第1話 戦えない調律係はいらない
その日、俺は勇者候補のパーティから追放された。
「エイル。お前、今日で抜けろ」
迷宮都市アルバの東門前。
朝の鐘が三つ鳴り終わったばかりの時間だった。
露店から焼きたての黒パンの匂いが流れてくる。
行商人が荷車の車輪に油を差している。
冒険者たちは剣を腰に下げ、魔法杖を背負い、今日の稼ぎの話をしている。
そんな中で、俺だけが、荷物袋を抱えたまま固まっていた。
「……抜けろ、ですか?」
聞き返した声は、自分でも情けないくらい小さかった。
目の前に立つレオルは、銀の胸当てを朝日に光らせながら、面倒そうに息を吐いた。
勇者候補と呼ばれるだけあって、彼は強い。
剣を抜けば、普通の魔物なら三歩も近づけない。
その後ろでは、槍使いのダリオが腕を組んで笑っていた。
魔法使いのセシアだけが、少しだけ眉を寄せている。
「何度も言わせるな。お前は戦えない。俺たちは今日、第三層に挑む。荷物持ちと魔道具の掃除係を連れていく余裕はない」
「でも、第三層の結界灯は湿気に弱いです。昨日の雨で魔力管が曇っているはずなので、出発前に一度――」
「そういうところだよ」
レオルが俺の言葉を切った。
「いつもいつも、管だの歯車だの音だの。お前の話は地味なんだ。剣を振れるわけでもない。攻撃魔法を撃てるわけでもない。回復術すら半端だ」
返す言葉がなかった。
俺の職は《音繕い》。
魔道具や結界具の中を流れる魔力の乱れを、音として聞き分ける職だ。
曲がった魔力管は、かすれた笛みたいに鳴る。
欠けた歯車は、舌打ちみたいに跳ねる。
古い結界石は、眠る前の子どものように弱く震える。
俺には、それが聞こえる。
けれど、それだけだ。
剣で魔物を斬れない。
炎の魔法も撃てない。
仲間が傷ついたとき、すぐに癒やせるほどの力もない。
戦う人間から見れば、俺の仕事は戦いの前後にしゃがみ込んで道具をいじっているだけに見えるのだろう。
「エイル」
セシアが口を開いた。
彼女の手には、俺が昨日直したばかりの魔力灯が握られている。
灯りは安定していた。
音も悪くない。
少なくとも、今日一日はもつ。
「あなたの整備が役に立っていないとは思わないわ。でも……」
「でも、第三層から先は実力の世界だ」
レオルが続けた。
「俺たちは上を目指す。王都の騎士団に認められ、いずれは勇者認定を受ける。その時、戦えないやつを連れていたら格好がつかない」
格好。
その言葉が、思ったより深く刺さった。
危ないからではない。
負担だからでもない。
格好がつかない。
俺はパーティの仲間ではなく、見栄えの悪い荷物だったらしい。
「これまでの分だ」
レオルが小さな革袋を投げてきた。
受け止めそこねて、袋は石畳に落ちる。
中から銅貨が数枚こぼれた。
「退職金のつもりですか?」
「不満か?」
「……いいえ」
拾おうとして膝を折ると、ダリオが鼻で笑った。
「最後まで地味だな。まあ、お前には似合ってるよ。歯車と一緒にどこかの村で暮らせばいい」
その瞬間、セシアの魔力灯が、ちり、と小さく鳴った。
俺は思わず顔を上げる。
嫌な音だった。
細い針で硝子をなぞるような、耳の奥に残る音。
昨日直した時にはなかった乱れだ。
「セシア、その灯り、内側の留め金が浮いてます。強い衝撃を受けたら魔力が逆流するかもしれません」
つい、言ってしまった。
レオルの目が冷たくなる。
「もういい」
「でも」
「もう、俺たちの道具に触るな」
その一言で、俺の手は止まった。
風が吹く。
東門の外へ続く道に、乾いた土埃が流れていく。
レオルたちは俺に背を向けた。
槍使いのダリオが笑いながら何かを言い、セシアは一度だけ振り返った。
その目には、迷いがあったように見えた。
けれど、彼女は何も言わなかった。
三人の背中が人混みに消えていく。
俺は石畳に落ちた銅貨を拾い集めた。
手のひらに乗せると、たった七枚。
宿に二晩泊まれば消える額だった。
「……これから、どうしよう」
声に出したところで、答える人はいない。
腰の工具袋だけが、いつも通りそこにあった。
小さな調整針。
魔力管を磨く布。
歯車を押さえる薄い金具。
