第三章 需要予測――神の予言は外れない。だから市場が壊れる
「天命は、この十年あまり、一度も外れたことがない」
朗読の朝、トマはそう言った。
倉番小屋の戸口で、老人は杖に両手を重ねて立っていた。遠くから、低い鐘の音が繰り返し響いてくる。大聖堂の鐘だ。秋分の日の朝だけ、七十二回鳴らされるのだという。
「一度も、ですか」
「麦の出来も、河の水も、病の流行りも。言われたとおりになる。じゃから皆、天命を疑わん」
千束は眉を寄せた。
一度も外れない予測は、存在しない。
工場で毎月作っていた需要予測を思い出す。過去の出荷実績と季節の癖と営業が持ち込む噂話を混ぜて、来月何がいくつ売れるかを見積もる。どれほど丁寧に作っても、必ず外れた。上に外れるか、下に外れるか。問題は外れるかどうかではなく、どれだけ外れるかだった。だから外れたぶんを吸収するために在庫を持ち、毎週計画を直した。
十年外れない予測があるとしたら、理由は二つしかない。
よほど幸運か。
予測のほうではなく、現実のほうを動かしているか。
「チヅカ。早く。いい場所がなくなる」
リコが千束の袖を引いた。
大倉から大聖堂までは、河沿いの道を歩いて半刻ほどだった。
王都カレドは、ミルナ河の中流に広がる石の町だ。河岸には荷揚げ場が並び、平たい底の船が何十艘も舫われている。坂を上るにつれて家々の壁は白くなり、窓辺に花の鉢が増えていった。
どの通りの角にも、同じ木の板が立てられていた。
板には焼き印で、細かい数字がびっしりと並んでいる。リコに聞くと、天命帳の写しだという。この町のどの組合が、今年何を何個作るか。どの村が何を蒔くか。パン屋は一日に何個焼くか。すべてが、この板に書いてある。
「去年の板?」
「うん。今日、新しいのに替わる」
千束は板の前で足を止めた。
パン屋組合、一日あたり四千二百個。粉屋組合、一日あたり二百八十袋。孤児院への配給、子ども一人に一日半個。
生産計画だった。それも、国全体の。
ただ一つ、千束の知っている計画と違うところがあった。この板には、実績を書く欄がない。予定の数字だけが並び、実際にいくつ作れたかを書く場所がどこにもない。
予定と実績の差。予実差異。それを見ない計画は、外れたことに誰も気づかない。
外れたことに誰も気づかない予言は、たしかに一度も外れない。
◇
大聖堂前の広場は、人で埋まっていた。
石畳の上に、王都中の人間が集まっているようだった。粉で白い前掛けのパン屋。肩に竿を担いだ船頭。毛皮の帽子をかぶった商人。痩せた子どもたちが、大人の脚のあいだをすり抜けていく。
広場の北には、細く高い塔がそびえていた。天命院の塔だ。白い石で組まれた壁に窓はほとんどなく、てっぺん近くに一つだけ、張り出した露台があった。
露台には、白い布が垂れ下がっていた。
鐘が七十二回目を打ち終えた。
広場が、水を打ったように静まった。
布の向こうに、人影が現れた。白い長衣。顔は見えない。布越しに、背の高い男の輪郭だけが透けていた。
「大宣託官さまだ」
隣の男がささやいた。誰も顔を見たことがないのだという。宣託官の顔は神の顔であり、人の目に晒してはならない。
「お若い方だそうだよ」
男は声をひそめて続けた。
「三十を少し過ぎたくらいだとさ。二十歳で宣託官になって、二十八で大宣託官になった。あの方が天命を読むようになってから、天命は外れなくなったんだ。神に選ばれたお方さ」
「外れなくなった、のは、いつからですか」
「さあ。十年と少し前からかね」
千束は露台を見上げた。
十年と少し。トマの言った年数と、ぴたりと合っていた。
声が降ってきた。
よく通る声だった。張り上げているわけではないのに、広場の隅々まで届く。言葉の一つ一つに、ためらいがなかった。
「天命を告げる」
千束の背筋に、冷たいものが走った。
この声の運び方を、どこかで聞いたことがある。
「この冬より、大寒が来る。冬は三たび重なり、春は三たび遅れる。麦は凍え、河は閉ざされる。大寒の三年である」
広場がどよめいた。
