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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第2話 雨の中のリント村

 井戸から上がった水は、村の広場で小さな奇跡みたいに扱われた。


 桶いっぱいの水。

 それだけのものを、村人たちは順番に覗き込み、ほっとしたように肩の力を抜いていく。


「今夜は粥が作れるね」

「洗い物を明日に回さなくて済む」

「ポロ、こぼすんじゃないよ」


 そんな声が、夕暮れの広場に少しずつ戻ってきた。


 俺は工具を布で拭きながら、その様子を見ていた。

 たった一つ、噛んでいた金具を外しただけだ。

 歯車に油を差して、鎖の動きを戻しただけだ。


 それなのに、誰かの今夜が少し楽になる。


 そのことが、胸の奥にゆっくり染みていった。


「エイルさん」


 村長代理のミラが、俺の前に立った。


 さっきまで警戒していた目は、少しだけ柔らかくなっている。

 ただ、疲れは隠せていなかった。

 外套の裾は泥で重くなり、袖口には何度も洗った跡がある。


「宿はないけれど、空いている部屋ならあります。今日はそこを使ってください」


「ありがとうございます。でも、報酬は本当に少ないんですよね。泊めてもらう分まで――」


「いいんです」


 ミラは、少し強い声で言った。


「井戸が動いた。それだけで、今夜の村は助かりました」


 そう言われて、俺は返事に困った。


 助かった。

 必要だった。

 ありがとう。


 どの言葉も、まだ耳に慣れない。


 勇者候補のパーティにいた頃、俺の仕事は「できて当然」だった。

 魔力灯がついて当然。

 保存箱が冷えていて当然。

 結界具が迷宮の湿気に耐えて当然。

 壊れなければ誰にも見られず、壊れれば俺のせいになった。


 だから、目の前で誰かが安心しているだけで、どう受け止めればいいのか分からなくなる。


「……明日、井戸はもう一度ちゃんと見ます。今日は応急処置なので」


「お願いします」


 ミラが頷いた、その時だった。


 ぽつ、と頬に冷たいものが落ちた。


 見上げると、夕焼けの端に厚い雲がかかっていた。

 さっきまで赤かった空が、いつの間にか鉛色に沈んでいる。


「雨……」


 ポロが桶を抱えたまま呟いた。


 次の瞬間、ぽつぽつと落ちていた雨粒が、急に音を増やした。

 村の屋根を叩き、木柵を濡らし、広場の土に黒い斑点を広げていく。


「みんな、桶を持って家に戻って!」


 ミラが声を張った。


 村人たちは慣れた様子で動き出した。

 水を分け、布をかぶせ、子どもを急がせる。

 雨そのものが珍しいわけではないらしい。


 けれど、ミラの顔は暗かった。


「雨がまずいんですか?」


 俺が聞くと、ミラは鐘楼の方を見た。


「ただの雨ならいいんです。でも、最近は雨の夜に結界が弱くなります」


「結界石ですか?」


「はい。村の外周に四つあります。本来なら防護鐘と一緒に働いて、森から魔物が近づかないようにするものです。でも鐘は何年も鳴っていません。結界石も、もう限界で」


 雨が外套に染み込んでくる。


 俺は広場の向こうに目を向けた。

 村を囲む木柵のそばに、低い石柱が立っている。

 その先端に、小さな青白い光がともっていた。


 いや、ともっているというより、消えかけている。


 雨粒が石に当たるたび、光が薄く揺れる。

 それと同時に、俺の耳に細い音が届いた。


 ち、ちり。

 ちり、ちり。


 割れた鈴を、濡れた布で包んだような音。


「……嫌な音がします」


「分かるんですか?」


「たぶん、結界石の内側に水が入っています。表面じゃなくて、魔力を通す溝の奥です」


 ミラの顔色が変わった。


「見られますか?」


「見ます」


 言ってから、自分の心臓が少し早くなっていることに気づいた。


 井戸とは違う。

 結界石は村を守るものだ。

 もし失敗すれば、俺だけではなく、村全体が危ない。


 でも、音は聞こえている。


 聞こえているなら、何もしない方が怖かった。


「案内します」


 ミラは雨の中を走り出した。


 俺も工具袋を押さえて後に続く。

 広場の土はぬかるみ始めていた。

 靴の裏に泥がつき、裾が濡れる。


 外周の木柵に近づくほど、森の匂いが濃くなった。

 濡れた葉。

 冷たい土。

 どこか獣に似た、青い匂い。


 結界石は俺の腰ほどの高さだった。

 古い石の表面には細い溝が刻まれ、その溝に沿って青白い光が流れている。

 ただし、流れはかなり弱い。


「これは……」


 俺は石の前にしゃがみ込んだ。


 雨が背中を打つ。

 髪から水が落ち、視界の端を濡らす。

 それでも、耳を澄ませる。


 ちり。

 ちり、ちり。

 ……ごぼ。


 最後に混じった低い音で、原因が分かった。


「排水穴が詰まっています。雨水が魔力溝に溜まって、内側の音が濁ってる」


「直せますか?」


「完全には無理です。今夜だけ持たせるなら、できます」