祖父から譲られた古い音叉。
俺の全財産だ。
東門のそばに貼られた依頼掲示板を見上げる。
討伐依頼。
護衛依頼。
採取依頼。
迷宮案内。
どれも戦える冒険者向けだ。
俺にできるものは、ほとんどない。
諦めかけた時、掲示板の端で、雨に濡れてよれた紙が一枚だけ揺れていた。
『辺境リント村。雑務手伝い募集。
井戸、水車、結界石に不具合あり。
戦闘能力不問。
住み込み可。
報酬少。食事あり』
文字は薄く、紙の角は破れかけている。
きっと、長い間誰にも見向きされなかった依頼だ。
報酬少。
戦闘能力不問。
普通の冒険者なら鼻で笑う条件だろう。
でも、俺はその紙から目を離せなかった。
井戸。
水車。
結界石。
どれも、音を聞けば直せるかもしれない。
胸の奥で、小さな音が鳴った気がした。
壊れかけの歯車が、まだ回れると言っているような音だった。
俺は依頼書を剥がし、受付へ向かった。
受付の女性は、俺が紙を差し出すと少し驚いた顔をした。
「リント村の依頼ですか? ここ、かなり遠いですよ。馬車で半日、そのあと徒歩で二時間。報酬も本当に少ないですし、若い冒険者さんにはおすすめしません」
「大丈夫です」
「討伐依頼ではありませんが、辺境なので夜は危険です。戦闘は?」
「……苦手です」
正直に答えると、受付の女性は困ったように眉を下げた。
「それなら、なおさら」
「でも、井戸と水車と結界石なら、少しは見られます」
自信があったわけではない。
ただ、今の俺には、それしかなかった。
受付の女性はしばらく俺を見つめ、それから依頼書に判を押した。
「分かりました。無理はしないでくださいね」
「はい」
判を押された紙を受け取った時、俺はやっと息を吸えた気がした。
その日の午後、俺は乗合馬車に揺られてリント村へ向かった。
馬車の中は干し草の匂いがした。
隣では老婆が籠いっぱいの玉ねぎを抱えて眠っている。
向かいの席の商人は、ずっと帳面に数字を書き込んでいた。
街道の石畳はやがて土の道に変わり、周囲の家も少なくなっていく。
畑が広がり、森が近づき、空が少しずつ広くなった。
夕方前、馬車は古い道標の前で止まった。
「リントへ行くなら、ここから北だ」
御者が指さした先には、細い道が一本伸びていた。
人の往来が少ないのか、道の端には背の高い草が揺れている。
「夜になる前に着けよ。あの村、最近は鐘が鳴らないらしいからな」
「鐘?」
「魔物除けの防護鐘だよ。昔はいい音だったんだが、今はさっぱりだ」
御者はそれだけ言うと、馬車を出した。
俺は一人、細い道を歩きはじめた。
工具袋が腰で揺れる。
銅貨七枚の入った革袋は、やけに軽い。
森の匂いが濃くなっていく。
遠くで鳥が鳴いた。
足元の土は少し湿っていて、靴の裏に柔らかくまとわりついた。
しばらく歩くと、道の向こうに小さな村が見えてきた。
木の柵。
傾いた門。
煙の少ない家々。
そして、村の中央に立つ石造りの鐘楼。
鐘は、夕焼けの中で黒く沈んでいた。
鳴っていない。
けれど、俺には聞こえた。
かすかに。
本当にかすかに。
ひび割れた金属の奥で、誰かが爪先立ちをするような音。
鳴りたい。
まだ、鳴れる。
そんな音だった。
村の門の前に、一人の少女が立っていた。
栗色の髪を後ろで結び、古びた外套を羽織っている。
年は俺とそう変わらないくらいだろう。
彼女は俺を見ると、警戒した顔で一歩前に出た。
「あなたが、依頼を受けてくれた人?」
「はい。エイル・ノートです。音繕いをしています」
「音繕い……」
少女は聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返した。
「私はミラ・リント。ここの村長代理です」
村長代理。
その若さで、と思ったが、口には出さなかった。
ミラは俺の細い腕と小さな工具袋を見て、少し不安そうにした。
無理もない。
辺境の村が待っていたのは、きっと大柄な修理職人か、魔物を追い払える冒険者だったはずだ。
「戦闘は、あまり得意じゃありません」
先に言った。
期待されて、がっかりされるのは慣れている。
それでも、最初に言っておいた方がいい。
