第二章 現品票――盲目の老倉守は、数える女を拾った
「吊るせ」
倉長のゴッツは、千束の顔をろくに見もせずに言った。
太った男だった。指に銀の指輪を三つはめ、首には天秤の形をした小さな飾りを下げている。千束が連れてこられたのは、倉の入り口に建てられた石造りの番小屋だった。机の上には木の札が一枚立てられていた。
札には、焼き印で数字が刻まれていた。
五百。
「三の倉に忍び込んだ盗人だ。天命院の倉を荒らす者は吊るす。決まりだ」
「何も盗っていません」
千束は言った。両手を後ろで縛られている。縄が手首に食い込んで痺れていた。
「この服を見ろ。どこの国の者だ。黒ずくめで、妙な紐を首に巻いて」
「ネクタイではありません。スカーフです」
「何を言っておる」
「すみません。こちらの話です」
自分でも何を言っているのか分からなかった。言葉は口から出ると同時に、この国の言葉に変わっていた。耳に入る言葉も、知らない響きのまま意味だけが頭に届く。考える前に通じてしまうのが、かえって気味が悪かった。
ゴッツが兵士に顎をしゃくった。
兵士が千束の腕をつかんだ。
「待たんか」
しわがれた声がした。
番小屋の入り口に、老人が立っていた。
背は曲がっていたが、肩幅は広かった。白く濁った両目が、千束のいるあたりを見ているようで、見ていなかった。右手に節くれだった杖を持ち、左手を戸口の柱に置いている。
「トマ爺。引っ込んでおれ」
「三の倉は、わしの受け持ちじゃ。わしの倉で吊るす者を、わしが見んでどうする」
「見えんだろうが」
兵士が笑った。トマと呼ばれた老人は笑わなかった。
杖の先で床を探りながら、トマは千束の前まで来た。乾いた麦の匂いがした。この人の服にも、手にも、麦の匂いが染みついている。
「娘」
「はい」
「三の倉に、袋はいくつある」
千束は瞬きをした。
「……袋の数、ですか」
「倒れておったなら、見たじゃろう」
千束は目を閉じた。
梁から差す光。麻袋の山。
一つ目の山は縦に五つ、横に六つ、高さ八段。段ごとに向きを互い違いにした、崩れにくい積み方だった。五かける六で三十。三十かける八で二百四十。
二つ目の山は、壁際で幅が一列狭かった。縦に四つ、横に六つ、高さ八段。四かける六で二十四。二十四かける八で百九十二。
三つ目の山はなかった。三つ目の山があるはずの場所には、床に袋を引きずった跡だけが、白い粉の筋になって残っていた。
「四百三十二です」
千束は目を開けた。
「二百四十と、百九十二。山は二つでした。三つ目の山を置く場所に、引きずった跡があります」
番小屋が静まり返った。
ゴッツが、机の上の木札を見た。焼き印の五百を。
兵士の一人が、吹き出した。
「五百だぞ。天命数は五百だ。何を言っておるんだ、この女は」
「天命数」
千束はその言葉を繰り返した。
「それは、誰が数えた数ですか」
兵士の笑いが止まった。
ゴッツの顔が赤くなった。
「数えた、だと」
「はい。帳簿の数と実物の数は、ずれるものです。私の前いた場所では、毎月実物を数えて、ずれを確かめていました。棚卸といいます。ずれが大きいときは、記録の漏れか、数え間違いか――」
千束は言葉を切った。
ゴッツの右手が、首の天秤の飾りを強く握っていた。
「――あるいは、誰かが持ち出したかです」
「黙れ!」
ゴッツが机を叩いた。焼き印の木札が倒れた。
「天命数を疑うか。神が定めた数を、人の目で数えるだと。不信心者め。焚帳令を知らんのか」
「知りません」
「ならば教えてやる。吊るす前にな」
トマの杖が、床をこつんと打った。
「ゴッツ」
「なんだ」
「この娘を吊るせば、王宮の書記が来る。盗人がどの倉で何を盗ったか、調べに来る。そのとき三の倉の袋を、誰かが数えるかもしれんぞ」
ゴッツの口が閉じた。
トマは見えない目を、ゴッツのいるあたりへ向けたまま続けた。
「わしは何も言わん。わしの目は何も見えんからの。じゃが、王宮の書記の目は見えるぞ」
長い沈黙があった。
ゴッツの指が、飾りから離れた。
