第十五章 是正処置――原因の欄に、私はまた嘘を書いた
是正処置の報告書には、決まった形がある。
起きたこと。原因。処置。再発を防ぐための対策。
千束は倉番小屋の油皿の灯りの下で、王宮から持ち帰った羊皮紙を広げていた。前の場所では、何十枚も書いてきた書類だった。品物に不具合が出たとき、何が起きたかを書く。なぜ起きたかを掘り下げ、二度と起きないように手を打つ。
起きたこと、の欄はすぐに埋まった。
救援麦として国境へ送った四十袋が、五十二袋の黴びた麦となって届いた。国境の村で四十人を越える者が腹を下した。
原因、の欄の前で、ペンが止まった。
ボールペンではなかった。葦のペンだった。王宮に出す書類は、王宮の墨で書く決まりだった。ペン先から、墨が一滴、羊皮紙の上に落ちた。千束は慌てて布で吸い取った。小さな黒い染みが残った。
原因を掘り下げるときは、なぜを繰り返す。
前の場所で、新人に何度も教えたやり方だった。なぜなぜ分析という。起きたことに、なぜと問う。出てきた答えに、またなぜと問う。五回繰り返せば、表に見えている原因の下にある、本当の原因にたどり着く。
千束は、手帳の白いページに書き始めた。
なぜ、麦は黴びていたのか。
国境に届いた袋が、大倉を出た袋と違う袋だったから。
なぜ、違う袋になったのか。
運ぶ途中で、誰かが入れ替えたから。救援麦を出した晩に、天秤の船が中洲の倉で袋を下ろして別の袋を積むのを、船頭の孫が見ている。
なぜ、入れ替えられたのか。
救援麦を運べるのが、天秤の紋の船だけだったから。大倉の倉番も、船頭組合の船も、運ぶことを許されなかった。
なぜ、天秤の船だけだったのか。
特急令が、そう決めたから。
なぜ、誰も途中で確かめられなかったのか。
天命院の領分では、数えることも記録することも許されていないから。
五つ目のなぜの答えを書いて、千束はペンを置いた。
本当の原因は、そこにあった。
天命院だ。天命院が出した特急令と、二十年前の焚帳令。数えさせない仕組み。確かめさせない仕組み。その仕組みの中で天秤商会が袋を入れ替え、千束の札を真似て数を水増しした。
千束は、羊皮紙の原因の欄を見下ろした。
ここに、天命院と書く。
書いたら、どうなるか。
王の前で、大宣託官を名指しすることになる。証は、船頭の孫の夜釣りの話と、トマの懐の片方の割符だけだ。どちらも、天命の言葉の前では何の重みもない。ゴッツの麦わらの山を、あの男は人の倉が偽られる証に変えてみせた。千束の報告書も、同じように変えられる。偽りを申す書記として、千束は差し出される。
それだけなら、まだいい。
千束が差し出されれば、札も毎朝の届けも終わる。倉奉行の書記が偽りを申したとなれば、王女の印も信用を失う。河岸のパン屋に毎朝届いている粉が止まる。孤児院のパンは、また四分の一個に戻る。リコの弟の頬が、また落ちる。
仕組みが壊れたら、もっと多くの人が飢える。
千束は葦のペンを握り直した。
手が、勝手に動いた。
前の場所で、一度書いたことのある言葉だった。指が、その形を覚えていた。
作業者の確認不足による作業ミス。
千束は、羊皮紙の上の自分の字を見つめた。
墨が、ゆっくりと乾いていった。
それから、その続きを書いた。
救援麦を船着き場へ運ぶ際、倉番ダンが倉の裏に置かれていた廃棄予定の古い麦の袋と、救援麦の袋を取り違えた。数の違いは、同人の数え違いによる。
処置の欄に、書いた。
倉番ダンを、運搬の役から外す。
再発防止の欄に、書いた。
運搬の際は、必ず二人で袋の札を確かめる。
四つの欄が、全部埋まった。
形の整った、報告書だった。前の場所なら品質保証の課長が判を押し、工場長に回して終わる報告書だった。
千束は羊皮紙を巻いた。
後で直せばいい。
自分に、そう言い聞かせた。
戦が避けられて、仕組みが守られて、子どもたちのパンが続いたら。そのあとで、本当の原因を証す方法を見つけて、ダンの名を消せばいい。ダンは運搬の役を外されるだけだ。倉番であることは変わらない。少しのあいだ、我慢してもらえばいい。
油皿の火が、小さく揺れた。
