第七章 リードタイム――国境の船頭頭領は、毎朝竿を差し直す
「注文は四日で届く。麦は九日かかる」
国境の船着き場で、ネーヴァはそう言って竿を河に突き立てた。
大きな女だった。千束より頭一つ背が高く、肩も腕も船頭の男たちより太い。日に焼けた顔に、細かい皺が笑ったときの形のまま刻まれていた。髪は短く刈り込み、首に赤い布を巻いている。年は四十を少し越えたくらいだろう。
竿は、河の底に当たって止まった。
ネーヴァは竿に刻んだ目盛りを指でなぞった。
「三尋と半分。昨日より手のひら一枚ぶん浅い。上で雨が降らなかったんだな」
「毎朝、測るんですか」
「毎朝だよ。天命は今年の河を『水少なし』と言ったけどね。天命は河の底まで見ちゃくれない」
ネーヴァは竿を抜き、水を切った。滴が朝の光の中で散った。
「流れは読めん。だから毎朝、竿を差し直す」
千束は、手帳にその言葉を書いた。
王都を出て三日目の朝だった。
◇
国境へ行くと言い出したのは、千束だった。
書記の任命状を受け取った翌日、イレーネ王女の部屋で、千束は地図の上の青い線を指でたどった。王都カレドから河を上ると、三日で国境の村ハルトに着く。そこから先は山岳国ゾルハーデン。さらに九日上れば、ゾルハーデンの都がある。
「国境から、飢えの知らせが届いていると、殿下はおっしゃいました」
「ええ。ハルトの村長からの書状よ。麦が足りない、と」
「その書状は、いつ書かれたものですか」
王女は棚から羊皮紙を一枚取り出した。
「日付は……十二日前ね」
「書状は、早馬で何日かかりますか」
「四日、と聞いているわ」
「麦を船で送れば?」
「上りだから、三日」
「では、今日この書状を読んで麦を送っても、届くのは書状が書かれてから十五日後です」
王女は黙った。
「書状を書いた日から、届く日まで。注文してから品物が手元に届くまでの時間を、リードタイムといいます」
「りーど、たいむ」
「物が届くまでの、待ち時間です。この時間が長いほど、注文する側は不安になって多めに頼みます。届くまでに足りなくなったらどうしよう、と。十五日分足りなくなるかもしれないなら、二十日分頼んでおこう、と」
「……それが、悪いの」
「全員がそうすると、悪くなります」
千束は地図の上の、国境の村を指で押さえた。
「国境で何が起きているのか、私はこの目で見ていません。書状の数字は十二日前のものです。今日の数字は、誰も知りません」
「だから、行くの」
「はい。三日上って、見て、二日で下ってきます」
王女は千束を見つめた。
「約束はしないのね。いつ戻るとか」
「戻る予定は言えます。約束はしません」
王女は小さく笑った。困ったような笑い方だった。
「ダンを連れていって。あの大きな倉番。ひとりで国境へ行かせたら、わたくしが父上に叱られるわ」
リコは大倉に残ることになった。トマと二人で、札の仕事を続けるためだ。
「チヅカが落ちたら、ダンが拾うんだよ」
出発の朝、リコは船着き場でダンの袖を引っぱって言った。
「チヅカ、泳げなさそうだから」
「泳げます」
「ほんとに?」
「計算上は」
ダンが、鼻を鳴らした。
◇
ハルトは、河の両岸にまたがる小さな村だった。
手前の岸がアルメリク、向こう岸がゾルハーデン。河の真ん中に古い石の橋脚が三本だけ残っていて、昔は橋がかかっていたのだと分かる。今は渡し舟が行き来していた。
村は静かだった。
静かすぎた。家々の煙突から、煙がほとんど上がっていない。道端で遊ぶ子どもの姿もない。畑の麦はとうに刈られていて、切り株だけが冷たい風に揺れていた。
「刈った麦は、どこへ行ったんですか」
千束が聞くと、案内についてきた村の若者が肩をすくめた。
「天命の荷車が持っていきました。大寒に備えて、王都の倉に蓄えるからって」
「村の分は」
「天命の数だけ残せと言われて、残しました。でも、天命の数じゃ冬は越せない」
王都で天命院の使いが読み上げた言葉を、千束は思い出した。
周辺の村々より麦を集め、冬至までに倉を満たせ。