悲鳴が上がった。誰かが膝をついた。子どもが泣き出した。
「恐れるな」
声が、どよめきを押さえつけた。
「天は、民の求めるものを決して欠かさぬ。求めよ。蓄えよ。家ごとに三年の麦を。村ごとに三年の種を。国ごとに三年の倉を」
そして、声は少しだけ柔らかくなった。
顧客に向けて、最後のひと押しをするときのように。
「民の欲しいに、無いは無い」
千束の指先から、血の気が引いた。
リコが千束の手を握った。
「チヅカ? 冷たいよ」
「……大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
客の欲しいに、無いは無い。
あの朝会で、あの男が言った言葉。偶然だろうか。この国にも、同じ言い回しがあるだけかもしれない。言葉は勝手に訳されて頭に入ってくる。似た意味の言葉が、似た形に訳されただけかもしれない。
露台の布が揺れた。人影は消えていた。
代わりに、露台の下の壇に若い宣託官たちが並び、新しい天命帳を読み上げ始めた。
「パン屋組合、一日あたり六千個。粉屋組合、一日あたり五百袋。王都大倉、備蓄三倍――」
数字が読み上げられるたびに、どよめきが波のように広場を渡った。去年の板より、どの数字も大きい。大寒に備えて、もっと作れ。もっと集めろ。もっと蓄えろ。
千束は耳を疑った。
パン屋に一日六千個焼けと言いながら、粉屋には五百袋しか割り当てていない。千束の頭の中で、勝手に計算が始まる。パン一個にどれだけの粉が要るか。五百袋で何個焼けるか。
足りない。最初から、足りない数字が配られている。
足りないと知っていて配っているのか。足りないことに誰も気づかないのか。
広場の人々は、もう走り出していた。
◇
午後、市場の粉の値段は三倍になった。
千束はリコと一緒に、河岸の市場を歩いた。
昨日まで山積みだった粉屋の店先が、空になっていた。店主が板に値段を書き直している。昨日は銅貨四枚だった一升の粉が、十二枚になっていた。それでも人は並んでいた。
「一人一袋だ。一人一袋!」
店主が怒鳴る。列の後ろのほうで、取っ組み合いが始まった。
「大寒が来るんだぞ。三年だぞ」
「うちは子どもが五人いる」
「天命が言ったんだ。蓄えろって」
千束は列の先頭から最後尾まで、人の数を目で数えた。百二十。後ろからまだ増えている。
パン屋の前では、焼き上がったパンが窯から出るそばから売り切れていた。パン屋の女主人は、粉の袋の底を叩いて首を振った。
「明日の分の粉が入らないよ。粉屋が出し惜しみしてる」
「出し惜しみ、ですか」
「粉屋だって怖いのさ。今売ったら、自分の家の分がなくなる」
女主人はマルタと名乗った。六十を過ぎているだろう。腕は太く、指の関節が粉で白く固まっていた。
「あんた、見ない顔だね。どこの子だい」
「大倉の倉番見習いです」
「倉番? じゃあ倉には麦があるんだろう。なんで粉屋に回ってこないのさ」
千束は答えられなかった。
マルタは鼻を鳴らし、窯の脇から焦げたパンを一つ取ってリコに放った。
「焦げてるのは売れないからね。持っていきな」
リコはパンを両手で受け止め、深く頭を下げた。
「明日からは、焦げたのも売ることになるかもしれないけどね」
マルタは窯の火を見つめたまま、笑わずにそう言った。
千束は通りの真ん中で立ち止まった。
始まった。
昨日まで、この市場の需要は平らだった。人は毎日だいたい同じだけパンを食べ、同じだけ粉を買う。食べる量は今日も変わらない。人の胃袋は、予言で大きくはならない。
変わったのは、買う量だ。
家は三年分を買おうとする。パン屋は明日の分を確保しようと、いつもの倍を粉屋に頼む。粉屋は自分の分を抱え込み、問屋に三倍を頼む。問屋は村に五倍を頼む。
一人の買い足しは小さい。けれど、その小さな揺れが、上流にさかのぼるたびに大きくなる。
ブルウィップ効果。
あの朝会で、千束が鷲尾に説明しようとした現象が、目の前で起きていた。
「チヅカ、何してるの」
「数えています」
「何を」
「この国が、これから飢える量を」
リコが黙った。
