第十三章 割り込み――特急令に「間に合わせます」と答えた女は、あの男と同じ顔をしていた
特急令の中身は、短かった。
王都大倉の麦の七割を、十日のうちに天命院の聖なる倉へ移すこと。運び手は天命院の許しを得た船と荷車に限ること。移し終えるまで、倉奉行は倉の麦をほかへ動かしてはならないこと。
千束は油皿の灯りの下で、羊皮紙を三度読んだ。
七割。十四万八千三百十二袋の七割は、十万袋を超える。それを十日で。
一日一万袋。
千束の頭の中で、勝手に計算が始まった。倉番三十人が一人一日に担げる袋の数。荷車一台に積める袋の数。船着き場に横づけできる船の数。荷を積むのに要る時間。夜通し働いたとして、それでも足りるかどうか。
足りなかった。
計算上、ありえなかった。
前の場所なら、ここで答えは決まっていた。
一秒で数字を見る。一秒で答えを決める。三秒目に言う。できません。
千束は羊皮紙を置き、手帳を開いた。
ページの上で、ペンが止まった。
大広間で、千束はできないと言った。約束はできないと。その結果、王は天命院の約束を買った。正しい数字は、誰にも買われなかった。
お前の「できません」は正しい。正しいまま、捨てられるだけだ。
廊下で聞いた声が、耳の奥でまだ鳴っていた。
千束はペンを握り直した。
手帳に、一日一万袋と書いた。その下に倉番の人数を書き、荷車の台数と船の数を書いた。一つずつ、足りない分を埋める方法を書いていく。夜も積む。倉番を二組に分けて、昼と夜で交代させる。パン屋の職人と粉屋の若い衆に、手伝いを頼む。荷車が戻ってくるのを待たずに、次の荷を船着き場に並べておく。
計算が、ぎりぎりで合った。
どこにも余裕のない計算だった。誰か一人が倒れたら崩れる計算だった。
千束は最後の行に、書いた。
間に合わせる。
未確定、とは書かなかった。
◇
「十日で、十万袋」
翌朝、王女は千束の手帳を見て、顔色を変えた。
「そんなこと、できるの」
「間に合わせます」
千束は言った。
王女が、千束の顔をまじまじと見た。
「……あなた、今、何て言ったの」
「間に合わせます、と」
「あなたが、約束するの」
「約束ではありません。計画です。計算上、ぎりぎりで合います」
王女は黙った。
しばらくして、王女は机の引き出しから、もう一枚の羊皮紙を取り出した。
「もう一つ、あるの」
「何ですか」
「ゾルハーデンに、麦を送るわ」
千束は顔を上げた。
「国境の砦に、ハーゲン将軍の兵が増え続けている。昨日、ハルトの村長から早馬が来たの。将軍の使者が、アルメリクは麦を隠しているのかと、村に問い質しに来たそうよ。このままでは、向こうから先に手を出してくる」
「救援の麦を送れば、隠していないことの証になる」
「ええ。父上にも許しをいただいたわ。天命院の預かりの外の三割から、まず四十袋。ハルトの村を通して、国境の向こうの村々へ」
「四十袋」
「多くはないわ。でも、アルメリクが麦を分ける気があると示すには、足りる。それに続けて、春までに少しずつ送る段取りをつける」
王女は羊皮紙を千束の前に置いた。
「出すのは、七日後。特急令の最中よ」
千束は二枚の羊皮紙を並べて見た。
十日で十万袋を天命院へ。七日後に四十袋を国境へ。毎朝、河岸のパン屋に、売れた分だけ。
三つの注文が、同じ倉の、同じ倉番の手を取り合っていた。
「……割り込みですね」
「割り込み?」
「前にいた場所の言葉です。予定していた仕事の列に、急ぎの仕事が横から入り込んでくること。急ぎの仕事を先にやれば、もとの列の仕事は後ろへ押される。押された仕事の中にも、急ぎのものがある。急ぎが急ぎを押しのけて、列全体が崩れていく」
「崩れるの」
「崩さないように、組みます」
千束は手帳に、三つ目の列を書き足した。
ゾルハーデン救援麦。四十袋。七日後。
計算は、ぎりぎりを、さらに削られた。
千束は、書いた数字を消さなかった。
◇
初日は、九千二百袋だった。
二日目は、九千八百袋。
三日目は、一万三百袋。
倉番たちは昼と夜の二組に分かれて、休みなく袋を担いだ。パン屋の職人たちが、自分の窯の仕事を終えたあとで駆けつけてきた。ガンツの粉屋の若い衆が、水車の番の合間に荷車を押した。船着き場では、年寄りの船頭たちが、天命院の印をつけた船に麦を積み込む手伝いをしていた。
天命院の船は、どれも同じ形をしていた。平たい底の大きな船で、帆に天秤の紋が染め抜かれていた。
天秤商会の船だった。
麦を積んだ船は、王都の船着き場を離れると、河を上っていった。
