第十八章 廃棄――盲目の倉守は、煙の中で最後の刻みを数えた
札は、よく燃えた。
リコは三の倉の扉の隙間から、中庭の火を見ていた。
大倉の中庭の真ん中に、紙の山が積まれていた。王都中から集められた札と帳面だった。リコの背丈より高い山だった。天命院の宣託官が羊皮紙を広げ、声を張り上げて読んでいた。
「不浄なる人の記録を、ここに廃棄する。神の数を疑う者の手跡を、炎に還す」
松明が、紙の山に投げ込まれた。
火は、下のほうから広がった。乾いた紙が端から黒く丸まり、赤い縁をつけてひらひらと舞い上がった。舞い上がった紙が、夜空の中で小さな火の粉になった。
リコは扉の木に、額を押しつけていた。
あの中に、自分が結んだ札がある。白い石を数えながら、口紐に結んだ札。字を覚えるために、何度も指でなぞった札。三〇八。〇一。四〇。
燃えていく紙の中に、ひとつだけ、見覚えのある形が見えた気がした。黒い表紙の、小さな手帳。
「トマ爺」
リコは振り返った。
「チヅカの手帳、あの中にある」
「ないぞ」
トマは、三の倉の奥の暗がりに座っていた。杖を膝の上に横たえ、背中を壁にもたせかけていた。
「ない?」
「ダンが拾うてきた」
リコは目を丸くした。
暗がりの中から、もう一つの大きな影が身じろぎをした。ダンだった。壁際に、膝を抱えて座っていた。
「夕方、天命院の荷車が帳面を運んできた。積む前に、荷台から一冊抜いた」
ダンはそれだけ言った。
「わしが頼んだんじゃ」
トマが言った。
「黒い表紙で、指の幅くらいの厚さで、ほかの帳面より紙が薄い手帳を探せと。ダンは黙って行って、黙って持ってきた」
トマは懐を叩いた。
「今は、割符の箱の中じゃ。床下のな」
リコはダンを見た。
ダンは膝に顎を載せて、中庭の火を見ていた。何も言わなかった。
「ダン、チヅカのこと、怒ってないの」
「怒ってる」
「じゃあ、なんで」
ダンは少し考えた。
「手帳は、悪くない」
それきり、ダンは黙った。
中庭で、紙の山が崩れる音がした。火の粉が、どっと夜空に舞い上がった。
北から、風が吹いていた。
◇
最初に燃え移ったのは、倉の裏の籾殻の山だった。
秋のあいだ団子を練るのに使って、ずいぶん低くなっていた山だった。それでも、乾いた籾殻は、まだリコの膝の高さほど残っていた。そこに、風に乗った火の粉が落ちた。
籾殻は、炎を上げずに燃えた。
赤い熾火が、山の中を這うように広がっていった。団子を燃やしたときと同じだった。低く、長く、消えずに。
誰も、気づかなかった。
宣託官たちは中庭の火を見ていた。倉番たちは天命院の兵に倉の前から追い払われていた。籾殻の山の中の赤い熾火は、誰にも見られないまま倉の裏の壁の古い木の柱に届いた。
柱が、燃え始めた。
リコが煙の匂いに気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。
「トマ爺。焦げくさい」
トマが、顔を上げた。
鼻をひくつかせた。見えない目が、倉の奥の壁のほうを向いた。
「……裏じゃ。籾殻じゃ」
トマは杖をつかんで立ち上がった。
「ダン。皆を起こせ。水を運ばせよ」
ダンが倉の外へ飛び出していった。
リコは扉の隙間から、倉の裏のほうを見ようとした。見えなかった。煙が、倉の中に流れ込んできていた。目にしみた。
倉の奥の壁の、梁のあたりが、赤く光り始めていた。
「トマ爺、出よう」
「箱じゃ」
トマは杖を手放した。
杖が、石の床に転がった。
トマは両手を前に伸ばし、倉の奥へ歩き出した。煙の中へ。見えない目は、最初から何も見ていなかった。だから、煙の中でも、トマの足取りは変わらなかった。袋の山の角に手を当て、指で麻の目をなぞって、一歩ずつ奥の壁際へ。
「トマ爺!」
「来るな。見えん者に煙は関係ない。じゃが、見える者は、煙で見えんようになる」
トマの声が、煙の向こうから聞こえた。
リコは、袖で口を覆って、トマの背中を追った。
来るなと言われても、行くしかなかった。
◇
倉の奥は、熱かった。
梁の上を、炎が這っていた。黒い瓦の隙間から、火の粉が雨のように降ってきた。袋の山の上に落ちた火の粉が、麻の表面を焦がして、小さな黒い穴を開けた。