千束は自分の口を押さえた。言うべきではなかった。十三歳の子に聞かせることではない。
けれどリコは、怯えた顔ではなかった。小石の袋を服の上から握って、千束をじっと見上げていた。
「飢えるの? 天命は、蓄えろって言ったのに」
「みんなが蓄えると、蓄えられない人の分がなくなります」
「トビは、蓄えられない」
リコはそれだけ言って、走り出した。
河岸の孤児院の方角だった。
◇
夕方、大倉に天命院の使いが来た。
白い長衣の若い宣託官が、羊皮紙を広げて読み上げた。ゴッツが恭しく頭を下げ、倉番たちはその後ろに並ばされた。
「天命により、王都大倉は備蓄を三倍とする。周辺の村々より麦を集め、冬至までに倉を満たせ」
三倍。
千束は息を吸った。
三倍。来週までに。客の欲しいに無いは無い。
工場の会議室の、乾いた小麦粉の匂いがよみがえった。
七つの倉は、もう八割がた埋まっている。三倍の麦は物理的に入らない。入らない麦は、村に残るのではない。村から運び出されて、どこか別の場所に積まれる。そして村の倉は空になる。
千束は口を開きかけて、閉じた。
自分は倉番見習いだ。給金も出ない。昨日まで、この国の名前も知らなかった。この国の麦が誰の倉に入ろうと、自分の責任ではない。
関わらない。
数字は出せる。約束はしない。前の場所でも、ずっとそうしてきた。
「なぜ黙っておる」
背後で、トマが小さく言った。
「黙っていません。数えているだけです」
「数えて、それで終わりか」
千束は答えなかった。
「二十年前もな、同じようなことがあった」
トマは見えない目を、倉の黒い瓦のほうへ向けた。
「天命が凶作を告げて、皆が蓄えた。わしら倉守は、割符で数を合わせて、足りぬ村に麦を回そうとした。そうしたら、天命院が焚帳令を出した。人が数えるのは神を疑うことじゃ、とな。帳面も割符も、広場で燃やされた」
「それで、どうなったんですか」
「冬に、河下の村が三つ空になった」
トマはそれ以上、何も言わなかった。
使いの宣託官が去ったあと、リコが戻ってきた。目の縁が赤かった。
「トビのパン、半分の半分になった」
「……」
「孤児院の院長さんが、天命院から言われたって。大寒に備えて、配るのを減らせって。冬至まで、子ども一人に一日四分の一個」
四分の一個。
千束は頭の中で、七歳の子どもが一日に必要な量と比べた。比べるまでもなかった。
「チヅカは、計算上、足りるんでしょ」
リコは千束を睨んでいた。
「トビは、計算上、足りないよ」
千束は何も言えなかった。
手帳の今日の欄に、市場の行列の人数と粉の値段と孤児院のパンの数を書いた。書けば書くほど、数字は冷たくなった。
最後の行に「未確定」と書こうとして、ペンが止まった。
結局、書いた。
◇
その夜、千束は眠れなかった。
藁の寝床を抜け出し、倉番小屋の裏へ出た。月が明るかった。七つの倉の黒い瓦が、濡れたように光っている。
大倉の裏門のほうで、車輪の軋む音がした。
千束は倉の陰に身を寄せた。
荷車が三台、裏門から出ていくところだった。荷台には麻袋が山積みにされ、上から粗い布がかぶせてある。馬の蹄には布が巻かれていて、石畳の上でほとんど音を立てなかった。
門の脇に、ゴッツが立っていた。御者の一人から小さな革袋を受け取り、手の中で重さを確かめている。革袋の中で、硬い金属がこすれ合う音がした。
最後の荷車が、千束の目の前を通り過ぎた。
月の光が、荷台の横腹を照らした。
焼き印が押されていた。
二つの皿が釣り合った、天秤の紋。
ゴッツの首に下がっていた飾りと、同じ形だった。
千束は数えた。一台に袋が二十。三台で六十。三の倉の床に残っていた、引きずった跡。天命数との差異、六十八。
荷車は河岸の闇へ消えていった。蹄の布がこすれる音も、やがて夜の水音に溶けた。
背後で、小石がこすれ合う音がした。
振り向くと、リコが立っていた。小さな布袋を、胸の前で両手に握りしめていた。
「チヅカ。あたしも、見た」
リコの声は震えていなかった。震えていたのは、千束の膝のほうだった。