下るのではなく、上っていった。
千束は船着き場の石段に立って、船が遠ざかっていくのを見ていた。上流に半日。河の真ん中に、葦の茂る細長い中洲がある。
「聖なる倉、っていうのは、どこにあるんだ」
隣で、年寄りの船頭が呟いた。
「さあ。天命院の者は、河の上だとしか言わねえ」
千束は答えなかった。
手帳の別のページに、出ていった船の数と、積んだ袋の数を書いた。どの船がいつ何袋を積んで、どの方角へ出ていったか。天命院の預かりになった麦にも、千束は札をつけ続けていた。表の札と、口紐の下の控えの札。誰に頼まれたわけでもなかった。倉番たちは、もう、札をつけずに袋を担ぐことができなくなっていた。
◇
四日目の夜、リコが倒れた。
七の倉の前で、色札の籠を抱えたまま、膝から崩れた。千束が駆け寄ると、リコの額は火のように熱かった。唇が乾いてひび割れていた。
「大丈夫。まだ数えられる」
リコは千束の腕の中で、目を閉じたまま言った。
「白が、二枚。二十三番……」
「リコ。もういいです」
「よくない。間に合わせるんでしょ」
千束の手が、止まった。
「チヅカが、言ったんだよ。間に合わせるって」
リコの体を、ダンが抱え上げた。何も言わずに、倉番小屋へ運んでいった。大きな背中の向こうで、リコの細い腕がだらりと垂れていた。
千束は七の倉の前に一人で立っていた。
手帳を開くと、今日の欄に、九千九百袋と書いてあった。自分で書いた数字だった。
その数字の下で、十三の子どもが倒れた。
千束は手帳を閉じた。
◇
五日目の明け方、千束はダンの手を見た。
船着き場で、ダンは一人、最後の荷車から袋を下ろしていた。夜の組の倉番たちは、もう石段に座り込んで眠っていた。ダンだけが、まだ動いていた。
袋の口紐をつかむダンの指が、赤かった。
皮が剥けていた。麻の縄に擦られて、両手の指の腹から血が滲んでいた。乾いて黒くなったその上から、また新しい血が滲んでいた。ダンはそれを気にする様子もなく袋を肩に担ぎ、船の縁に下ろして、また荷車へ戻った。
千束の足が、止まった。
十二年前の乾燥室の、熱い空気。
明け方の段取り替え。疲れた手。白いタオル。赤い色。
間に合ったか。
床に座り込んだ男が、千束を見上げて、そう聞いた。
「ダン」
千束の声は、かすれていた。
ダンが振り返った。
「手を、見せてください」
「平気だ」
「見せてください」
ダンは少し迷ってから、両手を差し出した。
近くで見ると、もっとひどかった。左手の中指の爪が、半分剥がれかけていた。
「いつからですか」
「三日前」
「どうして言わなかったんですか」
「間に合わせるんだろ」
ダンは手を引っ込めた。
「千束さんが、そう言った」
ダンはそれ以上何も言わず、また荷車へ戻っていった。
千束は石段の上に立ち尽くしていた。
自分が、何をしているのか分かった。
十日で十万袋。客の欲しいに、無いは無い。誰かの土曜日が消える。誰かの手が擦り切れる。誰かが熱を出して倒れる。それでも、間に合わせる。
あの男に、勝つために。
千束は自分の手を見下ろした。手帳を握る指は、白く、きれいだった。皮一枚、剥けていなかった。
朝会のドアを開けて、三倍と言った男。数字は作るものだと言った男。工場の誰かの手を擦り切れさせながら、自分の手は一度も汚さなかった男。
あの男と、同じ顔をしている。
千束は石段に腰を下ろした。
膝が、震えていた。
◇
「娘」
背後で、トマの声がした。
杖の音が、石段を一段ずつ下りてきた。トマは千束の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
「リコの熱は、少し下がった。ヘルガ院長が、薬草を煎じてくれた」
「……よかったです」
「ダンの手は、わしが布で巻いた。あやつ、痛いとも言わん」
「……」
「おぬし、近ごろ『できません』と言わなくなったな」
千束は答えなかった。
河の上に、白い朝霧が流れていた。天秤の紋の船が一艘、霧の中を上流へ遠ざかっていくところだった。
「言わなくなったのは、ええことじゃ」
トマは杖を膝に横たえた。
「じゃが、今のおぬしの『間に合わせる』は、約束ではない」
「……計画です」
「計画でもない」
トマは見えない目を、霧の中の船のほうへ向けた。
「あれは、意地じゃ。誰かに勝つための、意地じゃ。約束というのは、守る相手の顔を見てするもんじゃ。おぬしは今、誰の顔も見ておらん。塔の上の誰かの顔しか、見ておらん」