「……好きにしろ。その女は爺さんの預かりだ。何か盗んだら、爺さんごと吊るす」
「それでよい」
トマは杖で千束の足元をさぐり、縄の結び目に触れた。節くれだった指が、見えているように正確に結び目をほどいた。
手首に血が戻ってきた。千束は痺れた指を握ったり開いたりした。
「娘。名は」
「戸倉、千束です」
「チヅカ。妙な名じゃな。舌が転びそうじゃ」
「よく言われます」
トマは喉の奥で笑った。
兵士たちが顔を見合わせて槍を下ろした。ゴッツは倒れた木札を拾い上げ、袖で何度も拭いてから、机の上に立て直した。焼き印の五百が、さっきより少し斜めになっていた。
「わしの目の代わりに、倉を数えてもらう。倉番見習いじゃ。飯と寝床は出す。給金は出んぞ」
「十分です」
千束は言ってから、自分で少し驚いた。
十分です、と迷わずすぐに言えた。できません、ではなく。
死にかけたあとの人間は、少しだけ判断が速くなるのかもしれない。
◇
倉は七つあった。
王都カレドの北の外れ、ミルナ河の船着き場に面して、石造りの細長い建物が七棟並んでいる。屋根は黒い瓦で、どの棟の扉にも天命院の印が焼き付けられていた。円の中に、目が一つ描かれた印だ。
王都大倉。王国アルメリクの麦の半分が、ここに眠っているという。
「大倉に袋を運ぶのは、あたしたち倉番の仕事」
昼過ぎ、千束の前に麻袋を担いだ少女が現れた。
痩せた子だった。歳は十三だと言った。灰色の短い髪を布で縛り、裸足で石畳を歩いている。袋は少女の体の半分ほどもあるのに、足取りはしっかりしていた。
「リコ。トマ爺に、あんたの面倒を見ろって言われた」
「よろしくお願いします」
「変なしゃべり方」
リコは袋を下ろすと、腰に下げた小さな布袋を揺らした。中で何かがじゃらじゃらと鳴った。
「それは」
「石」
リコは布袋を開けて見せた。親指の先ほどの、丸い小石がいっぱいに詰まっていた。白いのと、黒いのがある。
「袋を一つ運んだら、白い石を一つこっちに移す。十個たまったら、黒い石を一つ。あたし、字が読めないから」
「黒が十の位、ですね」
「十の、くらい?」
「白が一つずつ、黒が十ずつ。その数え方は正しいです。とても」
リコは首をかしげた。それから、少しだけ得意そうに鼻を鳴らした。
「でも、天命院の人に見つかったら怒られる。数えるのは不信心だって」
「どうして数えると不信心なんですか」
「知らない。神様はぜんぶ知ってるのに、人が数えるのは神様を疑うことだから、って。焚帳令のときに、ぜんぶの帳面と割符が燃やされたんだって。あたしが生まれる前」
リコは石の袋を服の中に押し込んだ。
「だから、ないしょ」
千束は黙ってうなずいた。
この国では、誰も数えない。
数えるのは神様の仕事で、神様の数は天命院が木札に焼いて配る。倉には天命数の札だけが立っていて、実物と合っているかどうかを確かめる人はいない。確かめることが、罪になる。
帳簿がない。棚卸がない。現品票もない。
千束は自分の胸ポケットに触れた。手帳と、ボールペン。そして湿った一枚の札。
ここでは、この三つが禁制品なのだ。
倉番の夕飯は、大麦の粥だった。
木の椀に半分ほど。塩気が薄く、ところどころに刻んだ蕪の葉が浮いている。七つの倉に麦が何千袋も眠っているのに、倉番の椀は半分だった。
リコは粥を三口で飲み干すと、配られた黒い丸パンを服の内側にしまった。
「食べないんですか」
「トビにあげる」
「トビ?」
「弟。七つ。河岸の孤児院にいる。孤児院のパンは、この半分なの」
リコは自分の手で、パンを二つに割る仕草をした。
「天命数で決まってるんだって。孤児院には、子ども一人に一日半個。神様が決めた数だから、足りなくても足りてることになってる」
千束は自分の椀を見下ろした。
足りなくても、足りていることになっている。
帳簿上の在庫と、実際の在庫。千束が毎月見てきたずれと、同じ形をしていた。ただ、この国のずれは工場の会議室ではなく子どもの胃袋の中で起きている。
千束は黙って、自分のパンもリコの膝の上に置いた。
「……いいの?」
「私は、計算上、足ります」
