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戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

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第18話 槍使いダリオの手入れ

 ガンツさんの鍛冶場の前で、ダリオは槍を抱えて立っていた。


 いつもなら肩に担いでいるはずの槍を、今日は少しだけ遠慮するように両手で持っている。

 大柄な体に似合わず、落ち着かない様子だった。


 鍛冶場の扉は開け放たれている。

 中からは、乾いた鉄と炭の匂いが流れてきた。

 炉の火は落とされているが、金床の周りにはまだ熱が残っている。


 ガンツさんは、鍛冶場の入口に木の台を置き、その上に厚い布を敷いた。


「置け」


「ここに?」


「そこ以外にどこがある」


「いや、いつもは壁に立てかけてるからよ」


 ダリオがそう言うと、ガンツさんの眉がぴくりと動いた。


「湿った槍を、壁に?」


「あー……まあ、急いでる時は」


「迷宮から戻った後に?」


「……はい」


 ガンツさんは黙ってダリオを見上げた。


 それだけで、ダリオは少し背筋を伸ばした。


「すみません」


「まだ何も言っていない」


「言われる前に、まずい気がした」


「多少は学んだな」


 ガンツさんは槍を受け取り、布の上に置いた。


 槍は大きい。

 穂先はよく磨かれているように見える。

 けれど、根元の金具には泥が薄く残っていた。

 柄の一部にも、乾いた水跡が筋になっている。


 俺は横に立ち、槍の音を聞いた。


 きん。

 かた。

 ……きし。


 やはり、穂先の根元が浮いている。

 金具の内側だけではなく、柄の奥にも水が入った跡がある。


 ガンツさんが槍の穂先を軽く叩いた。


 きん。


 次に、根元を叩く。


 かた。


 最後に、柄の中ほどを叩いた。


 こん。


 ダリオが顔をしかめる。


「場所で音が違うんだな」


「当たり前だ」


 ガンツさんは短く答えた。


「金属、留め具、木。全部違う。違うものを一本にまとめているのが槍だ」


「俺、そこまで考えてなかった」


「だろうな」


「即答かよ」


「見れば分かる」


 ガンツさんは、槍の根元に残った泥を指で示した。


「これは何だ」


「泥」


「なぜ残っている」


「拭き忘れ」


「違う」


 ダリオが目を瞬かせる。


「違うのか?」


「お前は穂先だけ見て、柄と留め具を見ていない。だから泥が残る」


 ダリオは言い返しかけて、黙った。


 ガンツさんは続けた。


「武器の見えるところだけ磨く者は多い。刃、穂先、飾り金具。人に見える場所だけだ。だが壊れるのは、たいてい見えにくい場所からだ」


 俺は思わず頷いた。


 魔力灯の内側の留め金。

 保存箱の蓋の噛み合わせ。

 方位石の針の軸。

 結界石の根元。


 どれも、外から見ただけでは分かりにくい場所だった。


 ガンツさんは俺を見た。


「エイル」


「はい」


「音は」


「穂先の根元と、柄の内側です。泥が入っているだけではなく、少し水を吸っています。強く突くと、穂先がほんの少し遅れて鳴ります」


 ダリオが自分の槍を見た。


「遅れて鳴るって、そんなことあるのか」


「あります」


「俺、昨日も普通に突けてたぞ」


「普通に使えている間に直した方がいいです」


 俺が答えると、ダリオは口を閉じた。


 ガンツさんが低く言う。


「昨日の迷宮で、お前は湿泥蜥蜴を突いたな」


「ああ」


「その時、穂先が少し横へ流れなかったか」


 ダリオの顔が変わった。


「……流れた」


「腕のせいだと思ったか」


「そう思った。床が滑ったのかとも」


「槍のせいもある」


