第十六章 欠品――一枚の嘘が、すべての記録を燃やす理由になった
「記録は、嘘をつく」
ワシオの声が、評議の間の石の壁に響いた。
「今、皆さまがご覧になったとおりです。倉奉行の書記は紙に数字を書き、札に番号を書いて、それを証だと言ってきた。その同じ手で、罪のない倉番の名を、偽りの報告書に書いた」
大臣たちが、千束から目をそらしていた。
王女は千束の前に立ったまま、動かなかった。肩が、こわばっていた。
「二十年前、天命院が焚帳令を出したのは、このためでございます。人の帳面は、人の都合で書き換えられる。数を数える者は、数を偽る者になる。神の数だけが、偽らない」
ワシオは、手に持った札を宙に放った。
小さな紙は、ひらひらと舞いながら、評議の間の石の床に落ちた。日付と、運び手のダの一字が、天井を向いていた。
「陛下。焚帳令を、改めてお布れください。この王都で人が書いた帳面と札を、一枚残らず集めて焼くように。そして」
布の向こうの顔が、千束を向いた。
「ゾルハーデンへ差し出すべきは、罪のない倉番ではございません。偽りの報告書を書き、陛下を欺いた者。人の手で数を数え、天命を疑わせた者」
ワシオは、ゆっくりと腕を上げた。
長い指が、千束を指した。
「札の魔女を、差し出すべきです」
◇
評議は、短かった。
王は長いあいだ黙っていた。白い髭の下で、唇がかすかに動いていた。やがて、王は千束を見ずに言った。
「書記、戸倉千束を、牢へ。年明けの朗読の朝、ゾルハーデンの将軍に引き渡す」
「父上」
王女が一歩前に出た。
「お待ちください。戸倉の数は、偽りではありません。十九の倉を数えたのは――」
「イレーネ」
王の声は、疲れていた。
「そなたの書記は、偽りを書いた。そなたの印の押された紙に、だ」
王女の言葉が、喉の奥で止まった。
「倉奉行の鍵束は、天命院へ返せ。しばらく、そなたは倉のことに口を出すな」
王女は唇を噛んだ。
白くなるまで、噛んでいた。
衛兵が、千束の両腕をつかんだ。縄が手首に回された。秋のはじめに、ゴッツの番小屋で縛られたときと同じ痛みだった。
評議の間の隅で、ダンの縄が解かれていた。
ダンは、千束のほうを見なかった。衛兵に背中を押されて、扉の外へ出ていった。最後まで、一度も振り返らなかった。
千束は衛兵に引かれて、反対側の扉へ歩いた。
王女の横を通り過ぎるとき、王女が何か言いかけた。千束は、王女の顔を見なかった。
見られなかった。
◇
王宮の地下牢は、乾いていた。
石の壁に囲まれた狭い部屋で、床には古い藁が敷いてあった。天井近くに格子のはまった細い窓が一つだけ開いていて、地上の石畳と通り過ぎる人の足もとが見えた。
手帳は、取り上げられた。
衛兵が千束の懐を探り、黒い手帳を引き抜いた。ボールペンも。手帳の最後のページに挟んであった、黄色い保留札も。
「焚帳令の品だ。天命院へ回す」
衛兵はそう言って、手帳を持ち去った。
千束の懐に、何も残らなかった。
衛兵の手の中で、黄色い保留札が手帳から滑り落ちかけた。衛兵は面倒くさそうにそれを拾い、手帳の間に押し込んだ。千束は手を伸ばしかけて、止めた。縄が手首に食い込んでいた。
「それは、前の――」
言いかけて、千束は口を閉じた。何と説明すればいいのか、分からなかった。死んだ夜に握っていた紙です。誰が信じるだろう。
扉が閉まり、鍵の回る音がした。
この世界に落ちてきてから、初めてだった。数字を書く紙も、書くペンも、何もない。
千束は藁の上に座り、膝を抱えた。
格子の窓の向こうで、日が暮れていった。通り過ぎる足の数が、少しずつ減っていった。
◇
翌日には、王都の倉は欠品になった。
千束はそれを、格子の窓の向こうを通る人々の声で知った。
「河岸の粉屋も、もう空だ」
「毎朝の届けが止まったんだと。札の魔女が捕まって、倉の鍵が天命院に戻ったから」
「天命院の聖なる倉から、配給があるんじゃないのか」
「あるもんか。天秤の商会が、銅貨四十枚で売ってるだけだ」
四十枚。
天命の前は、四枚だった。河岸地区で、十二枚まで下げた。
