第五章 トレーサビリティ――悪い粉をさかのぼったら、札の魔女と呼ばれた
孤児院の床に、子どもたちが並んで横になっていた。
ヘルガと年長の子が桶を運び、汚れた藁を替え、白湯を飲ませて回っている。酸っぱい匂いが部屋にこもっていた。泣いている子は少なかった。泣く力のある子は、まだましなほうだった。
トビは、昼のパンを食べていなかった。リコが持ってきた黒パンで腹がふくれていたからだ。
「よかった」
リコが言った。その声は、ちっともよかったようには聞こえなかった。
千束は台所の隅で、粉の袋の前にしゃがみ込んでいた。
袋は麻で、口が麻紐で縛られていた。半分ほど使われている。千束は中の粉を指ですくい、鼻に近づけた。
湿った匂いがした。かすかに、地下室の壁のような、甘くて黴びた匂い。
「この粉は、どこから届きましたか」
「河岸の粉屋のオスカーさんから。いつもの粉屋です。天命の配給で、決まった袋を届けてくれるんです」
「オスカーさんの粉は、どこの麦ですか」
「大倉の麦のはずです。天命で、孤児院の分は大倉から出ることになっていますから」
大倉の麦。
千束は唇を結んだ。
大倉の麦なら、自分たちが毎晩数えている麦だ。トマが手で一袋ずつ確かめている麦だ。黴びた麦が混じっていれば、トマの指が見逃すはずがない。
「明日、粉屋へ行きます」
千束は立ち上がった。
「どこで何が起きたか、順番にさかのぼります」
◇
オスカーの水車小屋は、王都の西を流れる支流のほとりにあった。
同じ支流に、水車小屋が七つ並んでいる。どの小屋も石の土台に木の壁を載せた造りで、大きな水車がゆっくりと回っていた。水が羽根板を叩く音と、石臼がこすれる重い音が、川面を渡ってくる。
オスカーは四十がらみの男で、髭にまで粉をかぶっていた。千束とリコとトマが小屋の戸口に立つと、男の顔がこわばった。
「孤児院の粉のことで、来ました」
「知らねえ。俺は天命の数どおりに挽いて、天命の数どおりに届けただけだ」
「大倉から、何袋受け取りましたか」
「天命で、二十袋」
トマが前に出た。
「二十袋。わしの倉から出した。三の倉の、東の山からじゃ」
トマは懐から、細い木の棒を一本取り出した。オスカーの目が見開かれた。
「割符……。焚帳令で、燃やされたはずじゃ」
「燃やされたとも。じゃから刻み直した。三の倉から出た袋は、全部ここに刻んである」
トマは指で刻みをなぞった。
「十日前。オスカーの小屋へ、二十。一つ、二つ、三つ……」
トマの指が、二十の刻みを数え終えた。
「二十じゃ。わしの倉からは、たしかに二十袋出た」
「だから、二十袋受け取ったって言ってるだろう」
「その二十袋を、見せてください」
千束が言った。
オスカーは渋い顔で、小屋の奥を指した。粉に挽く前の麦の袋が、壁際に積んであった。
トマが袋の山に手を伸ばした。
指が麻の目をなぞる。口紐の結び目に触れる。一袋。二袋。三袋。
七袋目で、トマの指が止まった。
「これは、わしの倉の袋ではない」
「何を言う」
「結び目が違う。大倉の倉番は、口紐を二回くぐらせて、右に引いて締める。わしがそう教えた。この袋は、一回くぐらせて左に締めておる」
トマは袋の口を開け、中の麦を一握りすくった。掌の上で粒を転がし、鼻に近づける。
「古い。去年より前の麦じゃ。湿気を吸って、黴びかけておる」
トマは残りの袋も確かめた。結び目の違う袋が、八つあった。
「二十のうち、八つが違う」
オスカーの顔から、血の気が引いていた。
千束は、男の髭についた粉を見ていた。粉の白の中に、灰色の筋が混じっていた。黴びた麦を挽いた石臼の、灰色だった。
「オスカーさん。大倉を出たときは、二十袋とも大倉の麦でした。ここに届いたときは、八袋が別の麦になっていました。途中で、誰かが入れ替えたんです」
「……」
「運んできたのは、誰ですか」
オスカーは長いあいだ黙っていた。
水車の音だけが続いていた。
やがて、男は床に座り込んだ。
「天秤の荷車だ」
かすれた声だった。
「大倉から粉屋に回る麦は、全部天秤商会の荷車が運ぶ。天命院のお墨付きだ。途中で商会の倉に寄って、何袋か入れ替えてくる。いい麦は商会が高く売る。悪い麦は、配給の袋に混ぜる。孤児院や救護所は、文句を言わねえからな」
「あなたは知っていたんですね」
「知ってたよ。黙ってりゃ、銀貨が一枚もらえた。断れば、うちの小屋に麦が回ってこなくなる」
オスカーは両手で顔を覆った。