 ガンツさんは槍の根元を軽く押さえた。


「ここが浮くと、力がまっすぐ伝わらん。お前が強く突くほど、ずれは大きくなる」


 ダリオは、少しだけ青ざめた。


「それ、戦闘中に外れることもあるのか?」


「放っておけばな」


「……まじかよ」


「まじだ」


 ガンツさんは容赦なく言った。


 鍛冶場の横では、ミラが帳面を開いていた。

 外部依頼記録と、道具手入れの点検表を同時にまとめている。

 ポロはその隣で、槍の絵を描いていた。


 槍の絵は、少し太すぎて棒のようにも見える。

 けれど、穂先と柄の境目に大きな丸印がついていた。


「ここを見る!」


 ポロが言う。


「そうだ」


 ガンツさんが短く答えた。


 ポロの顔がぱっと明るくなった。


「ガンツじいが認めた!」


「認めていない。そこを見るのは正しいと言っただけだ」


「同じじゃん」


「違う」


 ダリオが小さく笑った。


「俺よりポロの方が覚えが早いかもな」


「当たり前だ」


 ガンツさんが言う。


「ポロは知らないことを知らないと言う。お前は知らないのに知っているつもりで扱う」


「ぐっ」


 ダリオは胸を押さえた。


「その言い方、刺さるな」


「槍使いなら刺される痛みも覚えろ」


「はい……」


 ミラが筆を走らせる。


「槍点検表。見る場所は、穂先、留め具、柄、石突き、袋……」


「袋も?」


 ダリオが聞く。


 ガンツさんが睨む。


「湿った袋に戻せば、また同じことになる」


「袋も手入れか」


「道具を守るものも、道具だ」


 ミラがすぐに書き足した。


「道具を守るものも道具」


「おい、それは俺の言葉だ」


 ガンツさんが言う。


「はい。大事なので記録します」


「勝手にしろ」


 最近、ガンツさんはこのやり取りに慣れてきている気がする。


 作業が始まった。


 まずは泥を落とす。


 ダリオが布を持とうとすると、ガンツさんが止めた。


「違う」


「まだ何もしてないぞ」


「布の持ち方が違う」


「そこからかよ」


「そこからだ」


 ガンツさんは布を広げ、指に巻く。


「穂先の根元は、強くこするな。泥を押し込む。外へ逃がすように拭け」


「外へ逃がす……」


 ダリオは真似をして布を巻いた。


 ぎこちない手つきで、槍の根元を拭く。


 ガンツさんがすぐに言った。


「力が強い」


「これでも弱くしてる」


「もっと弱くしろ。お前の弱いは、普通の強いだ」


「そんなに?」


「そんなにだ」


 ダリオは布を持つ手を緩めた。


 泥が少しずつ取れていく。


 最初は表面だけ。

 次に、留め具の隙間。

 さらに、金具の下に残った湿った土。


 ダリオの表情がだんだん真剣になる。


「こんなに入ってたのか」


「見ようとしなければ、見えん」


 ガンツさんは短く言った。


 俺は槍の音を聞いた。


 かた。


 さっきより少し軽くなっている。

 でも、まだ奥が濁っている。


「内側にまだ残っています」


 俺が言うと、ダリオは顔を上げた。


「どこだ?」


「留め具の下です。外からは見えません」


「外から見えないのに分かるの、やっぱり便利だな」


「便利というか」


「いや、悪い意味じゃない」


 ダリオは少し慌てたように手を振った。


「昨日から考えてたんだよ。俺、エイルのそれを、便利な雑用みたいに思ってた。でも違うんだなって」


 彼は自分の槍へ目を落とした。


「俺の槍、俺より先に悲鳴上げてたのに、俺は気づかなかった」


 その言葉は、軽口ではなかった。


 ガンツさんも、すぐには何も言わなかった。


 俺は少し考えてから答えた。


「今、気づいたなら、次は早く分かります」


「そういうもんか?」


「はい。たぶん」


「たぶんかよ」


「俺も、人に教えるのは慣れていないので」


 ダリオは少し笑った。


