第十七章 在庫引当――目の前に麦があるのに、誰にも出せない
牢番は、ハンスという名の年寄りだった。
朝と夕方に、木の椀に入った薄い粥を運んでくる。腰が曲がっていて、鍵束を腰に下げて歩くたびに、じゃらじゃらと鳴った。千束の顔をろくに見ずに椀を格子の下から差し入れ、空になった椀を黙って引き取っていく。
三日目の朝、ハンスは椀を差し入れたあとで、格子の前から動かなかった。
「あんた、札の魔女なんだってな」
「……そう呼ばれています」
「河岸の孤児院に、孫娘がいるんだ。親がいなくてな」
千束は顔を上げた。
ハンスは格子の向こうで、自分の鍵束を見下ろしていた。
「秋の終わりに、孫が言ってた。パンが一個もらえたって。団子を練る手伝いをしたら、一個だって。四分の一じゃなくて一個だって。あの子が、あんなに嬉しそうな顔をしたのは、久しぶりだった」
「……」
「今朝、孫のところへ行ってきた。またパンが四分の一に戻ってた」
ハンスは鍵束を握った。
「大倉の麦は、もう誰にも出せないんだとさ。引き当てられちまったから、だと」
「引き当て」
「天命院の偉い人が言ってた言葉だ。わしにはよく分からん」
千束は、椀の中の薄い粥を見下ろした。
引当。
前の場所でも、毎日使っていた言葉だった。倉庫にある在庫を、特定の注文のために押さえておくこと。押さえた分は、帳簿の上では、もうその注文のものになる。ほかの注文が来ても、目の前の棚に品物が並んでいても、出せない。
「大倉の麦は、何に引き当てられたんですか」
「軍だと。上流の国と戦になったときのために、兵の糧にする分。それから、天命院の聖なる倉へ移す分。それで全部だと」
「孤児院の分は」
「ないんだと」
ハンスは格子から離れた。
「目の前に麦の倉が七つも並んでるのに、孫のパンは四分の一だ。わしには、わけが分からん」
足音が、階段を上っていった。
千束は、椀に手をつけなかった。
粥は、冷えていった。
◇
昼過ぎ、もう一つの足音が下りてきた。
軽い、急いだ足音だった。
格子の向こうに現れたのは、灰色の外套のフードを深くかぶった女だった。初めて大倉の船着き場に一人で降りてきたときと、同じ外套だった。
フードの下から、金色の髪がこぼれていた。
「……殿下」
「声を落として」
イレーネ王女は格子の前に膝をついた。ハンスに小銭でも握らせたのだろう、階段の上で鍵の鳴る音が遠ざかっていった。
王女の顔は、青ざめていた。目の下の影が、評定の前よりずっと濃くなっていた。
「大倉の麦が、引き当てられたわ」
「牢番から聞きました」
「軍に四割。天命院に六割。父上の印で。わたくしには、もう止める力がないの。倉奉行の印は、父上に取り上げられたわ」
王女は格子をつかんだ。
「戸倉。わたくし、どうすればいいの」
千束は藁の上に座ったまま、王女を見上げた。
答えが、なかった。
答えを出すための手帳も、ペンも、なかった。
「……私には、分かりません」
「あなたなら、分かるでしょう。数えればいいのでしょう。いつもみたいに」
「数えるものが、ありません」
千束は自分の空っぽの両手を見下ろした。
「数えても、私の数は、もう誰も信じません。私は嘘を書きました。嘘を書いた者の数は、数ではありません」
「戸倉」
「約束しなかったら、よかったんです」
千束の口から、言葉がこぼれた。
「十日で十万袋、間に合わせると言わなければ。救援麦を、四十袋送ると決めなければ。最初から、何も約束しなければ。私が約束しなかったら、誰も傷つかなかったのに」
王女は、格子の向こうで黙った。
長い沈黙だった。
「……逆よ」
王女の声は、静かだった。
「あなたは、約束しなかった。評定の日、父上に、春まで持つと約束できるかと聞かれて。あなたは、約束しなかった」
「……」
「だから、わたくしたちは、代わりに嘘を約束したのよ。天命院の約束を。あの男の約束を。あなたが本当の数字で約束してくれなかったから、父上は嘘の約束を買うしかなかったの」
千束は顔を上げた。
王女の目が、格子の向こうで光っていた。泣いてはいなかった。泣くのをこらえている目だった。
「それに」
王女は唇を噛んだ。
「ダンの名を書いたのも、約束から逃げたからよ」
「……」
「本当のことを書いて、自分の名前を差し出して。それでも仕組みは守る、子どもたちのパンは守ると、わたくしに約束する。あなたは、それをしなかった。約束するのが怖かったから、ダンの名を書いて、自分は残ったのよ」