トマは壁際で膝をついていた。
床板の一枚に、爪をかけていた。指先が、煙の中で正確に板の端を探り当てていた。
板が持ち上がった。
トマは床下の空洞に両腕を差し入れ、木の箱を引き上げた。重かった。トマの腕が震えた。
「リコ。おるか」
「いる」
「箱の片側を持て」
リコは箱の端に手をかけた。熱かった。木の箱の角が、もう煙で温まっていた。
「扉は、どっちじゃ」
「後ろ。まっすぐ」
「数えよ。袋の山の数で、教えよ」
リコは煙の中で目を細めた。
袋の山が、黒い影になって並んでいた。棚番の石灰の数字は、もう煙で見えなかった。
でも、リコは覚えていた。
十九の倉を数えた四日間で、三の倉の山の並びは、全部頭に入っていた。
「右に、山が三つ。それから、左に二つ。その先が、扉」
「よし」
二人は、箱を挟んで歩き出した。
一つ目の山。リコが言った。
二つ目の山。トマの手が、袋の角に触れた。
三つ目の山。頭の上で、何かが軋む音がした。
「トマ爺、上!」
梁の一本が、燃えながら傾いていた。
トマは、見なかった。見えなかった。リコの声を聞いて、箱を自分の体のほうへ引き寄せた。リコの手から、箱が離れた。
トマは箱を胸に抱えて、リコの体を、肩で前へ押し出した。
リコは、つんのめって床に転がった。
背中の後ろで、重いものが落ちる音がした。火の粉が、どっと舞い上がった。
リコは床に手をついて、振り返った。
燃える梁が、袋の山に斜めにもたれかかっていた。その下から、トマが這い出してきた。両腕で箱を抱えたまま、膝で這っていた。
トマの背中の衣が、焦げていた。
「トマ爺」
「扉は」
「左に、二つ。その先」
「数えよ」
リコは泣きながら、数えた。
一つ目の山。
二つ目の山。
扉。
二人は、扉の外の、冷たい夜の空気の中に転がり出た。
◇
三の倉の前の石畳に、トマは座り込んだ。
箱を、膝の上に抱えていた。
倉番たちが、桶で水を運んでいた。ダンが、誰よりも大きな桶を両手に提げて、燃える倉の裏手へ走っていった。天命院の宣託官たちは、中庭の火の前で立ちすくんでいた。誰かが、二の倉も燃えていると叫んでいた。
リコは、トマの隣に膝をついた。
「トマ爺。怪我は」
「ない」
「背中、焦げてる」
「焦げておるだけじゃ」
トマは咳き込んだ。
長い咳だった。煙を吸い込んだ胸の奥から、湿った音がした。咳がおさまると、トマは肩で息をした。
息が、浅かった。
「リコ」
「いる」
「手を貸せ」
リコは、トマの手に自分の手を重ねた。
トマの手は、熱かった。それから、少しずつ冷たくなっていくような気がした。
トマは箱の蓋を開けた。
中に、割符がぎっしりと詰まっていた。二十年分の、刻みだった。その一番上に、黒い表紙の手帳が載っていた。
トマは手帳の下を探り、一本の割符を取り出した。
新しい割符だった。縦に割られた、片方だけの。
トマはリコの指を取り、その割符の上に置いた。
「なぞれ」
リコは、なぞった。
ざらついた木の感触。その上に、小さな溝が並んでいる。
「数えよ」
「一。二。三」
リコは数えた。指で、溝を一つずつ。
「十。十一。十二」
トマが、うなずいた。
「二十。二十一」
煙の匂いの中で、リコの指が、溝を渡っていった。
「三十九。四十」
リコの指が、割符の端で止まった。
「四十」
「そうじゃ」
トマの声は、かすれていた。
「救援麦の割符じゃ。四十の刻み。もう片方は、エルマが持っておる」
「知ってる」
「合わせたら、四十と四十が揃う。揃えば、嘘が分かる」
「うん」
トマの手が、リコの指の上で、かすかに動いた。
割符の刻みを、リコの指ごと、ゆっくりなぞった。
「あとよみ、できるな」
リコは、うなずいた。
声が出なかった。うなずくのが、トマに見えないことは分かっていた。でも、トマはリコの指の動きで、分かったようだった。
「娘に、伝えよ」
「チヅカに?」
「数えたら、約束せい」
トマは、空を見上げた。
見えない目に、燃える倉の赤い光が映っていた。
「わしは、エルマと約束した。二十年前に。焚帳の火の前で。いつか、割符を合わせる日が来る。それまで、刻み続けると」