「じゃあ、俺も習うのに慣れてないから、おあいこだな」


 そう言ってから、彼は布を持ち直した。


「で、次はどうする?」


 ガンツさんが槍の留め具を見た。


「ここから先は、少し金具を緩める。お前は見るだけだ」


「俺がやったら?」


「壊す」


「はい」


 返事が早かった。


 ガンツさんは細い工具を使い、留め具をわずかに開いた。

 ほんの少しだ。

 外してしまうのではなく、内側に入った泥を取り出すための隙間を作る。


 俺は耳を澄ませた。


 かた。

 きし。

 ……こ。


「そこです」


 俺が言うと、ガンツさんの手が止まる。


「この角度か」


「はい。これ以上開くと、柄が嫌がります」


「分かった」


 ダリオが小声で言った。


「柄が嫌がる……」


「笑うな」


 ガンツさんが睨む。


「笑ってない。いや、前なら笑ってたかもしれんけど」


 ダリオは真面目な顔で槍を見た。


「今は、なんか分かる気がする。嫌がるっていうか、無理させてる感じ」


 俺は頷いた。


「それが分かるなら、手入れは上手くなると思います」


「本当か?」


「はい」


 ダリオは少しだけ照れたように鼻の下をこすった。


「そっか」


 ガンツさんは、細い木べらで留め具の内側の泥を取り出した。

 黒っぽい土が、思ったより多く出てくる。


 ミラがそれを見て、帳面に書く。


「湿った迷宮後、槍の留め具内に泥が入り込む。放置すると穂先の揺れにつながる……」


 ポロが絵に描き足す。


 槍の根元に、泥の丸。

 その横に大きなばつ。


「泥、ばつ!」


「分かりやすいです」


 俺が言うと、ポロは嬉しそうにした。


 ダリオは絵を覗き込み、少し複雑そうな顔をする。


「俺、子ども向けの絵で教わってるみたいだな」


「分かりやすい方がいいだろ」


 ハンナさんが通りがかりに言った。


「畑の道具だって、絵で置き場所を決めたら子どもでも片づけられる。分かりやすいのは馬鹿にすることじゃないよ」


「それもそうか」


 ダリオは素直に頷いた。


「じゃあ、俺用に大きく描いといてくれ、ポロ」


「任せて!」


「大きすぎる絵は邪魔だ」


 ガンツさんが言う。


「じゃあ、ちょうどいい大きさで!」


 ポロが言い直す。


 鍛冶場の前に、小さな笑いが起きた。


 留め具の泥を取った後、今度は柄を乾かす作業に入った。


 ダリオは、そこでまた驚いた。


「火で乾かさないのか?」


「急に火を当てれば、木が割れる」


 ガンツさんが言う。


「じゃあ、どうするんだ?」


「風を通す。布で吸う。必要なら、ぬるい灰の近くに置く。焦るな」


「焦るな、か」


 ダリオは槍の柄を見つめた。


「俺、だいたい焦ってるな」


「知っている」


「ガンツさん、遠慮ないな」


「遠慮で槍は直らん」


 その言葉に、ダリオは肩をすくめた。


 けれど、不満そうではなかった。


 俺は槍の柄に耳を近づけた。


 こん。

 ……こ。


 まだ湿り気がある。

 ただ、泥を取ったことで音は少し戻っている。


「少し乾かせば、仮調整はできます。ただ、完全には一晩置いた方がいいです」


「また一晩か」


 ダリオが言う。


 レオルなら、そこで苛立ったかもしれない。


 でも、ダリオはすぐに続けた。


「分かった。待つ」


 俺は少し驚いた。


 ダリオはそれに気づいたらしく、苦笑する。


「そんな顔するなよ」


「すみません」


「いや、俺が今まで待たなかったんだよな」


 彼は槍を見下ろした。


「槍って、俺にとっては自分の腕みたいなもんだったんだ。だから、手元にないと落ち着かない。預けるのも嫌だった」


「分かります」


「でも、自分の腕なら余計に手入れしろって話だよな」


 ガンツさんが頷いた。


「ようやく少し分かったか」


「少しだけな」