王都の倉を三倍にするための麦は、こういう村から運び出されていた。そして王都の倉は、もう物理的に満杯に近い。入りきらない麦は、どこへ行ったのか。
千束は、塔の部屋の地図を思い出した。
中洲に移された、白い石。
「倉守のエルマさんに、会えますか」
千束が言うと、若者の顔が変わった。
「……どうして、その名前を」
「トマという人から、聞きました」
大倉を出る前の夜、トマは千束に一つだけ頼みごとをした。ハルトに、昔わしが仕込んだ倉守がおる。エルマという。まだ生きておれば、わしの名を出せ。
エルマは、村のいちばん奥の、崩れかけた石倉の中にいた。
小さな老婆だった。腰が深く曲がり、白い髪を頭の上で団子にまとめている。千束がトマの名を出すと、老婆の皺だらけの顔が、くしゃりと歪んだ。
「トマ兄さんが……まだ生きてなさるのかい」
「生きています。毎晩、割符を刻んでいます」
「割符を」
エルマは震える手で、倉の奥の藁の山をかき分けた。
藁の下から、木の箱が出てきた。トマの床下の箱より、ひと回り小さい。蓋を開けると、乾いた木の匂いがした。
割符が、ぎっしりと詰まっていた。
「あたしも、刻んでたんだよ」
エルマは割符を一本取り出し、千束の手に握らせた。
「焚帳令のあとも、ずっと。兄さんが、いつか割符を合わせる日が来るって言ったからね。片方は村に残せって」
千束は割符を握りしめた。
二十年。
国境の村と王都の倉で、二人の老人が、誰にも見られずに同じ数を刻み続けていた。いつか、合わせる日のために。
「……合わせます」
千束の口から、言葉がこぼれた。
「いつか、必ず」
言ってから、千束は口を押さえた。
約束だった。
エルマは目を細めて笑った。
「兄さんみたいなことを言う子だねえ」
◇
エルマの倉を出ると、船着き場の小屋に、ネーヴァが紙の束を抱えて待っていた。
「あんた、数えるのが仕事なんだろう。これを見てごらん」
紙の束は、ゾルハーデン側の村々から船頭組合に届いた、麦の運び込みの頼み状だった。どの紙にも、村の名と、欲しい麦の袋の数が書いてある。
千束は小屋の床に座り込み、一枚ずつめくった。
同じ村から、三通届いていた。一通目に百袋。二通目に百五十袋。三通目に二百袋。日付は四日おきだった。返事が来ないうちに、不安になって数を増やし、また書いたのだ。
隣の村からも二通。その隣からも二通。
千束は手帳に村ごとの数を書き、足し合わせた。それから、エルマに聞いた国境沿いの村々の人の数と、一人がひと冬に食べる麦の量を掛け合わせた。
「……頼まれている麦は、ひと冬に要る量の五倍です」
「五倍」
「同じ村が何度も頼んでいます。届くのが遅いから、届く前に次を頼む。数を足して頼む。頼まれたほうは、全部が本当の注文だと思って、もっと上の村や商人に頼む」
ネーヴァは紙の束を見下ろした。
「じゃあ、本当に足りないのは」
「分かりません。この紙の数字は、怖さの大きさです。腹の減り方の大きさではありません」
ダンが小屋の戸口で、腕を組んだままつぶやいた。
「怖さは、数えられるのか」
千束は顔を上げた。
ダンが自分から話すのを、千束は初めて聞いた気がした。
「……数えられます。こうやって、注文の紙に化けたときだけは」
◇
その日の夕方、ネーヴァの船で河を渡った。
ゾルハーデン側の岸は、アルメリク側よりもっと痩せていた。山が河のすぐそばまで迫っていて、畑にできる土地がほとんどない。岩だらけの斜面に、段々に石垣を積んで、わずかな麦を育てている。
「この国は、麦の半分をアルメリクから買ってるんだよ」
ネーヴァは竿を操りながら言った。
「代わりに、山で掘った鉄と銅を下ろす。持ちつ持たれつってやつさ。それが今年は、アルメリクの麦が来ない。大寒に備えて、アルメリクが自分の倉に抱え込んだからね」
「ゾルハーデンも、蓄えているんですか」
「蓄えてるとも。天命は三つの国全部に告げられたんだ。こっちの村も三年分を抱え込もうとしてる。でも、抱え込む麦がない。だから、隣の村の倉を疑う。隣の国の倉を疑う」