壁際で、トマが身じろぎをした。眠っているのだと、千束は思っていた。
「娘」
トマの声が、闇の中から聞こえた。
「書けたか」
「……はい」
「わしは字が読めん。目が見えんからの。じゃが、おぬしのペンの音は聞いておった」
千束は羊皮紙を握りしめた。
「途中で、止まったな。長いこと」
「……」
「それから、迷わずに書いた。何かを、思い出したように」
トマは寝床の上で、ゆっくりと体を起こした。
「その報告書を、わしに読んで聞かせてくれんか。おぬしの声で」
千束は口を開いた。
声が、出なかった。
トマは長いあいだ、千束の沈黙を聞いていた。
やがて、トマはまた寝床に横になった。背中を千束に向けた。
「……そうか」
それきり、トマは何も言わなかった。
◇
夜明け前、千束は王宮の東の部屋へ、羊皮紙を届けた。
王女は眠っていなかった。机の前に座ったまま、蝋燭を三本使い切っていた。千束が羊皮紙を差し出すと、王女は黙って受け取り、広げた。
読む王女の顔を、千束は見なかった。
窓の外の、白い塔を見ていた。
「……ダンが」
王女の声がした。
「ダンが、取り違えたの」
「はい」
「あの大きな倉番が。包帯を巻いた指で、控えの札を縫い込んでいた子が」
「はい」
王女は羊皮紙から顔を上げた。
千束は、塔を見ていた。
王女の目が、千束の横顔を長いあいだ見つめていた。千束はそれを、頬の皮膚で感じていた。
「戸倉」
「はい」
「わたくしを、見て」
千束は、見なかった。
見られなかった。
王女は、それ以上何も言わなかった。羊皮紙を巻き直し、立ち上がり、父王の部屋へ向かう扉を開けた。
扉の前で、一度だけ立ち止まった。
「あなたは、嘘はつかないと言ったわね。数字は嘘をつかないからって」
「……」
「わたくしが、あなたは? と聞いたら、あなたは答えなかった」
扉が閉まった。
千束は一人、王女の部屋に残された。机の上の、燃え尽きた三本の蝋燭の芯が、まだ細い煙を上げていた。
◇
昼前、王宮の衛兵が大倉に来た。
ダンは、三の倉の前で袋を下ろしていた。衛兵が名を呼ぶと、ダンは袋を肩から下ろした。両手の包帯を見下ろしてから、黙って衛兵の前に歩いていった。
衛兵の隊長が、羊皮紙を読み上げた。
「倉番ダン。救援麦の取り違えにより、ゾルハーデンの民を害した咎で、身柄を王宮へ移す。ゾルハーデンとの取り決めにより、その身はゾルハーデンへ引き渡され、彼の国の鉱山にて償いの労役に就く」
千束の足元が、揺れた。
鉱山。
運搬の役を外すだけではなかった。差し出す者が要る、と王女は言った。千束の報告書は、差し出す者の名前を書いた紙になっていた。
「待ってください」
千束は衛兵の前に飛び出していた。
「ダンを、どこへ。運搬の役を外すだけのはずです。報告書には、そう――」
「書記どの」
衛兵の隊長が、千束を見た。
「この者の名を書いたのは、書記どのだと聞いております」
千束の口が、止まった。
ダンが、千束を見ていた。
大きな体を少しだけかがめて、千束の目の高さに顔を下ろしていた。怒っている顔ではなかった。不思議そうな顔だった。
「千束さんが、そう書いたのか」
千束は答えられなかった。
ダンは千束の顔を、しばらく見ていた。それから、ゆっくりと体を起こした。
「そうか」
トマと同じ言葉だった。
ダンは衛兵に両腕を差し出した。包帯を巻いた手首に、縄が回された。ダンは抵抗しなかった。抵抗すれば、衛兵の三人や四人は振り払えただろう。ダンはそうしなかった。
衛兵に引かれて歩き出す前に、ダンは一度だけ振り返った。
千束ではなく、倉番小屋の戸口を見た。
そこに、リコが立っていた。
リコは色札の籠を抱えたまま、立ちすくんでいた。顔から血の気が引いていた。
「ダン」
「白が二枚。七の倉の、三十一番」
ダンは言った。
「昨日、見落としてた。直しとけ」
それだけ言うと、ダンは前を向いて、衛兵と一緒に歩いていった。大きな背中が、大倉の門の向こうへ小さくなっていった。
リコが、千束の前に立った。
籠が、地面に落ちた。白と赤の布が、石畳の上に散らばった。
「どうして」