「少しでいい。毎日少し分かれば、雑なままではいられん」


 ダリオは、どこか照れたように笑った。


「ガンツさん、たまにいいこと言うよな」


「たまにとは何だ」


「いつも怖いから」


「怖いくらいがちょうどいい」


 また、場が少し和らぐ。


 その時、作業小屋の方からセシアが出てきた。

 胸元には、仮修理を終えた魔力灯が下げられている。

 光は弱めだが、昨日よりずっと安定していた。


 彼女は槍の手入れをしているダリオを見て、少し微笑んだ。


「真面目にやっているのね」


「俺だってやる時はやる」


「いつもそうだと助かるわ」


「セシアまで厳しくなったな」


「見ていなかった分、これから見ることにしたの」


 ダリオは少し黙り、それから頷いた。


「そっか」


 セシアは、ガンツさんが布の上に並べた泥や金具を見た。


「そんなに入っていたの?」


「俺の槍、結構やばかったらしい」


「笑い事じゃないわ」


「分かってる」


 ダリオは真面目な顔で言った。


「昨日、湿泥蜥蜴を突いた時、穂先が流れた。あれ、腕じゃなくて槍のせいもあったんだと」


 セシアの顔が少し青くなる。


「戦闘中に外れていたら」


「危なかった」


 ダリオは自分で言った。


 その言葉を聞いて、ガンツさんがわずかに頷いた。


 自分の道具の危険を、自分で言える。

 それは、最初の一歩なのだろう。


 ミラが帳面を見直しながら言った。


「槍の点検表も、迷宮用魔道具の点検表と一緒にまとめられそうですね」


「武器も入れるのか?」


 ダリオが聞く。


「必要なら」


「いるな」


 ダリオは、今度は迷わず言った。


「俺みたいなのには、いる」


 ポロが紙を掲げた。


「槍の絵、できた!」


 そこには、槍の穂先、留め具、柄、石突きが描かれていた。

 石突きの部分だけ、なぜか大きく丸く描かれている。


「石突き、でかくないか?」


 ダリオが言う。


「大事ってガンツじいが言った!」


「大事だが、そんなにでかくはない」


 ガンツさんが言う。


「じゃあ、少し小さくする!」


 ポロは真剣に描き直し始めた。


 ダリオは、その様子を見て少し笑った。


「俺、子どもに助けられてるな」


「村では、できる人ができることをします」


 ミラが言った。


「ポロは絵で手伝っています。ハンナさんは畑と布。ガンツさんは鍛冶。エイルさんは音。私は記録」


「俺は?」


 ダリオが聞く。


 ミラは少し考えた。


「まず、自分の槍をきちんと拭くところから」


「そこからか」


「そこからです」


 ダリオは笑った。


「分かった。そこからやる」


 その返事は、軽かった。

 でも、逃げる軽さではなかった。


 次に、ガンツさんは槍の石突きを見た。


 槍の下端にある金具だ。

 普段あまり見られない部分だが、地面につけることが多いため、傷みやすい。


「ここも緩んでいる」


「そこも?」


 ダリオが驚く。


「槍を立てる時、地面に強く打ちつける癖があるな」


「ある」


「やめろ」


「はい」


「返事が早いな」


「今のは心当たりしかない」


 石突きの金具は、穂先ほど危険ではなかった。

 けれど、ここが緩むと槍全体の響きがずれる。


 俺が聞くと、確かに低い音が濁っていた。


 こん。

 ……ご。


「石突きも少し浮いています。ここが揺れると、槍を構えた時に全体が落ち着かないと思います」


 ダリオが目を見開く。


「それでか」


「心当たりがありますか?」


「ある。最近、構えた時に妙に重心が落ち着かなかった。俺の調子が悪いだけかと思ってた」


「道具の調子もあります」


「そういうの、今まで全部気合いでどうにかしてた」


 ダリオは苦笑した。


「気合いで金具は締まらん」


 ガンツさんが言う。


「今日、それ何回目だよ」


「お前が覚えるまで言う」


