第六章 受注――王女の依頼を引き受けたら、塔の上に「あの男」がいた
王宮の廊下は、どこまで歩いても麦の匂いがしなかった。
磨き上げられた石の床に、千束の古い革靴の音が響く。壁には織物が掛けられ、天井からは鎖で吊られた燭台が下がっていた。昼間なのに蝋燭が灯されている。蜜蝋の甘い匂いがした。工場の事務所の、コピー用紙とトナーの匂いを、千束はなぜか思い出した。
イレーネ王女の部屋は、王宮の東の端にあった。
広くはなかった。机が一つと、椅子が三つ。壁一面の棚には、巻いた羊皮紙が隙間なく詰め込まれている。机の上には、王国の地図が広げられていた。ミルナ河が北から南へ、細い青い線で描かれている。
「座って」
王女は窓際に立ったまま言った。
千束は椅子の端に腰を下ろした。トマとリコは王宮の門の外で待っている。中に入れたのは千束だけだった。
「わたくしは、この国の倉奉行よ」
王女は地図に目を落とした。
「十五のときに任じられたわ。王国のすべての倉を預かる役目。でも、倉の鍵を握っているのは天命院で、倉の数を決めているのも天命院。わたくしの仕事は、天命院が決めた数に印を押すことだけ」
「名ばかり、とおっしゃっていましたね」
「ええ。名ばかりよ」
王女は振り返った。
「大寒の三年が告げられてから、十九日。王都の粉の値は四倍になった。河上の国境の村から、飢えの知らせが届き始めている。父上は天命院に、どうすればいいかと尋ねた。天命院の答えは、蓄えよ、だけ」
「蓄えれば、蓄えられない人の分がなくなります」
「そう言ったのは、あなたが初めてよ」
王女は机の引き出しを開け、一枚の小さな紙を取り出した。
千束の書いた現品票だった。孤児院へ配給した袋の、表の札。
「院長のヘルガから、これを預かったわ。番号と、最後の検算桁。わたくし、昨夜これを百回くらい足し算したの」
「百回も」
「合っていたわ。百回とも」
王女は札を指先でつまんだまま、千束を見た。
「天命の数は、一度も足し算できたことがない。どこから来たのかも分からない。でも、この紙切れの数字は、誰が足しても同じ答えになる」
王女は札を机の上に置いた。
「戸倉千束。倉奉行の書記になって。わたくしの代わりに、王国の倉を数えて。大寒に備えて何がどれだけあり、何がどれだけ足りないのか。それをわたくしに教えて」
千束は黙った。
受注だ、と思った。
客から注文が来た。品物は、王国の倉の数字。納期は、大寒が来るまで。数量は、王国のすべて。
前の場所なら一秒で数字を見ている。一秒で答えを決め、最後の一秒で目の置き場を探しているところだった。
千束は、王女の目から視線を外さなかった。
置き場が、見つからなかった。
「……条件があります」
「言って」
「数えることを、許してください。天命院が何と言っても、私たちが倉に入って袋を数えること。札をつけて記録を残すこと。殿下の名前で、許してください」
「許すわ」
「それから」
千束は膝の上で指を組んだ。
「納期の約束は、しません。いつまでに数え終わるか。数えた結果、冬を越せるかどうか。それは、数えてみなければ分かりません。分からないことは、約束しません」
王女の眉が、わずかに寄った。
「……あなた、変わった人ね」
「よく言われます」
「普通は、王族に頼まれたら、できますと言うものよ」
「できますと言って、できなかった人を知っています」
王女は千束を見つめた。何かを測るような目だった。
やがて、王女は小さく息を吐いた。
「いいわ。約束はしなくていい。その代わり、嘘もつかないで」
「嘘はつきません。数字は嘘をつきませんから」
「あなたは?」
千束は答えに詰まった。
王女はそれ以上、追わなかった。机の上の呼び鈴を鳴らすと、侍従が入ってきた。
「書記の任命状を。それから、天命院へ使いを出して。大宣託官がお会いになるそうよ」
王女は千束に向き直った。
「大宣託官は、札の魔女の噂を聞いて、あなたに会いたがっている。わたくしの書記になるなら、天命院への挨拶は避けられないわ」
「大宣託官は、どういう方ですか」
「わたくしも、顔を見たことはないの」