 俺は工具袋から細い針と薄い金具を取り出した。

 魔力溝に直接触れすぎると、逆に石を傷つける。

 だから、溝の横にある小さな排水穴を探す必要があった。


 指先で石をなぞる。

 冷たい。

 古い。

 そして、わずかに震えている。


 石も、無理をしていた。


「……ここだ」


 苔に隠れた穴を見つけ、針を差し込む。


 泥が詰まっている。

 木の葉の欠片もある。

 長い間、誰も掃除していなかったのだろう。


 少しずつ掻き出すと、黒い水が細く流れ出した。

 同時に、結界石の音がわずかに変わる。


 ちり。

 ちりん。


 少し澄んだ。


「光が戻ってきた……?」


 ミラが息を呑む。


「まだです。中の輪がずれています」


「輪?」


「魔力を回すための輪です。たぶん、昔の職人が中に金属の導線を入れてる。雨のたびに膨らんで、少しずつ位置がずれたんだと思います」


「そんなことまで分かるんですか?」


「音が、そう鳴ってます」


 言ってから、変な説明だと思った。


 けれどミラは笑わなかった。

 ただ真剣に頷いてくれた。


「必要なものは?」


「細い銅線か、柔らかい金属片があれば」


「銅線……鍛冶場ならあるかもしれません。でも、ガンツさんが出してくれるかどうか」


「ガンツさん?」


「村の鍛冶師です。腕はいいんですが、知らない人には少し……かなり厳しいです」


 かなり。


 その一言で、どんな人か少し想像できた。


 だが、迷っている時間はなかった。


 結界石の光が、また細くなった。

 森の奥から、低い唸り声のようなものが聞こえた気がした。


 ミラが顔を上げる。


「今の、聞こえましたか」


「はい」


 魔物かどうかは分からない。

 ただ、村の外に何かがいる。


 俺は戦えない。

 剣もない。

 この雨の中で魔物に襲われたら、できることはほとんどない。


 だからこそ、結界を戻すしかなかった。


「鍛冶場に行きましょう」


 俺たちは広場を横切り、村の奥にある低い建物へ向かった。

 煙突のある石造りの小屋。

 扉の上には、錆びた鉄の看板が揺れている。


 ミラが扉を叩いた。


「ガンツさん! 開けてください!」


 少しして、内側から重い足音が近づいた。


 扉が開く。

 現れたのは、灰色の髭を短く整えた大柄な男だった。

 太い腕。

 火傷の跡が残る手。

 鋭い目。


 この人がガンツだろう。


「なんだ、ミラ。雨の夜に騒がしい」


「結界石が弱っています。この人が直せるかもしれません。細い銅線を貸してください」


 ガンツの目が、俺に向いた。


 上から下まで、値踏みするように見られる。

 濡れた髪。

 細い腕。

 小さな工具袋。


 ため息をつかれた。


「こんな小僧が?」


「井戸を動かしてくれました」


「井戸と結界石は違う」


 低い声だった。


「魔力溝をいじって石を割ったら、村の外周が一気に薄くなる。半端な腕なら、触らん方がましだ」


「分かっています」


 俺は答えた。


 声が少し震えていた。

 それでも、目は逸らさなかった。


「完全修理はできません。でも、今夜だけ結界の流れを戻すことはできます」


「根拠は?」


「石の音が濁っています。排水穴の詰まりは取りました。あとは内側の輪のずれを、外側から導線で補助すればいい」


 ガンツの眉がぴくりと動いた。


「……お前、石の中が見えるのか?」


「見えません。聞こえます」


「聞こえる、だと?」


 ガンツは一瞬、馬鹿にするような顔をした。


 けれど次の瞬間、鍛冶場の奥で何かが小さく鳴った。


 きん。


 俺は反射的にそちらを見た。


「炉の横の小槌、柄の留め具が緩んでます」


 ガンツの目が細くなる。


「見たのか」


「音がしました。金属の響きが少し浮いてます。たぶん、三回強く打ったら抜けます」


 沈黙。


 雨の音だけが、屋根を叩いていた。


 ガンツは無言で奥へ行き、小槌を手に取った。

 柄を振る。

 一度。

 二度。

 三度目で、金具がかすかにずれた。


 ガンツの顔つきが変わった。


「……銅線だったな」


 彼は棚から細く巻かれた銅線を取り出し、俺に放った。


「持っていけ。ただし、石を割ったら承知しない」


「割りません」


「言い切るな、小僧」


「割らないように、音を聞きます」


 ガンツはしばらく俺を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らした。


「ミラ、俺も行く。こいつが変な触り方をしたら止める」


「お願いします」


 三人で結界石へ戻る頃には、雨はさらに強くなっていた。


 木柵の外の森は、夜の色に沈んでいる。

 視界は悪い。

 けれど、何かがいる気配だけは濃くなっていた。


 結界石の光は、もう糸のように細い。


「急ぎます」


 俺は銅線を短く切り、石の表面に刻まれた溝の外側へ沿わせた。

 直接流れに入れるのではない。

 ずれた輪の代わりに、外から音を合わせる。