千束は、自分の膝を強く抱えた。
売れた分だけ、毎朝届ける。その仕組みは、千束と大倉の鍵と倉番たちの手でできていた。鍵が天命院に戻り、千束が牢に入った。倉番たちは天命院の命で、聖なる倉への移送だけをやらされている。毎朝の届けは、止まった。
止まると、人は蓄え始める。
蓄えると、足りなくなる。
鞭の柄が、また揺れていた。
「市場で、取っ組み合いがあったぞ」
「パン屋の窓が割られた。河岸の、マルタの店だ」
「上流の国の兵が、国境の砦に二千集まったって」
「河口のベルカの商人どもが、河の出口を船でふさいだそうだ。麦が高く売れるまで、一粒も通さないってよ」
声が、格子の窓の前を通り過ぎていく。
千束は耳を塞がなかった。
一つ一つの声を、頭の中で数字に変えた。市場の粉、四十枚。上流の兵、二千。河口の封鎖。マルタの店の窓。
書く紙はなかった。
だから、覚えた。
前の場所でもここでも、千束がしてきたのはそれだけだった。数えて、覚えて、書く。書いたものを盾にして、誰かを押し返す。
盾は、取り上げられた。
その向こうで、人が腹を空かせていた。
◇
牢に入った翌日の夜、足音が階段を下りてきた。
衛兵の重い足音ではなかった。柔らかい革の靴の音だった。
格子の扉の向こうに、背の高い影が立った。白い長衣は着ていなかった。灰色の、目立たない外套をまとっていた。顔の前に布も垂らしていなかった。
日に焼けた顔が、燭台の灯りの中で、千束を見下ろしていた。
「よう」
ワシオだった。
千束は藁の上に座ったまま、顔を上げなかった。
「何をしに来たんですか」
「見物だよ」
ワシオは格子に背をもたせかけ、床に腰を下ろした。石の床に、長い脚を投げ出した。
「三十三年ぶりに会った同僚が、牢に入ってるんだ。顔くらい見に来るさ」
「勝ったと、言いに来たんですね」
「勝った?」
ワシオは笑った。
けれど、その笑いには、いつもの張りがなかった。
「勝ったとは思ってねえよ。ただ、お前が負けた。それだけだ」
千束は答えなかった。
ワシオは天井を見上げた。燭台の煙が、低い石の天井に黒い筋を残していた。
「戸倉。お前、なんであんな報告書を書いた」
「……」
「ダンって倉番の名前を書かなきゃ、お前が差し出されてた。それは分かってたんだろう。それでも、お前は自分の名前を書かなかった」
「仕組みを、守るためです」
「仕組み」
「私が差し出されたら、札も、毎朝の届けも止まる。子どもたちのパンも止まる。だから、私は残らなければいけなかった」
「それで、倉番を一人売った」
千束は膝を強く抱えた。
ワシオは、それ以上責めなかった。ただ、低く笑った。
「俺もやった」
千束は、顔を上げた。
ワシオは天井を見たままだった。
「数字をいじって、人を走らせた。前の世界でも、ここでも。棚を取るために。工場を回すために。この国を前に進めるために」
「……」
「三倍出せと言えば、誰かの土曜日が消える。それは分かってた。大寒が来ると言えば、誰かの倉が空になる。それも分かってた。分かってて、言った。言わなきゃ、もっと多くが困ると思ったからな」
ワシオは、千束を見た。
「お前と同じだよ」
千束は、ワシオの目を見返した。
初めてだった。前の場所でも、この世界でも、千束はこの男の目を正面から見たことがなかった。いつも、モニターの赤い線を見ていた。手帳の数字を見ていた。白い布を見ていた。
ワシオの目は、疲れていた。
三十三年分の疲れなのか、一晩分の疲れなのか、千束には分からなかった。目の下に、王女と同じような薄い影があった。この男も、眠っていないのだと千束は思った。
「親父の話、したよな」
「工場を畳んで、二度と工具を握らなかったと」
「ああ」
ワシオは、自分の両手を見下ろした。
「工場を畳んだ日の夜な。親父は、空っぽの工場の真ん中に、丸椅子を一つ置いて座ってた。機械は全部売っ払ったあとで、床に油の染みだけが残ってた。俺は十二で、台所で湯を沸かして、茶を持っていった」
ワシオの声が、少しだけ低くなった。