王女は窓の外を見た。王宮の屋根の向こうに、白い塔が細く伸びていた。
「でも、声はよく知っているわ。あの声で天命を告げられると、誰も逆らえないの」
◇
王宮の門を出ると、トマとリコが石の柱の陰で待っていた。
「どうだった」
リコが駆け寄ってきた。千束は懐から、蝋で封をした任命状を出して見せた。リコは字が読めないので、封蝋の王冠の印だけをじっと見つめた。
「書記になりました。倉奉行の」
「しょき?」
「王国の倉を数える係です」
「じゃあ、もう夜にこそこそしなくていいの」
「たぶん」
トマは杖に両手を重ねたまま、何も言わなかった。ただ、千束の声のほうへ顔を向けていた。
「これから、天命院の塔へ行きます」
「ひとりでか」
「呼ばれているのは、私だけです」
「そうか」
トマは杖の先で、石畳を一度だけ叩いた。
「足元に気をつけよ。高いところほど、足元は見えんものじゃ」
◇
塔の階段は、三百六十二段あった。
千束は数えながら上った。数えていないと、足が止まりそうだった。
壁には窓がなく、壁の燭台の灯りだけが、螺旋を描く石段を照らしている。案内の若い宣託官は、一度も振り返らなかった。白い長衣の裾が、千束の目の前で揺れていた。
最上階の扉は、黒い木でできていた。
宣託官が扉を叩くと、中から声がした。
「通せ」
あの声だった。
広場で、布の向こうから降ってきた声。顧客に最後のひと押しをするときの、少しだけ柔らかくなる声。
扉が開いた。
部屋は思ったより広く、明るかった。四方の壁に大きな窓が切られ、王都の屋根とミルナ河の流れと遠い山並みが見渡せた。部屋の真ん中に大きな卓があり、三つの国の地図が重ねて広げられていた。地図の上には、色のついた小石がいくつも置かれていた。
卓の向こうに、男が立っていた。
背が高かった。白い長衣の胸元を緩め、袖を肘までまくり上げている。黒い髪を後ろに撫でつけ、日に焼けた顔をしていた。三十を少し過ぎたくらいに見えた。
整った顔だった。千束は、その顔を知らなかった。
男は卓の上の小石を一つ指でつまみ、手の中で転がした。
それから、千束を見た。
頭のてっぺんから、古い革靴の先まで、一度だけ視線を走らせた。値踏みする目だった。
「戸倉」
千束の背中が、凍った。
「お前の『できません』は、こっちでも健在か」
男は笑った。
口の端だけを上げる、あの笑い方だった。朝会のドアを開けるなり三倍と言い、千束の資料を「できない理由の表」と呼んだ男の。
「……鷲尾さん」
「おう」
男は小石を地図の上に戻した。上流の国の、国境のあたりに。
「久しぶりだな。俺にとっては、三十三年ぶりだ」
千束は扉の脇に立ったまま、動けなかった。
案内の宣託官が、怪訝な顔で二人を見比べていた。男が手を振ると、宣託官は一礼して出ていった。扉が閉まる重い音がした。
「座れよ。長い階段だったろう」
「三百六十二段でした」
「数えたのか」
「数えないと、足が止まりそうでした」
男は声を上げて笑った。
「変わってねえな」
千束は卓の前の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。膝に力が入らなかった。
「どうして、ここに」
「お前と同じだよ。あの夜、死んだ」
男は窓の外を見た。
「気がついたら、赤ん坊だった。この国の、宣託官の家の三男坊だ。最初の何年かは、前のことは夢だと思ってた。五つのときに、全部思い出した。台風も、倉庫も、お前の顔も」
「……三十三年前に」
「ああ。俺は三十三年前に生まれ直した。お前は、三週間前にあの倉に落ちてきた。同じ夜に死んだのにな」
三十三年。
同じ夜に死んで、三十三年遅れて着いた。
千束は、自分の口が勝手に動くのを聞いた。
「三十三年の、リードタイム」
男は一瞬、きょとんとした。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「リードタイム。死んでから着くまでのか。お前、ほんとに筋金入りだな」
笑い声が、石の壁に反響した。千束は笑わなかった。