「じゃあ、まだ何回も言われそうだな」


「分かっているなら覚えろ」


「はい」


 ダリオは、少しずつ自分の槍のことを聞き始めた。


「迷宮から戻ったら、まず何をする?」


「乾いた布で穂先と留め具を拭く」


「濡れてたら?」


「袋に入れるな」


「泥がついていたら?」


「押し込まない。外へ逃がすように取る」


「石突きは?」


「地面に打ちつけない。立てる時は静かに」


「保管は?」


「壁にそのまま立てかけない。横にして乾かす。袋も干す」


 ガンツさんが腕を組んだ。


「半分は覚えたな」


「半分か」


「十分だ。昨日は一つも知らなかった」


 ダリオは槍を見つめた。


「俺、本当に何も知らずに使ってたんだな」


 その声には、軽口がなかった。


「強く突ければいいと思ってた。槍が鳴っても、まあ使えるからいいかって。袋が濡れてても、次もどうせ迷宮で濡れるから同じだろって」


 彼は、俺の方を見た。


「エイル、お前、前から俺の槍袋のこと書いてたんだよな」


「はい」


「読まなかった」


「はい」


「悪かった」


 短い謝罪だった。


 でも、ダリオらしい、まっすぐな言葉だった。


 俺は少しだけ考えた。


 第15話で、セシアに言ったことを思い出す。

 すぐに許すかどうかは、まだ分からない。

 でも、今見ようとしていることは分かる。


「今、見てくれているなら、それでいいです」


 俺が答えると、ダリオは少しだけ目を伏せた。


「助かる」


 ガンツさんが槍の根元を仮固定した。


「今日はここまでだ。一晩乾かす。明日、留め具を締め直す」


「明日まで槍なし?」


「なしだ」


「落ち着かねえな」


「なら、手入れ表を覚えろ」


「分かったよ」


 ダリオは、ポロが描いた槍の絵を受け取った。


 まだ少し歪んでいる。

 でも、見る場所はちゃんと分かる。


「これ、借りていいか?」


 ポロが目を輝かせた。


「いいよ! でも汚さないでね!」


「俺が言われる側か」


「道具を守る紙も道具!」


 ポロが胸を張って言う。


 ガンツさんが少しだけ笑った。


「覚えが早い」


「やった!」


 ダリオは紙を丁寧に折らず、そのまま両手で持った。


「汚さないようにする」


 その様子を、レオルが少し離れた場所から見ていた。


 彼はほとんど口を出さなかった。

 ただ、槍を預け、手入れを学ぶダリオを見ていた。


 セシアが魔力灯の点検表を持っている。

 ダリオが槍の絵入り点検表を持っている。

 ミラが記録し、ポロが絵を描き、ガンツさんが教え、俺が音を聞く。


 《白狼の剣》の二人は、少しずつ変わり始めている。


 残っているのは、レオルだ。


 彼の腰には、よく磨かれた長剣がある。

 表面は美しい。

 鞘も立派だ。

 勇者候補の剣士にふさわしい見た目をしている。


 けれど、俺の耳には、ほんのわずかな音が届いていた。


 き。


 剣そのものではない。

 鞘の内側。

 刀身が納まる場所に、細い擦れがある。


 たぶん、何度も急いで抜き差ししたせいで、内側の当たりが片寄っている。

 今すぐ危険ではない。

 けれど、放っておけば刃の片側に余計な負担がかかる。


 俺は、レオルの剣を見た。


 レオルも、それに気づいたようにこちらを見る。


「何だ」


「剣の鞘が、少し鳴っています」


 その場が静かになった。


 ダリオが思わず言う。


「レオルの剣も?」


 レオルの顔が険しくなる。


「俺の剣は問題ない」


 以前なら、その一言で終わっていた。


 俺も、たぶんそれ以上言えなかった。


 けれど今は違う。


「今すぐ壊れる音ではありません。でも、鞘の内側に擦れがあります。抜く時に、少し引っかかりませんか?」


 レオルの手が、わずかに剣の柄へ動いた。


 答えない。


 それが、答えのようなものだった。