千束は、何も言い返せなかった。
王女の言うとおりだった。
「でも、わたくしも同じよ」
王女の声が、少しだけ揺れた。
「あの報告書を読んだとき、わたくし、分かっていたの。ダンが取り違えたんじゃないって。あなたの顔を見れば分かった。だから、見てと言ったの。あなたが見てくれたら、父上に渡すのをやめるつもりだった」
「……」
「あなたは見なかった。わたくしは、それを言い訳にして、父上に渡した。戦を止めるために、誰かの名前が要ったから。わたくしも、ダンを売ったの」
王女は格子から手を離した。
立ち上がり、フードを深くかぶり直した。
「年明けの朗読まで、あと六日よ」
王女は千束を見下ろした。
「六日のうちに、わたくしは、わたくしにできることをするわ。あなたは」
王女は言葉を切った。
それから、少しだけ笑った。疲れた、困ったような笑い方だった。
「あなたは、あなたにできることを見つけて。牢の中でも、数えられるものはあるはずよ。あなたなら」
足音が、階段を上っていった。
千束は、王女の消えた格子の向こうを、いつまでも見ていた。
◇
夕方、格子の窓の外に、裸足の足が現れた。
昨夜と同じ、小さな足だった。足の横に、杖の先はなかった。
「……リコ」
返事はなかった。
かわりに、格子の窓の隙間から、何かが落ちてきた。藁の上に、ぽとりと落ちた。
小さな布袋だった。口が、固く縛ってあった。
千束は袋を拾い上げ、口を開けた。
乾いて固くなったパンのかけらが、いくつも入っていた。
リコの、安全在庫だった。
「トマ爺が、持ってけって」
リコの声が、窓の外から聞こえた。
怒っている声ではなかった。けれど、許している声でもなかった。
「チヅカ、粥を残してるって、牢番のじいさんが言ってた。食べなきゃだめだって、トマ爺が」
「……これは、トビの分です」
「トビの分は、また貯める」
「でも」
「チヅカが言ったんでしょ。その袋は正しいって」
リコの足が、石畳の上で少しだけ動いた。
「手をつけない分って、何かあったときに使うんでしょ。今、何かあったから使うの。それだけ」
千束は布袋を胸に抱えた。
喉の奥が、熱くなった。
「ダンは」
「倉に戻ってきた。何もしゃべらない。前からしゃべらないけど、もっとしゃべらない」
「……そうですか」
「天命院の人が、今夜、大倉の中庭で焚帳をやるって。王都中の札を集めてる。あたしたちが結んだ札も、全部外されて、中庭に積まれてる」
リコの声が、少しだけ震えた。
「あたしが字を覚えた札も」
千束は目を閉じた。
「トマ爺は、割符の箱を守るって。三の倉から動かないって。あたしも、一緒にいる」
「リコ。危ないです」
「チヅカに言われたくない」
リコは言った。
それから、少し黙った。
「あたし、札で字、覚えた。一と二と三と、全部。三〇八も読める。〇一も、四〇も読める」
「……はい」
「だから、焚帳で燃やされても、あたしの頭の中の札は燃えない」
千束は目を開けた。
格子の窓の外で、裸足の足が向きを変えた。
「パン、食べてね」
足音が、遠ざかっていった。
千束は布袋から、パンのかけらを一つ取り出した。
固かった。口の中で、ゆっくりとふやけていった。麦の味がした。リコが毎日少しずつ、弟のために残してきた麦の味だった。
千束はかけらを一つだけ食べて、袋の口を縛り直した。
残りは、手をつけなかった。
◇
日が落ちてから、格子の窓の外で、低い口笛が聞こえた。
千束が窓の下に駆け寄ると、窓の隙間から、大きな日焼けした顔が覗き込んでいた。
「生きてるかい、書記さん」
「……ネーヴァさん」
「声がでかいよ」
ネーヴァは地面に這いつくばって、格子の窓に顔を寄せていた。首の赤い布が、ほどけかけていた。左の腕に、汚れた布が巻かれていて、黒い染みが滲んでいた。
「その腕は」
「中洲の矢さ。夜のうちに抜けてきた。天秤の船が中洲を見張ってて、上りも下りも、船頭組合の船は通さないってんでね。こっちは小舟で葦の中を這ってきた」
「どうして、王都に」
「エルマ婆さんに頼まれたのさ」
ネーヴァはあたりを見回し、誰もいないのを確かめてから続けた。
「時間がない。話だけ聞きな」
ネーヴァは声を低くした。
「あんたが送った割符は、ちゃんとエルマ婆さんに届いた。手紙もね。婆さんは、四十袋の麦が届くのを待ってた。札と割符を合わせて、数を確かめろって、あんたの手紙に書いてあったからね」