「親父は、湯呑みを受け取って、飲まずに手の中で回してた。それから、ぽつっと言ったんだ。正直に言ったのにな、って」
「……」
「三倍は無理です、と正直に言った。嘘をつかなかった。そしたら、全部なくなった。正直に言ったのにな。親父が言ったのは、それだけだ」
ワシオは両手を握った。
「だから俺は、正直に言うのをやめた。客の欲しいに、無いは無い。全部、あると言う。あると言って、あとで何とかする。何とかならなかったら、何とかした奴の手が擦り切れる。それでも、ないと言って全部なくすよりは、ましだと思ってた」
ワシオは立ち上がった。
外套の裾を払い、格子の扉の前に立った。
「年明けの朗読の朝、お前をハーゲン将軍に引き渡す。それで将軍は矛を収める。代わりに、天秤商会が聖なる倉の麦を、ゾルハーデンに売る。値段は、俺が決める」
「……あなたは、戦も、売り物にするんですね」
「戦にならないように、売るんだよ」
ワシオは笑った。いつもの、口の端だけの笑い方だった。
「お前の数字じゃ、戦は止められない。俺の約束なら、止められる。それだけの話だ」
ワシオは背を向けた。
階段の一段目に足をかけて、立ち止まった。
「戸倉」
「……はい」
「あの夜のロット。〇九一七」
千束は、息を止めた。
「お前、何度も聞くよな。出荷されたかって」
「……」
「なんで、そんなに気にする」
千束は答えようとした。
言葉が、出てこなかった。
金属検出の記録が欠けていたから。量販店の、子ども向けの棚に並ぶ品だったから。止めなければいけなかったから。止めようとして、止められなかったから。
それだけでは、なかった。
あの夜、千束は、生まれて初めて「できません」を、誰かを守るために言おうとしていた。盾ではなく。
そのことに、千束は今、初めて気づいた。
「……分かりません」
千束は言った。
ワシオは、背を向けたまま、しばらく動かなかった。
それから、何も言わずに階段を上っていった。柔らかい靴の音が、遠ざかっていった。
◇
夜更け、格子の窓の外で、杖が石畳を叩く音がした。
千束は藁の上から跳ね起きて、窓の下に駆け寄った。窓は高く、背伸びをしても外の石畳とそこに立つ人の足もとしか見えなかった。
杖の先が見えた。
節くれだった、古い杖。
その横に、小さな裸足の足があった。
「娘」
トマの声だった。
「トマさん」
「おるか」
「います」
トマは格子の窓の前に膝をついたらしかった。声が、近くなった。
「明日の夜、天命院が大倉で焚帳をやる。王都中の札と帳面を集めて、大倉の中庭で焼くんじゃ。おぬしの手帳も、天命院から運ばれてくると聞いた」
千束の胸が、冷たくなった。
「割符も、ですか」
「割符は、まだ見つかっておらん。床下の箱は、わししか知らん」
トマの声が、低くなった。
「じゃが、天命院の者どもが、倉を一棟ずつ検めておる。三の倉の床下が見つかるのも、時間の問題じゃ」
「トマさん。箱を持って、逃げてください。どこか、天命院の手の届かないところへ」
「逃げる場所なんぞ、わしにはない。わしの場所は、三の倉じゃ」
トマの声は、静かだった。
「箱は、わしが守る。二十年守ってきた。あと一晩くらい、どうということはない」
「トマさん」
「おぬしの手帳も、拾えるものなら拾うてやる。わしの目では、どれがおぬしの手帳か分からんがな」
トマは喉の奥で笑った。
千束は格子の窓の縁を、両手で握りしめた。
窓の外の、裸足の足は動かなかった。トマをここまで連れてきたのは、その足の持ち主に違いなかった。
「リコ」
千束は呼んだ。
返事はなかった。
裸足の足が、石畳の上で、かすかに動いた。小石がこすれ合う、小さな音がした。布袋の中の、白と黒と赤の石の音だった。
「……リコ。ごめんなさい」
返事は、なかった。
トマが、杖をついて立ち上がる音がした。
「行くぞ、リコ」
杖の音と、裸足の足音が、遠ざかっていった。
最後に一度だけ、小石の鳴る音が聞こえた。
千束は格子の窓の下に座り込み、冷たい石の壁に額を押しつけた。石は、冬の夜の冷たさをそのまま溜め込んでいた。額が痛くなるまで、千束はそうしていた。




