EP 6
焦燥とバグ
深夜。ポポロ村の広場を埋め尽くしていたエメラルド・アース・ドラゴンの巨体は、村人たちの手によってすっかり解体され、食料庫へと収められていた。
宴の熱気は冷め、村は深い静寂に包まれている。
銀河にあてがわれた空き家のリビング。
魔法のランプが微かに照らすソファの上で、ダイヤは銀河の膝を枕にして、幸せそうに寝息を立てていた。銀河の服の裾を、絶対に離さないとばかりに固く握りしめたままで。
「…………」
銀河は、規則正しく上下するダイヤの肩を見下ろしながら、壁掛け時計の針の音だけを数えていた。
時刻は、深夜二時を回ろうとしている。
(……遅いな)
頭の片隅に、こびりついて離れない思考。
夕方、「ケルベロスを狩ってくる」と言い残してマッハの速度で飛び出していったウサギ耳の村長は、夜が更けてもまだ帰ってきていなかった。
「……あのお兄さん。まだ、起きてるんですか?」
キッチンの暗がりから、皿に残っていたドラゴンの骨の髄をちゅうちゅうと吸いながら、リーザが顔を出した。その表情には、いつもの底抜けに図太い食い意地はなく、明らかな不安が影を落としている。
「リーザさん。まだ起きてたんだ」
「……寝れませんよ。村長、いくらなんでも遅すぎます」
リーザは、しゃぶっていた骨をテーブルに置き、深刻な声で告げた。
「あのね、お兄さん。ケルベロスって、ただの凶暴な犬じゃないんですよ。地獄の業火を吐く三つの頭を持ってて、並の騎士団なら三個大隊が束になっても全滅する、『生きた災害』なんです。……いくら村長が規格外でも、単独で巣に乗り込むなんて、自殺行為ですよ」
「そう、なんだ。……でも、彼女なら大丈夫だよ。強いからね」
銀河は、いつものようにふんわりと柔らかい、心にもない『良い子』の微笑みを返した。
「……そうです、よね。村長だもん、絶対に帰ってきますよね……っ」
リーザは自分に言い聞かせるように呟くと、「私、外で待ってます」と言って、そわそわと家の外へ出て行った。
リビングに、再び静寂が戻る。
銀河は、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
ドクン。ドクン。
(……おかしいな)
心臓の鼓動が、普段よりわずかに早い。
手のひらに、じわりと冷たい汗をかいている。
(どうして、僕が焦る必要がある? 彼女が死んだなら、それまでの話だ。僕の言葉を無視して、勝手に暴走して、勝手に死ぬ。……そんなの、ただの馬鹿だ。僕の計算には、一ミリも影響しない)
銀河は、膝の上で眠るダイヤの髪を撫でた。
そうだ、僕にはもう、この安全で完璧な『依存』という鎖がある。僕を神様のように崇め、僕なしでは生きられない女がここにいる。
一方的な見返りを求めない、命がけの無償の愛なんて、気持ち悪いだけだ。理解できない。そんな理解不能なバグは、勝手に消滅してくれた方が、僕の盤面は整理される。
『痛むのには、慣れてるから。……どうせキャルルさんも、あの親みたいに僕を捨てるんでしょ』
夕暮れの公園で自分が放った言葉が、脳内でフラッシュバックする。
(……彼女は、僕のあの嘘のために。あのどうしようもない同情を引くための三文芝居のために、地獄みたいな魔獣の巣で、今も体を切り刻まれているのか?)
ドクンッ!!
心臓が、痛いほど大きく跳ねた。
銀河の端正な顔が、苦痛と苛立ちでぐしゃりと歪む。
(……ふざけるな)
銀河は、奥歯をギリッと噛み鳴らした。
(僕のトラウマを。僕の心の傷を。勝手に『肉』で解決できると思い込んで。勝手に同情して、勝手に僕のために命を懸けるな)
愛なんて、もっと脆くて、醜くて、簡単に壊れるものだ。
少し僕が優しくすれば縋り付き、僕が本性を見せれば怯えて逃げ出す。それが人間だ。
なのに、どうしてあの村長は、僕が突き放したのに、僕のために命を投げ出せるんだ。
(そんなの……僕の計算に対する、重大な反則じゃないか)
銀河は、ダイヤの頭をそっとクッションに乗せ、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳から、偽りの『良い子』の光は完全に消え失せている。
あるのは、理解不能な事象に対する強烈な怒りと、ドス黒く歪んだ、暴力的なまでの『執着心』。
「……勝手に死ぬな」
暗いリビングに、銀河の氷のような声が落ちた。
「君のその命も、感情も。僕に向けられたものなら……壊すのは、僕の権利だ。魔獣なんかに、僕の玩具を壊させてたまるか」
銀河は虚空に手を伸ばし、【無限収納】から『神銃ガイアリボルバー』と『天地雷鳴剣』を引き抜いた。
重い魔導の金属音が、静かな夜の空気を引き裂く。
彼は、まだスヤスヤと眠るダイヤを一瞥することもなく、音もなく窓枠に飛び乗った。
そして、月明かりも届かない漆黒の森――天魔窟の方角へと、自らが定めた『魔獣以外に暴力は振るわない』という枷を外すことも辞さないほどの、恐ろしい速度で跳躍した。
哀れな愛の破壊者は、自らの足元が致命的に崩れ始めていることに気づかないまま。
ただ一つ、「自分の所有物を奪われることへの理不尽な怒り」だけを原動力にして、夜の闇を切り裂いていった。