「……届かなかったんですね」
「届かなかった」
ネーヴァはうなずいた。
「天秤の船は、ハルトの船着き場を素通りしたんだよ。婆さんは岸に立って見てた。船は止まらずに、真っすぐ向こう岸の、ゾルハーデンの村の船着き場に着いた。そこで袋を下ろして、アルメリクの救援麦だって言って置いてった。ハルトの村は、一袋も受け取ってない」
千束の指が、格子をつかんだ。
「エルマさんは、それを見ていた」
「見てた。船が何刻に通ったかも、帆の紋も、覚えてる。婆さんは目がいいからね。トマ爺とは違って」
ネーヴァは笑った。それから、すぐに笑いを引っ込めた。
「向こう岸で毒麦騒ぎが起きたって聞いて、婆さんは真っ青になった。あの麦は、ハルトを通ってない。割符とも合わせてない。それを誰かに言わなきゃいけないって。それで、わたしに頼んできたのさ。王都の札の魔女に、伝えてくれって」
千束は、息を吸った。
割符の、もう片方。
四十の刻み。
それから、天秤の船がハルトを素通りしたのを見ていた証人。
「ネーヴァさん。エルマさんを、王都に連れてこられますか。割符の片方と一緒に」
ネーヴァは眉を寄せた。
「婆さんを? あの年で、矢の飛んでくる中洲を抜けて?」
「年明けの天命朗読の朝までに。広場で、ハーゲン将軍の前で、割符を合わせたいんです。トマさんの片方と、エルマさんの片方を」
ネーヴァは黙った。
格子の窓の外で、夜風が石畳の上を吹き抜けていった。
「今から上って、ハルトまで三日。下りで二日。それだけで五日だ。年明けの朝まで、あと六日」
「一日しか、余りません」
「中洲を、上りと下りで二回抜けなきゃならない。風向き次第で、下りも三日かかる。河口はベルカの船がふさいでるから、上で何かあっても逃げ場がない」
ネーヴァは、千束を見た。
「間に合うかどうか、分からないね」
「……はい」
「約束は、できないよ」
千束は格子をつかんだまま、うなずいた。
当然だった。千束が同じことを頼まれたら、三秒で「できません」と言っていた。
ネーヴァは、しばらく千束の顔を見ていた。
それから、急に笑い出した。日焼けした顔の皺が、笑ったときの形に深くなった。
「いや、約束する」
「え」
「約束するって言ったんだよ。年明けの朝までに、婆さんと割符を、この王都に連れてくる」
「でも、今、分からないと」
「分からないさ。河は読めない。だから、毎朝、約束し直す」
ネーヴァは格子の隙間から、太い指を一本差し入れた。
千束の指に、触れた。ざらざらした、竿だこのある指だった。
「今夜、出る。明日の朝、河の上で竿を差して、もう一回約束する。あさっての朝も、その次の朝も。外れそうになったら、外れそうだって、誰かに言付ける。それでも、毎朝、約束し直す」
ネーヴァは指を引っ込めた。
「一度した約束を守るんじゃない。毎朝、守れる約束をし直すんだ。前に、言ったろう」
ネーヴァは立ち上がった。
膝の土を払い、首の赤い布を結び直した。
「書記さん。あんたも、何か約束しな。わたしが戻ってくるまでに」
ネーヴァは、それだけ言って、夜の闇の中へ消えた。
千束は格子の窓の下に、長いあいだ立っていた。
何か約束しな。
何を。
牢の中で手帳もペンもなく、誰にも信じてもらえない数しか持っていない者が、何を。
◇
夜更け、千束は藁の上で、眠らずに座っていた。
リコの布袋を、膝の上に置いていた。
格子の窓の外が、かすかに明るかった。
月ではなかった。
赤い光だった。北の空の低いところが、ぼんやりと赤く染まっていた。大倉の方角だった。焚帳の火だ。王都中の札と帳面が、大倉の中庭で燃えている。千束の手帳も、その中にあるのかもしれない。
千束は、目を閉じなかった。
赤い光を、見ていた。
しばらくして、その赤が、少しずつ大きくなっていくのに気づいた。
中庭の焚き火にしては、広がりすぎていた。北の空の低いところ全体が、赤く脈打っていた。黒い煙が、赤い光の中に柱のように立ちのぼっていた。
遠くで、鐘が鳴り始めた。
大聖堂の鐘ではなかった。もっと高く、もっと速い、火事を知らせる鐘だった。
一つ。また一つ。王都のあちこちの鐘楼が、次々に鳴り始めた。
格子の窓の外を、人の足が駆けていった。
「大倉だ!」
「大倉が燃えてる!」
千束は、格子の窓に飛びついた。