リコは変な顔をした。それから、パンを二つとも服の中にしまって、初めて歯を見せて笑った。
◇
夕方、トマは三の倉の奥に千束を連れていった。
倉の中は薄暗く、梁から下がった油皿の灯りが、袋の山の影を壁に揺らしていた。
「娘。わしの目のことを、気にしておるじゃろう」
「……はい」
「二十年前に、熱の病でな。以来、光しか分からん」
トマは袋の山に手を当てた。掌を広げ、麻の目をなぞるように撫でる。
「じゃが、袋は手で分かる。この袋は西の村の麦じゃ。粒が小さくて固い。こっちは河下の村。湿り気がある。わしは四十年、ここで袋を担いできた」
千束は老人の手を見た。指の腹が厚く、硬くなっている。その指先が、袋の縫い目をなぞり、口紐の結び目を確かめていく。
「娘は、数えるのが好きか」
「好きではありません」
「では、なぜ数える」
「数えないと、落ち着かないんです。数えれば、何が足りないかが分かります。足りないと分かっていれば、できない約束をしなくて済みます」
トマの手が止まった。
「できない約束」
「はい。前の場所で、私はずっと『できません』と言ってきました。数字を出して、できないものはできないと」
「それで、誰が助かった」
千束は答えに詰まった。
トマは袋から手を離し、千束のほうへ顔を向けた。濁った目が、灯りを受けて鈍く光った。
「数えるだけじゃ、腹は膨れん」
「……」
「数えたら、誰かと約束せい。何袋あるから、冬を越させてやる、とな。数えるのは、約束を守るための支度じゃ。支度だけして飯を作らん料理人を、わしは知らん」
千束は唇を噛んだ。
「数字は出せます。約束はしません」
トマは何も言わなかった。
ただ、ふん、と鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのか、千束には分からなかった。
その夜、千束は倉番小屋の藁の寝床で手帳を開いた。
油皿の灯りの下で、ボールペンを走らせる。日付の欄に、少し迷ってから「一日目」と書いた。
三の倉、実数四百三十二。天命数五百。差異、六十八。引きずった跡あり。倉長ゴッツ、天秤の飾り。
リコ、小石で数える。白が一、黒が十。
トマ、袋を手で読む。
最後の行に、いつもの二文字を書いた。
未確定。
ペンを置くと、隣の寝床から寝息が聞こえた。リコだった。握りしめた小さな布袋から、小石が一つこぼれて、藁の上で白く光っていた。
◇
夜更け、千束は誰かに肩を揺すられて目を覚ました。
「娘。来い」
トマだった。油皿も持たず、杖もつかず、闇の中に立っていた。
見えない人には、灯りがいらないのだ。
千束はトマの袖をつかみ、三の倉の奥へ進んだ。真っ暗だった。袋の山の角に膝をぶつけ、千束は声を殺して呻いた。トマは一度も何にもぶつからなかった。
倉のいちばん奥の壁際で、トマはしゃがみ込んだ。
床板を指で探り、ある一枚の端に爪をかけて持ち上げた。
板の下に、空洞があった。
トマはそこから、両腕で抱えるほどの木の箱を引き上げた。蓋を開けると、乾いた木の匂いがふわりと立ちのぼった。
千束は手探りで箱の中に触れた。
細長い木の棒が、ぎっしりと詰まっていた。一本一本の表面に、小さな刻み目が並んでいる。棒の片側は、刃物で縦に割られたように平らだった。
「これは」
「割符じゃ」
トマの声は、闇の中でひどく静かだった。
「麦が倉に入るたびに、一袋につき一つ刻む。刻んだ棒を縦に割って、片方を倉に、片方を麦を持ってきた村に残す。あとで二つを合わせれば、刻みがぴたりと揃う。揃わねば、どこかで誰かが嘘をついておる」
「……焚帳令で、燃やされたはずでは」
「燃やされたとも。わしの目の前で、四十年分の割符が燃やされた」
トマは箱の中の割符を一本取り出し、指で刻みをなぞった。一つ、二つ、三つ。指は止まらなかった。
「じゃから、わしは刻み直した。二十年、ひとりで」
千束は息を止めていた。
「わしが二十年、数え続けた跡じゃ」
闇の中で、トマの指が刻みを撫でる、かすかな音だけが続いていた。