「子どもが腹を下すほど悪い麦だとは、思わなかった」
リコが一歩前に出た。小さな拳を握りしめていた。
千束はリコの肩に手を置いた。
リコは千束を見上げた。何か言いたげだった。それから、拳をゆっくり開いた。
「孤児院の子たちに、ちゃんとした粉を届けてください。今日中に」
千束はオスカーに言った。
「三の倉から、二十袋出します。全部、大倉の結び目のまま。今度は、天秤の荷車を通さずに、私たちが運びます」
「そんなことをしたら、商会が――」
「商会には、天命どおりに二十袋届いたと言えばいい。嘘ではありません」
オスカーは顔を上げた。
千束は、自分の口が言ったことに少し驚いていた。
今日中に。
それは、納期回答だった。
◇
その日のうちに、リコと倉番の若者たちが二十袋を担いで支流沿いの道を往復した。
倉番の中に、ダンという十七の青年がいた。背が高く、肩の肉が盛り上がっていて、ほとんど口をきかなかった。ダンは一度に二袋を担いだ。誰に言われたわけでもなかった。
「ダン、それ重くない?」
リコが聞くと、ダンは少し考えてから答えた。
「重い」
それだけ言って、また歩き出した。
夕方には、孤児院の竈に新しい粉で焼いたパンが並んだ。四分の一個ずつ。数は増えなかった。ただ、腹を下す子はもう出なかった。
◇
「これからは、全部の袋に札をつけます」
その夜、倉番小屋で千束は言った。
トマとリコと、なぜかダンが、千束の前に座っていた。ダンは壁にもたれ、腕を組んで黙っている。
千束は手帳の後ろのページを一枚破り、小さな四角に切り分けた。ボールペンで、一枚目に数字を書く。
二一七―〇五―五。
「これが現品票です。品物にくっつける名札です。袋ごとに一枚。最初の三つの数字がロット番号。同じ日に同じ村から入ってきた袋を、ひとかたまりにして番号を振ります。次の二つの数字が、そのかたまりの中の袋の番号。五番目の袋、という意味です」
「最後の五は?」
リコが指さした。
「検算桁です」
「けんざん?」
「前の数字を全部足して、その一の位だけを書きます。二と一と七と、〇と五。足すと十五。一の位は五。だから最後に五を書きます」
「なんでそんなことするの」
「人の目は、数字を読み間違えるからです」
千束はペンの先で、紙を軽く叩いた。
「前にいた場所で、七と一を読み違えて、大きな失敗をしました。七百を百と読んだんです。それからは、自分の手で書く番号には、全部この一桁をつけています。もし誰かが七を一と読み違えたら、足し算が合わなくなります。合わなければ、どこかがおかしいと分かります」
リコは紙を受け取り、自分の指で数字の形をなぞった。
「これ、あたしにも書ける?」
「書けるようになります」
千束はもう一枚、同じ番号の札を書いた。
「札は二枚一組です。一枚は袋の外に結びつけます。もう一枚は、袋の口紐の下に縫い込みます」
「どうして二枚も」
「札は落ちるからです。運ぶ途中で擦れたり、雨で濡れたり、誰かに剥がされたり。外の札がなくなっても、中の控えが残っていれば、その袋がどこの何なのか分かります」
ダンが初めて口を開いた。
「剥がされたり」
「はい。剥がされたり」
ダンはそれ以上何も言わなかった。ただ、太い指で自分の膝をゆっくり叩いた。
「札に番号を書きます。どの袋がどこから来てどこへ行ったかを、全部手帳に書き残します」
千束はリコの目を見た。
「どの村から来た麦が、何番の袋になって、どの粉屋へ行ったか。全部書いておけば、悪い粉が出たとき、どの袋のせいか遡れます。逆に、悪い麦が見つかったら、同じかたまりの袋がどこへ流れたかを追いかけられます。遡るのも、追いかけるのも、記録があればできる」
千束は一呼吸置いた。
「これを、トレーサビリティといいます」
「とれー……」
「トレーサビリティ。たどれること、という意味です。どこから来て、どこへ行ったかを、たどれること」
リコは口の中で何度か繰り返した。舌がもつれた。
トマが、喉の奥で笑った。
「わしらは昔、それを『あとよみ』と呼んだ」
千束はトマを見た。
「あとよみ」
「麦の通った跡を読む、という意味じゃ。割符もあとよみの道具じゃ。片方を倉に、片方を村に残す。あとで合わせれば、麦がどこを通ったか読める。焚帳令の前は、どこの倉守もあとよみをしておった」
トマは懐の割符を、指でなぞった。
「娘の国でも、同じことをしておったんじゃな」