岸の上に、兵士の姿が見えた。
槍を担いだ男たちが、十人ほど。岩の上に立って、こちらの船を見下ろしている。鎧の胸に、山の形をした紋章が刻まれていた。
「ハーゲン将軍の兵だよ」
ネーヴァが声を落とした。
「国境の砦に、毎日少しずつ兵が増えてる。アルメリクが麦を隠してるなら、取りに行くしかないって、将軍は言ってるらしい」
千束は兵士たちを見上げた。
兵士たちの頬も、こけていた。
「戦争に、なるんですか」
「さあね。わたしは河のことしか分からない」
ネーヴァは竿を河底に突き、船の向きを変えた。
「でも、腹の減った人間は、怖がりになる。怖がりは、先に手を出す」
船は流れに乗って、アルメリク側の岸へ戻り始めた。
「あんた、王都の書記なんだろう」
「はい」
「じゃあ、王都に戻ったら、何をするんだい」
「数えます」
「数えて、それから?」
「……記録します」
「記録して、それから?」
千束は答えられなかった。
ネーヴァは竿を引き抜き、水を切った。
「わたしはね、毎朝、客と約束して船を出すんだ。何刻にどこへ着く、ってね。河はわたしの言うことなんか聞いちゃくれない。外れる日もある。外れたら、謝って、また次の朝に約束して出る」
「外れると分かっていて、約束するんですか」
「外れると分かってるから、毎朝するんだよ」
ネーヴァは笑った。顔の皺が、笑ったときの形に深くなった。
「一度した約束を一生守るなんて、誰にもできやしない。毎朝し直すから、守れるのさ」
千束は手帳を握りしめた。
毎朝し直す約束。
前の場所で、千束は毎朝の朝会で計画を確認していた。計画は毎日崩れ、毎日組み直した。それなのに、千束は一度も、計画を約束だと思ったことがなかった。
崩れるものを、約束にしてはいけないと思っていた。
◇
二日後、ネーヴァの早船で王都へ下った。
下りは速かった。流れに乗って、両岸の景色が飛ぶように後ろへ流れていく。ダンは船の真ん中に座り込み、両手で船べりをつかんで目をつぶっていた。
「酔ったのかい、大男」
「酔ってない」
「顔が青いよ」
「生まれつき」
ネーヴァが腹を抱えて笑った。
千束は船首に座り、手帳を広げていた。国境の村で見た数字を書き込んでいく。刈り取られた畑の広さ。村に残された麦の袋の数。煙の上がっていない煙突の数。ゾルハーデンの兵の数。
最後のページを開くと、湿った札が一枚挟まっていた。
あの夜の、黄色い保留札。
インクはもうほとんど消えかけていた。上下逆さの「出荷」の二文字だけが、かすかに読める。
千束は札を手帳に挟み直した。
王都まで、あと半日というところで、河の真ん中に中洲が見えてきた。
細長い島だった。葦が茂り、その奥に石造りの倉が一棟だけ建っている。倉の壁に、何かの紋が描かれていた。遠くて形までは分からない。
「あの倉は、誰のものですか」
「さあね。昔は渡しの番小屋だったんだが、いつの間にか倉が建ってた。近づくなって、王都の船頭仲間には言われてる」
中洲。
塔の地図の上で、白い石が置かれた場所だった。
千束は身を乗り出した。
そのとき、葦の茂みが揺れた。
風を切る音がした。
「伏せな!」
ネーヴァの叫びと同時に、帆が裂けた。
一本の矢が、千束の頭のすぐ上を通り抜け、帆布を突き破って向こうへ抜けていった。二本目が船べりに突き刺さった。三本目が、ダンの足元の板に食い込んだ。
葦の中に、人影が見えた。弓を構えた男が、三人。四人。
ネーヴァが竿を河底に突き立て、全身の力で船を回した。船が大きく傾いた。
千束の体が、船べりから浮いた。
手帳を胸に抱えたまま、千束は冷たい河へ落ちていった。
水は、思っていたよりずっと冷たかった。
耳の中で細かな泡が鳴った。光が、頭の上で揺れながら遠ざかっていく。千束は黒い手帳を離さなかった。紙が水を吸って、胸の前で重くなっていく。
計算上は泳げる。
その計算に、晩秋の河の水の冷たさは、どこにも入っていなかった。




