く叩いた。
「次は、井戸の水脈石ですね」
俺は頷いた。
井戸。
まだ、底の水脈石には泥が残っている。
長柄道具の試作も途中だ。
水車が食卓へ届き始めたなら、次は村の水をもっと安定させる番だ。
「明日、井戸を見ましょう」
「はい」
ミラが新しいページを開いた。
工房の看板が夜風で鳴る。
からん。
水車小屋の方からは、眠るような音。
こ。
そして、広場の井戸からは、静かな水音が聞こえていた。
さら。
次に呼んでいるのは、井戸だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、水車と挽き石で挽いた粉から、小さな薄焼きを作る回でした。
大きなパンではありません。
粉はまだ粗く、薄焼きも少し固い。
それでも、リント村の水車で挽いた粉が、村の食卓へ届いた最初の一枚です。
ポロの「ちいさいこなから、ちいさいごはん」。
ミラの「最初の一枚を忘れない」。
水車修理は、暮らしへ届くところまで進みました。
次回からは、井戸の水脈石清掃へ戻ります。