 ガンツさんが低く言う。


「抜いてみろ」


「必要ない」


「必要かどうかは、音を聞いてから決める」


 レオルはガンツさんを見る。


 しばらく、二人の視線がぶつかった。


 やがて、レオルは小さく息を吐き、剣を抜いた。


 すらり。


 見た目には滑らかな動きだった。


 けれど、俺には聞こえた。


 き。


 ほんの小さな擦れ。


 セシアも気づいたのか、目を伏せた。

 ダリオは自分の槍の絵を握ったまま黙っている。


 ガンツさんは短く言った。


「鳴ったな」


 レオルは剣を見つめていた。


「……戦闘に支障はない」


「今はな」


 ガンツさんが返す。


「今は、か」


 レオルの声は低かった。


 彼は剣を鞘へ戻した。

 今度は、少しだけ慎重に。


 き。


 やはり鳴る。


 レオルの表情が固くなる。


 彼にとって、剣は自分の誇りそのものなのだろう。

 魔力灯や保存箱とは違う。

 それが鳴ったという事実は、簡単には受け入れられないはずだ。


「見ますか?」


 俺は尋ねた。


 レオルはすぐには答えなかった。


 長い沈黙の後、彼は言った。


「……明日でいい」


 それは拒絶ではなかった。


 今すぐ見せることはできない。

 でも、完全に否定もしない。


 そんな音だった。


 ガンツさんは何も言わなかった。

 セシアも、ダリオも黙っている。


 ミラだけが静かに帳面へ書いた。


「レオルさんの剣、鞘に擦れ音あり。本人、明日確認希望」


「希望とは言っていない」


 レオルが言う。


 ミラは顔を上げずに答えた。


「では、明日確認予定」


「……好きにしろ」


 ダリオが小さく笑いそうになり、慌てて口を押さえた。


 鍛冶場の前に、夕方の風が通る。


 水車が鳴る。


 こ、とん。


 防護鐘の余韻が、遠くで静かに揺れる。


 ごぉん。


 今日、ダリオは槍の手入れを覚え始めた。

 セシアは魔力灯の点検表を持った。

 レオルは、自分の剣が鳴っていることを否定しきれなかった。


 少しずつだ。


 道具も、人も、一度で変わるわけではない。


 それでも、聞こうとすれば、変わり始める音はある。


 俺はポロの絵入り点検表を見た。


 少し歪んだ槍。

 大きな丸印。

 泥には大きなばつ。


 その下に、ポロがたどたどしい字で書いていた。


『つかったら、みる。ぬれたら、ふく。へんなおとがしたら、いう。』


 俺は、その文字を見て笑った。


「いいですね」


「本当?」


「はい。すごく大事です」


 ポロは嬉しそうに紙を抱えた。


 ダリオがそれを覗き込み、真面目な顔で頷いた。


「俺にも分かる」


「ダリオさん用だもん」


「ありがとな、先生」


「先生!」


 ポロが目を輝かせる。


 ガンツさんがすぐに言う。


「調子に乗るな」


「はい!」


 また笑いが起きる。


 その中で、レオルだけが自分の剣に手を置いていた。


 彼は何も言わない。


 けれど、俺には聞こえた。


 き。


 鞘の奥で、小さな音がしている。


 明日、その音と向き合うかどうか。


 それは、レオル自身が決めることだった。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、ダリオの槍の手入れ回でした。


ただ強く突ければいい。

使えれば問題ない。

そう思っていたダリオが、ガンツの指導とエイルの音診断を通して、自分の槍が出していた小さな不調に気づき始めます。


ポロの絵入り点検表も、リント村修理工房らしい特色になってきました。


そして最後に、レオルの剣にも小さな異音が。

次回は、剣士レオル自身が、自分の誇りである剣の不調と向き合う回になります。


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