「……はい」
千束はうなずいた。
世界が違っても、麦がどこから来てどこへ行くかを知りたいと思う人間は、同じ道具にたどり着く。木を割るか、紙に番号を書くか、違うのはそれだけだった。
「娘。手を貸せ」
トマが手を差し出した。千束がその手に自分の手を重ねると、トマは割符を一本、千束の指の下に置いた。
「目を閉じよ」
千束は目を閉じた。
「指の腹で、なぞるんじゃ。爪を立てるな。力を抜け」
ざらついた木の感触。その上に、小さな溝が並んでいる。一つ。二つ。溝の深さが、一つずつ微妙に違った。
「刻みは、刻んだ者の手の癖が残る。強く刻む者、浅く刻む者。同じ者が刻んでも、急いだ日と落ち着いた日で違う。目では見えん違いも、指は覚える」
「……溝の、深さが違います。三つ目だけ、浅い」
「そうじゃ。その日は、わしの手が冷えておった」
千束は目を開けた。
トマの濁った目が、灯りの中で静かに光っていた。
「書いたものも同じじゃ。墨が消えても、筆の跡は残る。覚えておけ」
◇
札の仕事は、思ったより早く広まった。
千束はゴッツに、孤児院と救護所に回す配給の袋にだけ札をつけさせてほしいと頼んだ。
「天命の配給数どおりに届いたことを、札で示せます。天命院に何か聞かれたときに、倉長さんが天命を守った証拠になります」
ゴッツは渋い顔で千束を睨んだ。
それから、首の天秤の飾りを指でいじり、しばらく考えた。孤児院の件は、もう王都中の噂になっていた。黴びた粉の責任が、大倉にかぶせられかけていたのだ。
「……配給の袋だけだ。それ以外の袋には、触るな」
「はい」
配給の袋にだけ。千束はそう約束したわけではなかった。ゴッツがそう言っただけだ。
札は、ボールペンでは書かなかった。この世界に一本しかないペンの墨は、いつか尽きる。尽きたら、二度と手に入らない。千束はボールペンを日報だけに使うと決め、札には王宮から分けてもらった葦のペンと墨を使った。墨は乾くと水に強く、麻にもよく乗った。
十日のうちに、倉番たちは札の結び方を覚えた。リコは数字の形を覚え、ダンは袋の口紐の下に控えの札を縫い込む手つきが誰よりも速くなった。
配給の袋が粉屋に届くたびに、千束はリコに札を確かめさせた。番号を読み、検算桁を足し算する。合っていれば白い石を一つ、合わなければ黒い石を一つ。
十日間、黒い石は一つも出なかった。
天秤の荷車は、配給の袋に手を出さなくなった。
札の付いた袋を入れ替えれば、必ずばれる。そのことを、誰かが荷車の御者たちに教えたらしかった。
「札の魔女だってさ」
ある日、リコが市場から戻ってきて言った。
「チヅカのこと。河岸のパン屋のマルタさんが言ってた。大倉に、紙切れ一枚で麦の嘘を見抜く魔女がいるって」
「魔女ではありません」
「知ってる。チヅカは足が遅いもん。魔女なら箒で飛ぶでしょ」
リコは笑った。
ダンが、壁際で鼻を鳴らした。笑ったらしかった。
◇
二十二日目の夕方、大倉の船着き場に、一艘の小舟が着いた。
灰色の外套をまとった若い女が、一人で降りてきた。供は連れていなかった。フードを深くかぶっていたが、裾から覗く靴は、倉番の誰も見たことがないほど上等な革だった。
女は札の付いた袋の前で立ち止まり、札を指でつまんで長いこと眺めた。
「これを書いたのは、あなた?」
千束は袋を担いだまま、振り返った。
「はい」
「この最後の数字は何」
「検算桁です。前の数字を全部足して――」
「一の位を書く。読み間違いを見つけるため」
女は千束の説明を先回りした。
「孤児院の院長から聞いたわ。黴びた粉がどの荷車でどこで入れ替えられたか、袋から順にたどったそうね」
女はフードを下ろした。
金色の髪が夕日を受けて光った。十九か二十か。整った顔立ちだったが、目の下に疲れの影があった。左の人差し指に、王冠の紋を刻んだ指輪がはまっていた。
トマが、杖をついたまま膝をついた。ダンがそれに倣った。リコはきょとんとして立っていたが、ダンに腕を引かれて慌てて座り込んだ。
「イレーネ殿下……」
トマがかすれた声で言った。
「倉奉行のイレーネよ。名ばかりのね」
王女は千束を見た。
まっすぐな目だった。値踏みをする目ではなかった。何かに縋るような目だった。
「札の魔女。いいえ、戸倉千束と名乗っているそうね。王宮へ来なさい」
千束は肩の袋を下ろした。
王女は少しだけ声を落とした。
「大宣託官が、あなたを呼んでいる」