リコの声は、小さかった。
「どうして。ダンじゃないでしょ。ダンは、あの朝、西の支流に麦を届けに行ってた。あたし、見てたもん。ダンが荷車を引いて出ていくの」
「……」
「チヅカ、知ってるでしょ。チヅカの手帳に、書いてあるでしょ。毎朝、誰がどこに何を届けたか、全部書いてるでしょ」
千束は答えなかった。
手帳は、懐の中にあった。九十三日目の朝の欄に、何が書いてあるか、千束は知っていた。
西の支流の粉倉へ、小麦二十袋。運び手、ダ。
自分の字で、そう書いてあった。
「どうして」
リコはもう一度言った。
それから、千束の胸を両手の拳で叩いた。一度。二度。力のない拳だった。三度目は、叩かずに、千束の服をつかんだまま止まった。
リコは泣いていなかった。
泣いていない顔のまま、千束の服をつかんで、震えていた。
「仕組みが、壊れたら」
千束は言った。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
「もっと多くの人が、飢えます。私が差し出されたら、札も毎朝の届けも止まります。トビのパンも」
「トビのパンのために、ダンを売ったの」
千束の喉が、詰まった。
リコは千束の服から手を離した。
地面に散らばった色札を、一枚ずつ拾い始めた。白い布。赤い布。拾っては、籠に戻した。千束のほうは、一度も見なかった。
全部拾い終えると、リコは籠を抱えて立ち上がった。
「七の倉の、三十一番」
リコは言った。
「直してくる」
リコは千束の横を通り過ぎて、七の倉のほうへ歩いていった。
千束は、その場から動けなかった。
大倉の船着き場で、天秤の紋の船が一艘、麦を積んで岸を離れていくところだった。荷役の男たちの笑い声が、河の上を渡ってきた。札のついていない袋が、船の上に無造作に積み上げられていた。
◇
翌日、王宮の評議の間に、千束は呼ばれた。
ゾルハーデンへの返答を決める評議だった。王と大臣たち。王女。天命院の宣託官たち。王女の後ろに千束が控え、評議の間の隅には、縄を解かれたダンが衛兵に挟まれて立っていた。
ダンは千束を見なかった。包帯の手を体の前で組み、まっすぐ前を見ていた。
大臣の一人が、千束の報告書を読み上げた。倉番ダンの取り違え。数え違い。運搬の際の二人確認。
「これをもって、ゾルハーデンへの返答とする。倉番ダンの身柄を引き渡し、救援麦を改めて送り直す。将軍も、これで矛を収めるであろう」
大臣たちがうなずいた。
王が、ゆっくりと口を開きかけた。
「お待ちください」
あの声だった。
白い長衣の一団の中から、背の高い男が進み出た。顔の前に、白い布を垂らしていた。
「陛下。この報告書には、偽りがあります」
評議の間が、静まり返った。
王女の肩が、千束の目の前でこわばった。
「大宣託官。何を申す」
「倉奉行の書記どのは、救援麦を船着き場へ運んだのは倉番ダンだと書いておられる。救援麦が王都を出たのは、九十三日目の朝です」
ワシオは懐から、小さな四角い紙を一枚取り出した。
札だった。
「ところが、その九十三日目の朝。倉番ダンは、西の支流の粉倉にいた。粉屋組合のガンツどのの倉に、小麦を二十袋届けている」
ワシオは札を、高く掲げた。
「これは、その二十袋の一つについていた札です。粉倉から、私の手の者が預かってまいりました。日付は九十三日目。運び手の欄に、ダの一字」
評議の間が、どよめいた。
「ガンツどのにも、確かめました。あの朝の倉番ダンは、夜明けから昼過ぎまで粉倉で臼の入れ替えを手伝っていたと。救援麦の船が出るころ、ダンは王都にいなかった」
ワシオは、札をゆっくりと下ろした。
布の向こうの顔が、千束のほうを向いた。
「この札を書いたのは、どなたでしょう」
千束は、息ができなかった。
自分の字だった。
葦のペンで、自分が書いた、九十三日目の朝の届けの札。いつ、誰が運んだかまで、あとからたどれるように。そう思って、千束が自分で書き添えた、運び手の一字。
千束の札が、千束の報告書の嘘を証していた。
「陛下」
ワシオの声は、静かだった。
「この女の記録は、嘘です」