ミラは少し黙ったあと、ゆっくり頷いた。
「分かった。でも、井戸を見られる?」
「はい」
「今すぐ?」
「今すぐ見ます」
ミラの目が、ほんの少しだけ揺れた。
案内された井戸は、村の広場の端にあった。
石組みは古く、巻き上げ機の木枠には雨染みが広がっている。
桶を吊るす鎖は途中で止まり、井戸の底からは水の気配が薄かった。
俺は井戸の縁に手を置き、目を閉じた。
静かに息を吸う。
水の匂い。
古い石の冷たさ。
木枠に染み込んだ手の跡。
そして、その奥にある音。
ぎい。
ぎい。
きし、きし。
違う。
軸じゃない。
もっと奥だ。
鎖の途中に、濁った音が混じっている。
錆びではない。
魔力止めの小さな輪が、半分だけ噛んでいる。
「……誰か、無理に引き上げましたか?」
俺が尋ねると、ミラの後ろにいた少年がびくりと肩を跳ねさせた。
「ポロ?」
「ご、ごめんなさい。昨日、桶が動かなくなって、でも水が必要だったから……」
少年は泣きそうな顔になった。
「怒ってません」
俺は工具袋から細い調整針を取り出した。
「むしろ、途中で止めてくれて助かりました。これ以上引いていたら、輪が割れて井戸の底に落ちていました」
「直るの?」
ポロが聞いた。
「直します」
そう言った瞬間、自分で少し驚いた。
直ると思います、ではなかった。
たぶん、でもなかった。
直します。
その言葉が、自然に出た。
俺は井戸の縁に膝をつき、鎖の隙間に調整針を入れた。
指先に力を込めすぎない。
音を聞く。
金具が嫌がる方向には押さない。
絡んだ糸をほどくように、少しずつ。
ちり。
小さな音がした。
噛んでいた輪が外れ、鎖がわずかに沈む。
次に、巻き上げ機の横板を外して、内側の歯車を布で拭いた。
古い油に砂が混じっている。
これでは回るたびに削れていく。
「油はありますか?」
「古いのでよければ」
「十分です」
ミラが持ってきた油を薄く差す。
歯車を一つ戻し、留め金を締め直す。
最後に、魔力止めの輪を指で弾いた。
澄んだ音がした。
「ポロ、ゆっくり回してみてください」
少年が恐る恐る取っ手を回す。
ぎい、と鳴るはずだった井戸は、驚くほど静かに動いた。
鎖が下りる。
桶が水に触れる音が、井戸の底から返ってくる。
やがて、桶いっぱいの水が上がってきた。
透明な水だった。
ポロが目を丸くする。
ミラは声もなく桶を見つめていた。
「水だ……」
誰かが呟いた。
気づけば、周りに村人が集まっていた。
老人も、子どもも、仕事帰りらしい女性も。
みんな、桶の中の水を見ている。
ただの水だ。
でも、この村では、ただの水ではなかったらしい。
ポロが両手で桶を抱え、ぱっと笑った。
「すごい! 兄ちゃん、すごいよ!」
「応急処置です。明日、ちゃんと分解して見た方がいいです」
「それでも」
ミラが小さく息を吐いた。
「今夜、水が使える」
その声は震えていた。
俺は何を言えばいいか分からず、工具を布で拭いた。
戦えない。
格好がつかない。
荷物持ち。
掃除係。
今朝まで俺に貼られていた言葉が、遠くなる。
代わりに、井戸の歯車が静かに回る音が聞こえた。
悪くない音だった。
ミラは俺の前に立ち、深く頭を下げた。
「ありがとう、エイルさん」
名前を呼ばれた。
役立たずではなく。
お前でもなく。
荷物持ちでもなく。
エイルさん。
胸の奥で、何かがゆっくりほどけた。
その時だった。
村の中央にある鐘楼から、かすかな音が漏れた。
誰も鐘を鳴らしていない。
風もない。
なのに、俺の耳には確かに届いた。
ひびの奥で震える、細い細い音。
助けて。
そう聞こえた気がした。
俺は顔を上げる。
夕焼けの中、鳴らないはずの防護鐘が、黒い影になって村を見下ろしていた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
戦えない調律係・エイルの辺境再生物語、ここから始まります。
次回は、リント村の現状と、鳴らない防護鐘の異常に少しずつ近づいていきます。
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