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EP 10

底なしの沼

「……ひぃっ、あ、あぁ……ッ!!」

朝霧が立ち込める野営地。かつて傲慢の塊だったギデオン・バルトスは、泥にまみれ、自分の胸を何度も確かめながら、這いつくばって逃げ出していった。

一度は確実に止まったはずの心臓。その『死の記憶』だけを焼き付けられ、自分を撃ち殺したはずの女と、それを笑って蘇生させた怪物を前に、彼の精神は完全に崩壊していた。

「……終わりましたね、ダイヤさん」

銀河は、呆然と立ち尽くすダイヤの肩をそっと抱き寄せた。

彼の声はどこまでも透き通り、慈愛に満ちている。

「君は誰も殺していません。君の手は、今も綺麗なままだ。……良かった」

「あ……銀河君……っ。私、私は……」

ダイヤは、自分の右手を凝視した。

ギデオンの心臓を撃ち抜いた時の、あの重い反動。硝煙の匂い。殺意が成就した瞬間の、おぞましいまでの昂揚感。

それらすべてを、銀河がシュッと吹きかけたスプレー一本で『無かったこと』にされたのだ。

(ああ……この人は、神様だ。私の罪を、私の過去を、すべて消してくれた……)

ダイヤは震える手で、銀河のシャツを掴んだ。

もはや彼女にとって、銀河は守るべき年下の少年ではなく、自分の魂を握りしめている絶対的な『救世主』だった。

「……おーい、二人とも! 無事かい!?」

そこへ、騒ぎを聞きつけたポポロ村の自警団――キャルルとリーザが駆け込んできた。

「ひゃあぁっ!? 何ですかこの死体の山……じゃなくて、気絶した兵士の山は!?」

「キャルルさん、リーザさん……!」

銀河は、いつもの「弱々しい、困り果てた少年」の顔に戻り、ぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい、ギデオンさんが急に興奮しちゃって……。ダイヤさんが彼を説得してくれたんですけど、彼はショックでどこかへ走っていっちゃいました。……僕、怖くて何もできなくて」

銀河の言葉に、キャルルはピクリと兎耳を動かした。

彼女の視線が、ギデオンが逃げ去った跡と、ダイヤの呆然とした表情を往復する。

(……おかしい。ダイヤのあの顔、ただの『説得』を終えた顔じゃない。それに、空気中に漂うこの妙な魔力の残滓……。まるで、死が一瞬で反転したような……)

「村長、村長……っ! 落ちてます! 金貨が落ちてますよぉ!」

リーザが私兵たちが逃げ際にかき乱した荷物の中から、銀河がわざと残しておいた『ネット通販』の金貨を拾い上げて狂喜乱舞している。

「あはは、リーザちゃん、それは後でね。……銀河君、とりあえず村に戻ろうか。ダイヤちゃんも、顔色が真っ青だよ」

「……はい。お願いします、村長さん」

銀河は、ダイヤを支えるようにして歩き出した。

すれ違いざま、キャルルは銀河の瞳を覗き込もうとしたが――そこには、一ミリの澱みもない、純朴な「良い子」の瞳があるだけだった。

   ◆ ◆ ◆

数日後。ポポロ村にある銀河とダイヤの小さな家。

窓からはのどかな田園風景が見えるが、室内の温度はどこか歪んでいた。

「……銀河君。お茶、入れたわよ」

ダイヤが、銀河の隣に座り込む。

かつて凛々しく鎧を纏っていた「紅蓮の戦乙女」の姿は、そこにはなかった。

彼女は今、銀河が贈った『ネット通販』の柔らかな部屋着に身を包み、彼から一秒でも離れることを恐れるように、その袖を常に握りしめている。

「ありがとう、ダイヤさん。……今日は、もう外に出なくていいんですか?」

「……えぇ。私は、ここで君の世話をしていたいの。……君がいないと、私、自分が何をすればいいか分からないから」

ダイヤの瞳は、うっとりとした、熱を帯びた虚無に沈んでいた。

銀河のために引き金を引き、銀河によって罪を許されたあの日。彼女の自立心は、銀河への絶対的な『依存』という名の信仰にすり替わったのだ。

「……そう。嬉しいな」

銀河は、ダイヤの髪を優しく撫でる。

その口角は穏やかに上がっているが、その瞳は、窓の外の青い空を見つめたまま、一向に温まらない。

(あはは。成功だ。……彼女はもう、僕がいないと息もできない。僕がどんな化け物でも、彼女は僕を否定できない。だって、彼女は僕の『共犯者』なんだから)

だが、銀河の心の奥底にある「飢え」は、少しも満たされてはいなかった。

(……でも、これって本当に『愛』なのかな。僕が彼女を追い詰めて、救って、支配したから得られた結果だ。……結局、これも条件付きだ。僕が『救世主』じゃなくなったら、君はまた僕を捨てるんだろう?)

銀河は、自分の胸で幸せそうに微笑むダイヤを見つめる。

『誰か。……ねえ、誰か。僕のこの渇きを、壊れない愛で満たしてよ』

彼は、また一つ愛を壊し、一つ鎖を増やした。

それは救いであると同時に、彼にとっては終わりのない「試し」の始まりに過ぎなかった。

「……次は、誰の愛を試そうか」

銀河は、リーザが拾った金貨を見つめながら、静かに呟いた。

ポポロ村の穏やかな日常の裏で、底なしの沼が、ゆっくりと次の獲物を引きずり込もうと波紋を広げていた。

【第一章 紅蓮の戦乙女と、甘すぎる毒】 完

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