千束は膝を抱えた。
トマの言うとおりだった。十日で十万袋。その数字の向こうに、千束はリコの熱い額もダンの剥がれかけた爪も見ていなかった。見ていたのは、廊下の柱の陰で笑う男の顔だけだった。
「……どうすればいいですか」
「知らん。わしは倉守じゃ。教えてやれるのは、数え方だけじゃ」
トマは杖をついて立ち上がった。
「じゃが、一つだけ言うておく。今日の分は、昨日より千袋減らせ。その千袋のぶん、誰かを寝かせろ」
「それでは、十日に間に合いません」
「間に合わんと、言いに行け」
トマは千束の肩に、節くれだった手を置いた。
「天命院に、できませんと言いに行け。今度は、盾にするためではなく、誰かを守るために言え。同じ言葉でも、使い方が違えば、違う言葉になる」
千束はトマの手の重さを、肩に感じていた。
朝霧が、少しずつ晴れていった。
◇
その日の昼、千束は天命院の塔の下の門で、使いの宣託官に一枚の紙を渡した。
移送の計画を、十日から十三日に延ばす。一日の量を、一万袋から七千五百袋に減らす。倉番に交代で休みを取らせ、怪我人と病人を出さない。理由は、それ以外の方法では人が倒れるから。
宣託官は紙を受け取り、何も言わずに塔の中へ消えた。
返事は来なかった。
代わりに、翌日から、天秤商会の荷役の男たちが大倉に送り込まれてきた。商会が雇った、見知らぬ男たちだった。男たちは札の結び方を知らなかった。札をつけずに袋を担ぎ、札のついた袋を乱暴に放り投げた。控えの札を縫い込んだ口紐を、ほどけたまま船に積んだ。
千束は男たちに札のつけ方を教えようとした。男たちは笑って、千束の手を払いのけた。
倉番たちは、交代で眠れるようになった。
七日目、リコが熱から起き上がった。まだふらつく足で、色札の籠を抱えて七の倉の前に戻ってきた。
「チヅカ。あたしの見張り、まだ要る?」
「要ります」
「じゃあ、やる」
リコは籠を地面に置いて、千束の顔を見上げた。
「チヅカ、顔が違う」
「どう違いますか」
「前の顔に戻った。ちょっとだけ」
千束は答えなかった。
答え方が、分からなかった。
◇
九十三日目の朝、救援の麦が王都の船着き場から出ることになった。
四十袋だった。
千束は前の晩に、四十袋の一つ一つに、自分の手で札をつけた。
ロット番号は、三〇八。
袋の番号は、〇一から四〇まで。
最後に、検算桁。三と〇と八と、袋の番号の二つの数字を全部足して、その一の位を書く。三〇八―〇一―二。三〇八―〇二―三。三〇八―〇三―四。一枚ずつ、足し算をしてから書いた。
表の札を口紐に結びつけ、同じ番号を書いた控えの札を、口紐の下の麻の目に縫い込んだ。縫い込むのは、ダンがやった。包帯を巻いた指で、ダンは一袋ずつ、黙って針を通した。
トマは、新しい割符を一本刻んだ。
四十の刻み。トマは指で一つずつ刻みを確かめ、刻み終えると、その割符を縦に二つに割った。木が裂ける乾いた音が、倉番小屋の中に響いた。
「片方は、わしが持つ」
トマは片方を、懐にしまった。
「もう片方は、エルマに」
千束はもう片方の割符を、油紙に包んだ。
救援の麦は、天命院の許しを得た船でしか運べない。特急令がそう決めていた。四十袋は、天秤の紋の船に積まれることになった。千束は何度も王女に掛け合ったが、それだけは変えられなかった。
だから、割符は別の船で送ることにした。
ネーヴァの組合の若い船頭が、ちょうど国境へ戻るところだった。千束は油紙の包みと、エルマ宛ての短い手紙をその船頭に預けた。
救援麦、四十袋。ロット三〇八。袋〇一から四〇。割符の刻み四十。届いたら、袋の札と割符を合わせて、数を確かめてください。
「エルマ婆さんに、必ず渡すよ」
若い船頭は包みを懐に入れ、小舟を出した。
ダンは夜明け前に、西の支流の粉倉へ麦を届ける荷車を引いて出ていった。毎朝の届けは、救援麦の日でも止められなかった。
昼前、天秤の紋の大きな船に、四十袋の救援麦が積み込まれた。積み込んだのは、天秤商会の荷役たちだった。
千束は船着き場の石段に立って、袋の一つ一つの札を目で追った。四十枚。全部、そこにあった。
船が、ゆっくりと岸を離れた。
帆が風をはらみ、船は流れに逆らって、上流へ向かって進み始めた。
河の上流。半日のところに、葦の茂る中洲がある。
千束は船が見えなくなるまで、石段の上に立っていた。
懐の手帳の中には、千束の書いた四十の番号が静かに並んでいた。トマの懐の割符に刻まれた、四十の刻みと同じ数だった。




