EP 6
愛の対比と、完成する鎖
翌朝。冷たい朝靄が立ち込める野営地に、ギデオンの苛立った声が響いた。
「立て、ダイヤ。出発の準備だ」
鉄格子の鍵が開けられ、乱暴に腕を引かれる。
寝不足と絶望で顔を蒼白にさせたダイヤが、よろめきながら外へ引きずり出された。
その後ろから、腹を押さえた銀河も引きずり出され、泥混じりの地面に放り投げられる。
「……ギデオン、お願いだ。彼だけは解放してくれ。私なら、お前の言う通りにするから……っ」
プライドも何もかも捨て、ダイヤは土下座をするように懇願した。
だが、ギデオンは蔑むような目で彼女を見下ろし、その顔のすぐ横の地面をブーツで強く踏み鳴らした。
「勘違いするな、欠陥品。お前に交渉する権利などない」
氷のような声が、ダイヤの心臓を締め付ける。
「お前は公爵家という鞘に収まってこその『剣』だ。自分の意思など持つな。実家を飛び出して賞金稼ぎだと? 笑わせる。テントで野宿し、ゴミのような飯を食い、明日の弾薬代に怯える毎日……。俺の庇護がなければ、お前はただの無能で哀れな女だということを、この数ヶ月で思い知っただろう?」
「っ……」
ダイヤの肩が震える。
ギデオンの言葉は、最も痛いところを正確に抉ってきた。自分の無力さ、自転車操業の惨めさ。正義を掲げても、結局はお金がなければ誰も救えなかったという現実。
「お前は俺の命令で敵を斬り伏せていればいい。それ以外に、お前の存在価値などないのだからな」
完璧な洗脳の言葉。
ダイヤの瞳から光が消え、深い絶望の底へと沈みかけた――その時だった。
「……やめて、ください」
血糊で真っ赤に染まったシャツを押さえながら、銀河が這うようにしてダイヤとギデオンの間に割って入った。
「彼女は、道具なんかじゃない……っ。ダイヤさんは、誰よりも優しくて、強くて……僕を、助けてくれたんだ……!」
「ちっ、まだ生きていたのかこのゴミ虫が」
ギデオンが苛立たしげにブーツを振り上げる。
銀河はわざと避けずにその蹴りを肩に受け、悲鳴を上げて派手に転がった。
「銀河っ!!」
「ダイヤ、次口を開けばこの虫ケラの頭を踏み潰すぞ。……馬を引いてこい。十分後に出発だ」
ギデオンは吐き捨てるように言い残し、自分の天幕へと戻っていった。
(……よし。見張りの私兵たちも、打ち合わせ通り『見て見ぬふり』を完璧にこなしてくれているね)
周囲の私兵たちが、無表情で明後日の方向を見ているのを確認し、銀河は内心で舌を出した。
「銀河、銀河っ……! ごめん、私のせいで、また……っ」
ダイヤが駆け寄り、銀河を抱き起こす。
彼女の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。過去のトラウマで心が完全に折れ、呼吸すら浅くなっている。
銀河は、そんな彼女の震える背中に、ゆっくりと腕を回した。
「……ダイヤさん」
銀河の声は、ひどく甘く、柔らかかった。
まるで、傷ついた幼子をあやす聖母のように。
「ダイヤさんは、剣なんかじゃないですよ。……ただの、とっても可愛い、優しい女の子です」
「え……?」
「毎日一人で、お腹を空かせて、無理して気を張って……辛かったですよね。でも、もう大丈夫ですよ。僕の前では、ただの女の子でいていいんです。……美味しいご飯を食べて、笑って、僕に甘えてくれれば、それでいいんです」
ギデオンの呪いを、根本から溶かして甘く塗り替える、究極の肯定。
ダイヤの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「あぁ……ああぁっ……!」
ダイヤは銀河の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。
『君のままでいい』と、すべてを許容してくれたこの温もりを、彼女はもう二度と手放すことなどできない。
「銀河、銀河君……っ。私、君がいないと、もう……生きていけないっ」
「はい。僕も、ダイヤさんがいないとダメですから。……ずっと、一緒にいましょうね」
銀河は優しく微笑みながら、ダイヤの金色の髪を撫でた。
――完璧だ。彼女の心は完全に僕のものになった。あとは、あの愚かな婚約者を舞台装置として使って、愛の証明を完成させるだけ。
だが。
ダイヤを抱きしめる銀河の虚空を見つめる瞳は、恐ろしいほどに冷え切り、ひどく寂しそうだった。
(……ほら、まただ。また、簡単に作れてしまった)
銀河は、胸の奥でポッカリと空いた暗い穴を見つめる。
(僕が【可哀想で弱い】から。僕が【優しくて甘い言葉】を囁いたから。……だから君は、僕に依存したんだ。僕という存在そのものを、無条件で愛してくれたわけじゃない)
もし、僕が「愛を試すためなら人間を何人も惨殺できる化け物」だと知ったら。
この完璧な計算を知ったら。
君もきっと、あの両親みたいに、僕を気味悪がって捨てるんだろう?
(なら、仕方ないよね。君が僕から離れようとしたら、死にたくなるくらい、深い鎖で繋いであげる)
銀河は、ダイヤの耳元でチュッと小さな音を立ててキスをした。
哀れな愛の破壊者は、自らの渇きを癒やせないまま、ただひたすらに他人を自分という泥沼に沈めていくのだった。