 音叉を取り出し、軽く叩いた。


 澄んだ音が雨の中に広がる。


 結界石が震えた。


 ちり。

 ちりん。

 ちりん。


 まだ合わない。

 少し高い。


 銅線の角度を変える。

 押し込みすぎない。

 石が嫌がる音を出したら、すぐ戻す。


 背後でミラが息を詰めている。

 ガンツも何も言わない。


 森の奥で、草を踏む音がした。


 近い。


 ポロの声が、広場の方から聞こえた。


「ミラ姉!」


「家に戻って!」


 ミラが叫ぶ。


 その瞬間、木柵の向こうで黄色い目が二つ光った。


 小さな魔物だった。

 狼ほどの大きさはない。

 けれど、濡れた毛の間から黒い角が一本伸びている。

 低く唸りながら、木柵の隙間に鼻先を押し込んでいた。


 俺の手が止まりかける。


「止まるな!」


 ガンツの声が飛んだ。


「お前が止まったら、石も止まる!」


 その言葉で、指先に意識を戻した。


 俺は戦えない。

 魔物を倒せない。

 誰かの前に立って守ることもできない。


 でも、この石を鳴らすことならできる。


 銅線を少し曲げる。

 音叉をもう一度鳴らす。

 雨音の奥で、結界石の音を探す。


 ちりん。


 近い。


 もう少し。


 木柵が、ぎし、と鳴った。

 魔物が体当たりしている。


 ミラが広場に置いてあった棒を握る。

 ガンツも鍛冶場から持ってきた鉄槌を構えた。


 俺は唇を噛み、最後の銅線を溝の端に留めた。


 その瞬間。


 結界石が、澄んだ音を立てた。


 ちりん。


 青白い光が石の溝を走る。

 細かった光は一気に太くなり、木柵の内側に薄い膜のような輝きが広がった。


 木柵の向こうにいた魔物が、甲高い声を上げて後ずさる。

 光に触れた鼻先から白い煙が上がったわけではない。

 傷ついた様子もない。


 ただ、嫌がるように身を引き、森の奥へ走り去っていった。


 雨の音だけが残った。


 誰もすぐには喋らなかった。


 俺は結界石の前にしゃがんだまま、ゆっくり息を吐いた。

 指先が震えている。

 寒さのせいだけではなかった。


「……持ちました」


 やっと、それだけ言った。


 ミラが膝から崩れるように座り込んだ。


「よかった……」


 ガンツは結界石を見下ろし、それから俺を見た。


「応急処置だな」


「はい。朝までです。明日には内側を開けないと」


「開けられるのか」


「一人では難しいです。石を支える人と、古い導線を作れる人が必要です」


 俺はガンツの手元を見た。

 太い指。

 火に慣れた腕。

 金属の音を知っている人の手。


「協力してもらえますか」


 ガンツは不機嫌そうに眉を寄せた。


「生意気な頼み方だな」


「すみません」


「だが、悪くない」


 そう言って、彼は結界石を軽く叩いた。


 こん、と澄んだ音が返る。


「この石がこんな音を出すのは、久しぶりだ」


 雨はまだ降っている。

 外套は重い。

 靴の中まで冷たい。


 それでも、村を包む青白い光は、さっきよりずっと確かだった。


 ミラが立ち上がり、俺に向き直る。


「エイルさん」


「はい」


「明日、井戸だけじゃなくて、結界石も見てください。報酬は……すぐには多く出せません。でも、村として正式に依頼します」


 正式に。


 その言葉が、妙に重かった。


 俺は今日の朝、パーティから追い出された。

 役に立たないと言われた。

 格好がつかないと笑われた。


 なのに今、雨の中で、誰かが俺に仕事を頼んでいる。


「やります」


 迷わず答えた。


 ミラは、雨に濡れた顔で少しだけ笑った。


 その時、村の中央から低い音が聞こえた。


 ごぉん。


 鐘ではない。

 まだ、防護鐘は鳴っていない。


 けれど、鐘楼の奥で何かが揺れた。

 眠っていた大きな獣が、目を開ける前に喉を鳴らしたような音。


 ガンツが顔を上げる。


「今の音……」


 ミラも鐘楼を見た。


「防護鐘?」


 俺は濡れた髪をかき上げ、耳を澄ませた。


 井戸の音。

 結界石の音。

 雨の音。

 村人たちの家の中から漏れる、小さな生活の音。


 その全部の奥で、鐘がかすかに震えていた。


 鳴りたい。


 けれど、それだけではない。


 早くしろ。


 そう急かしているように聞こえた。


 俺は鐘楼を見上げた。


 雨の夜。

 青白い結界の光の中で、鳴らない鐘だけが、暗く沈んでいる。


 そしてその足元から、井戸とも結界石とも違う、深くひび割れた音が響いていた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


リント村での最初の夜。

エイルは井戸に続いて、雨で弱った結界石の異常に向き合うことになりました。


次回は、応急処置だけでは済まない井戸の本格修理と、リント村が抱える古い問題に踏み込んでいきます。


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