「天命は、あなたが告げているんですか」
「そうだ」
「十年あまり、一度も外れていないと聞きました」
「そうだ」
「どうやって」
男は笑うのをやめた。
卓に両手をつき、千束のほうへ身を乗り出した。
「戸倉。予言ってのはな、営業と同じだ」
「……」
「当てるもんじゃない。言ったことを、現実にするもんだ。大寒が来ると言えば、皆が蓄える。皆が蓄えれば、麦が足りなくなる。麦が足りなくなれば、ほら、大寒が来たのと同じだろう。天命は当たる」
「それは、当たったのではありません。起こしたんです」
「同じことだ」
男は肩をすくめた。
「客の欲しいに、無いは無い。欲しいと思わせれば、無いものも有るようになる。前の世界で、俺はそうやって売ってきた。棚を取ってきた。お前らの給料は、俺が取ってきた棚から出てたんだぞ」
「その棚のために、何人の土曜日が消えたか知っていますか」
「知らん。数えるのはお前の仕事だ」
男は笑った。悪びれた様子はなかった。
千束は膝の上で手を握りしめた。爪が掌に食い込んだ。
「あの夜のロットは」
千束は言った。
「〇九一七は、出荷されたんですか」
男の顔から、一瞬だけ表情が消えた。
「……覚えてねえよ」
男は窓のほうへ顔を向けた。
「三十三年前のことだ。覚えてるのは、お前が何か叫んでた顔だけだ」
千束は男の横顔を見た。
嘘か、本当か。顔を見ても分からなかった。前の場所でも、千束はこの男の顔を見たことがなかった。いつも、モニターの赤い線を見ていた。
ワシオは卓の上の地図に目を落とした。赤や白や黒の小石が、三つの国のあちこちに散らばっている。
「この石が何だか分かるか」
「……麦、ですか」
「そうだ。赤は王国の倉。白は商人の倉。黒は、まだ誰のものでもない麦だ」
ワシオは白い石を一つつまみ、王都から少し下流の、河の中洲のあたりへ移した。
「俺は帳簿をつけない。焚帳令があるからな。全部ここに入ってる」
ワシオは自分のこめかみを、指で二度叩いた。
「どこに何がどれだけあるか。誰が何を怖がってるか。誰に何を言えば、どの石が動くか。お前が紙に書いてることを、俺は頭でやってる。紙は燃えるが、頭は燃えねえ」
「頭は、間違えます」
「間違えても、誰も確かめられなけりゃ、間違いにはならねえよ」
千束は、中洲に移された白い石を見た。
何の意味があるのか、まだ分からなかった。ただ、その位置を目に焼きつけた。
「本題だ」
男は卓の上の小石を一つ取り、千束の前に置いた。
「俺の下につけ」
「……」
「お前の数字は正確だ。この国の誰より正確だ。札の魔女の噂を聞いて、すぐに分かった。そんな面倒くさいことをするのは、お前しかいねえってな」
男は小石を指で弾いた。小石は地図の上を転がり、王都の印の上で止まった。
「数字はお前が出せ。言葉は俺が売る。お前の正確な数字に、俺の声で天命をつければ、この国は思いどおりに動く。飢えさせたくないなら、飢えないように天命を出してやる。蓄えさせたいなら、蓄えさせてやる。どうだ」
「お断りします」
一秒。二秒。三秒。
千束は男の目を見て言った。
「数字は、売り物ではありません」
男は千束を見返した。
長い沈黙があった。窓の外を、鳥の群れが渡っていった。
「そうか」
男は体を起こした。
「じゃあ、競争だ」
「競争」
「俺は約束を売る。お前は数字を売れ。民がどっちを買うか、見てりゃいい」
男は卓を回り込み、千束の横を通り過ぎて、扉の前で立ち止まった。
「一つ、教えといてやる。この国の民はな、数字なんか読めねえ。読めるのは、約束だけだ。春までもつと誰かが言ってくれれば、それだけで眠れる。お前の数字は、誰も眠らせない」
男は扉に手をかけた。
千束は立ち上がった。
「鷲尾さん」
「この国じゃ、ワシオだ。天の鷲、って意味になるらしい。いい名前だろう」
ワシオは振り返り、笑った。
そして、右手の指を高く鳴らした。
乾いた音が、石の部屋に響いた。
「次の天命は、もう決めてある。秋の終わりに告げる」
男は扉を開け放った。
冷たい風が、階段から吹き上がってきた。
「王都の倉は、空になる」