「……うん」
「わしの分は、守れた。二十年、刻んだ。あとは、合わせるだけじゃ」
トマは、小さく笑った。
「合わせるのは、娘の仕事じゃ。わしは、数え方しか教えてやれん」
トマの手から、力が抜けていった。
リコは、その手を両手で握った。
「トマ爺」
「……少し、眠い」
「寝ちゃだめ」
「夜通し、働いたでな」
トマの頭が、リコの肩にもたれかかった。
軽かった。四十年、袋を担いできた人の頭とは思えないほど、軽かった。
リコはトマの頭を肩に載せたまま、燃える倉のほうを見ていた。
船着き場から倉の裏まで、人が一列に並んでいた。河の水を汲んだ桶が、手から手へ渡されていく。倉番たちだけではなかった。前掛けをつけたままのマルタがいた。窓を割られた店から、そのまま駆けてきたのだろう。白い眉のガンツが、粉屋の若い衆を率いて、列の真ん中で桶を受け渡していた。網を繕っていた年寄りの船頭たちが、河岸で水を汲んでいた。
誰が呼んだのでもなかった。
十九の倉を数えた四日間に、倉の前に集まった顔ぶれだった。
天命院の宣託官たちは、もう中庭にいなかった。白い長衣の裾を翻して、塔のほうへ去っていったのを、リコは見ていた。
桶の列は、夜明けまで途切れなかった。
「トマ爺。みんな来てる」
リコはトマの耳もとで言った。
「マルタさんも、ガンツさんも、船のじいちゃんたちも」
トマの唇が、かすかに動いた。
「……数えよ」
「え」
「何人、来ておる」
リコは列を見た。数えた。白い石も黒い石もなかったけれど、指で。
「七十と、三人」
「そうか」
トマは目を閉じたまま、笑ったようだった。
「数えた甲斐が、あったの」
空の東の端が、白み始めていた。
燃える倉の赤い光と、夜明けの白い光が、トマの顔の上で混ざり合っていた。
トマの指は、まだ、割符の刻みの上に置かれていた。四十の刻みの、最後の一つの上に。
リコは、その指を最後まで動かさなかった。
朝の光が、三の倉の前の石畳を、少しずつ白く塗っていった。
◇
ダンが戻ってきたのは、夜がすっかり明けてからだった。
顔が煤で真っ黒だった。両手の包帯が、焦げて黒くなっていた。三の倉の裏の火は、倉番たちが総出で桶の水をかけて、ようやく消し止めたところだった。
ダンは、石畳の上に座り込んだリコと、リコの肩にもたれたトマを見た。
ダンの足が止まった。
長いあいだ、ダンは動かなかった。
それから、ゆっくりと膝をついた。トマの顔をのぞき込み、トマの指が割符の上に置かれているのを見た。
ダンは、何も言わなかった。
大きな手で、トマの焦げた背中の衣を、そっと撫でた。一度だけ。
それから、リコの頭に手を置いた。
三の倉の屋根は、半分が落ちていた。二の倉の裏の壁も、黒く焼けて崩れていた。焼けた麦の匂いが、朝の冷たい空気の中に重く漂っていた。焦げた袋の山から、まだ細い煙が上がっていた。
どれだけの麦が燃えたのか、数えられる者は、今この場にいなかった。
◇
夜明けの鐘を、千束は牢の中で聞いた。
一晩中、格子の窓の外は赤かった。駆けていく足音と叫ぶ声と火事の鐘が、夜通し続いていた。千束は窓の下に立ったまま、一度も座らなかった。
夜が明けると、赤い光が薄れていった。
火事の鐘が、ひとつまたひとつと止んでいった。
最後に、大聖堂の鐘が鳴った。
低い、ゆっくりとした鐘だった。一つ打って、長い間を置いて、また一つ。
弔いの鐘だった。
千束は、格子の窓の縁を握りしめた。
誰の鐘なのか、知るすべはなかった。牢番のハンスは、朝の粥を運んでこなかった。窓の外を通る足は、皆、大倉の方角へ急いでいた。
昼近くになって、格子の窓の外に、裸足の足が現れた。
小さな足だった。煤で、黒く汚れていた。足の甲に、火の粉で焼けた小さな赤い点がいくつも散っていた。
その足の横に、焦げた木の箱が置かれた。
「……リコ」
千束は格子の窓に顔を押しつけた。
リコの声が、聞こえた。かすれていた。一晩中、煙を吸った声だった。
「トマ爺が」
リコは言った。
そこで、言葉が切れた。
長い沈黙があった。
千束は、格子をつかんだまま、待った。指の関節が白くなっていた。
「トマ爺が、あんたに」




